芝村(読み)しばむら

日本歴史地名大系 「芝村」の解説

芝村
しばむら

[現在地名]川口市芝・芝一―五丁目・芝新町しばしんまち芝中田しばなかだ一―二丁目・芝下しばしも一―二丁目・芝園町しばぞのちよう芝富士しばふじ一―二丁目・芝樋しばひつめ一―二丁目・芝西しばにし一―二丁目・芝塚原しばつかはら一―二丁目

前川まえかわ村の西、塚越つかごし(現蕨市)の北に位置し、北は大田窪だいたくぼ(現浦和市)。ほぼ平坦であるが、北西部は大宮台地の南端にあたる。村の中央を見沼代用水(西縁)が南流する。中世には芝郷に含まれた。元和九年(一六二三)九月の芝郷長徳寺領御縄打水帳(長徳寺文書)があり、田四町一反余で分米三六石余、畑九反余で分米三石余。ほかに同月の芝郷観音免新田御縄打水帳(同文書)があり、田一町五反余・畑三反余で、分米の記載はない。田園簿では田一千七一九石余・畑二六二石余で、幕府領一千四六石余・旗本安西領九三六石余。ほかに長徳ちようとく寺領四〇石・大明神(羽尽明神社)領一五石・八幡(鶴ヶ丸八幡社)領一五石・慈星じしよう院領七石がある。慶安二年(一六四九)八月長徳寺の円通えんつう寺観音堂が徳川家光から二〇石を寄付されている(「徳川家光朱印状」長徳寺文書)。安西氏は寛永一六年(一六三九)元真の代に五〇〇石を加増、一千三〇〇石を足立郡の内に与えられ(寛政重修諸家譜)、当村のほか小谷場こやば村三〇四石余、つじ(現浦和市)の内で五九石余を知行することとなった(田園簿)。万治二年(一六五九)元真は弟の元仙に小谷場村の三〇〇石を分知している(「寛政重修諸家譜」「風土記稿」など)

享保一六年(一七三一)上谷沼うわやぬま中田原なかだはら両新田の検地が行われ、のち二三〇石余が高入れとなった(宝暦一三年「村明細帳」須賀家文書)。宝暦五年(一七五五)の村高書上(同文書)によると高二千二三七石余で、うち幕府領一千七一石余・安西領九三四石余、上谷沼・中田原両新田二三〇石余。


芝村
しばむら

[現在地名]東大阪市中石切なかいしきり町一―七丁目・北石切きたいしきり町・東石切ひがしいしきり町一丁目・同四―六丁目・上石切かみいしきり町一―二丁目など

生駒山西麓のおと川扇状地上にある。北は日下くさか村、南は神並こうなみ村ほか。先土器時代のサヌカイト製ナイフ形石器が採集された千手寺山せんじゆじざん遺跡や、塚山つかやま古墳(中期)がある。文化一一年(一八一四)の願書(岩崎康子家文書)に「当村之儀、生駒山之西麓屏風ヲ立たることく、山根ニテ旱之節ハ山水乏敷旱損強、大雨之節ハ番水損強ク、水旱両難ニテ自然ト村方困窮仕候」と土地の悪条件を述べている。村の中央を東高野街道が南北に通り、大坂より辻子ずし谷越に続く道が東西に走る。もと大枝おおえといい(大阪府全志)、古代河内郡大戸おおべ(和名抄)の地。中世には当地辺に法通寺ほうつうじ庄があったと考えられる。建長四年(一二五二)六月三日の藤原康高処分目録案(水走文書)の「私領四箇里内券文」に「石切林証文」とある。当地一帯を石切というが、その東部山林に関する権利が譲渡の対象になったのであろう。石切の地名は古くから石材を切出していたことより付けられた。生駒石(斑糲岩)は硬く、庭石として珍重される。


芝村
しばむら

[現在地名]松原市天美西あまみにし一―八丁目・天美北あまみきた七丁目・天美東あまみひがし八―九丁目・天美我堂あまみがどう七丁目・天美南あまみみなみ六丁目

城連寺じようれんじ村の西にある。もとは西除にしよけ川の左岸であったが、宝永元年(一七〇四)大和川付替えで五〇〇メートル北方を大和川が西流し、西除川は村の南五〇〇メートルを北西に流れることになった。

丹北郡に属し、文禄検地は六尺五寸竿で高三四五石余(享和二年「狭山藩領村方明細帳」中之島図書館蔵)。江戸時代初期には油上ゆかみ村とともにすな(沙)村とよばれていた(「城連寺村記録」長谷川家文書など)


芝村
しばむら

[現在地名]西宮市西福町さいふくちよう神明町しんめいちよう芦原町あしはらちよう神祇官町じんぎかんちよう両度町りようどちよう高松町たかまつちよう南昭和町みなみしようわちよう北昭和町きたしようわちよう丸橋町まるはしちよう

御手洗みたらし(東川)津門つと川の間にある武庫むこ郡の村。なか村の東にある。村域に神祇官田の小字があり、広田ひろた神社かまたは中世に広田社領を管掌していた神祇伯王家(白川家)になんらかのかかわりがあったとみられる。慶長国絵図に村名がみえ、高二六二石余。正保郷帳も同高。初め幕府領、元和三年(一六一七)尼崎藩領となり、寛文四年(一六六四)より尼崎藩青山氏分家の旗本青山(幸正系)(兵庫史学)


芝村
しばむら

[現在地名]瀬戸内町芝

薩川さつこ村の北東に位置し、集落は瀬戸内に臨む。南西に高鉢たかばち山があり、北の岬に芝立神がある。東に突き出た小半島に深浦ふかうらの集落、デリキョンマ崎がある。西にし間切実久さねく方のうち。正保琉球国絵図に「西間切之内芝村」とみえ、やや内陸に入った道が記されるほか、海岸部に「すけわくの崎」「いなかさ崎」「赤崎」や立神がみえる。また当地の浦は湊の機能をもっていたらしいが、西風・北風・東風の折には船の係留ができないと記している。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳でも西間切一一ヵ村のうちとして「芝村」とある。「大島私考」には実久方一三ヵ村のうちとして村名がみえ、高一一三石余、うち享保内検後の開地は一石余、役屋敷分三斗余。


芝村
しばむら

[現在地名]箕面市芝・坊島ぼうしま一丁目など

東稲ひがしいな村の東側にある。村の南部は千里丘陵に続き、丘陵麓を千里川が西流、北部を西国街道がほぼ東西に通る。豊島てしま郡に属する。中世は萱野かやの郷に含まれ、慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に「シハ村」とみえる。領主の変遷は西稲村に同じ。村高は享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調によると二七六石余。摂河泉の牛売買は天王寺てんのうじ(現天王寺区)の牛問屋井川(石橋)孫右衛門が取仕切っていたが、天明二年(一七八二)萱野郷の村々では他地域にさきがけてその支配から脱した。


芝村
しばむら

[現在地名]中辺路町栗栖川くりすかわ

石船いしぶり川と鍛冶屋かじや川が南西に向かう富田とんだ川に合流する付近に位置し、北と東は高原たかはら村、南は真砂まなご村、西は鍛冶屋川かじやがわ村の小皆こかい。南部を熊野街道中辺路がかすめる。中央部を西の潮見しおみ峠と高原を結ぶ中辺路が通じ、集落は中辺路沿いに、小名みねは富田川右岸の山腹にある。「続風土記」に「芝生しばふにて平地の義より出つ」と記される。

慶長検地高目録によると村高三四〇石余。和歌山藩田辺領で、元禄年間(一六八八―一七〇四)の「紀南郷導記」によると、棟数三九、伝馬一三で、中辺路の宿駅であった。


芝村
しばむら

[現在地名]日高町東芝ひがししば西芝にししば

池上いけがみ村の北東に位置する。江戸時代は初め出石藩(慶長一八年―元和五年は和泉岸和田藩領)であったが、寛文六年(一六六六)小出吉重の襲封に際し外孫英勝に一千石を分知、当村の一部(西芝村と俗称)は英勝(陣屋を山本村に置いたため山本小出氏と通称)の知行地となる(慶長一八年「小出吉英所領目録」金井文書、「寛政重修諸家譜」「寛文朱印留」・出石封内明細帳など)


芝村
しばむら

[現在地名]加古川市平荘町養老へいそうちようようろう

さと村の東に位置し、南東は加古川に接する。近世には対岸の大野おおの村との間に芝渡があった(増訂印南郡誌)。天文元年(一五三二)八月一七日の報恩寺旧記覚(報恩寺文書)では薬師堂や鎮守天神が存在した。慶長国絵図には志葉しば村とみえる。正保郷帳によれば田方一九七石余・畑方七七石余。寛保二年(一七四二)の村明細帳(平之荘神社文書)では田一〇町七反余・分米二一二石余、畑五町四反余・分米六二石余、新田畑三反余・分米三石余、小物成は犬米・草藁銀・請林運上銀・高瀬舟三艘役米、かうぎ谷山の運上銀一三匁、糀売札五枚、郷蔵一、家数三七・人数二〇八、酒屋一、蔵本一、牛七、横渡シ小船一、産物は木綿、天神社がある。


芝村
こうげむら

[現在地名]勝山町月田つきだ

月田川を北に望む台地上にある。東は手谷てたに村、南は和田わだ村、西は手谷村の枝村桑林くわぶろさくら、北は宮原みやはら村。「作陽誌」によれば月田七ヵ村の一。正保郷帳に村名がみえ、田高二〇石余・畑高二四石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では村位は下、改出高一五石余・開高二石余。「作陽誌」の家数一四・人数八一。領主の変遷は江川えがわ村と同じ。明治一四年(一八八一)手谷村など六ヵ村と合併して月田村となった。


芝村
しばむら

[現在地名]白浜町富田とんだ

北は十九淵つづらふち村、東は高瀬たかせ村、西は富田川を挟んでなか村。富田浦の一村で、集落は熊野街道大辺路に沿って散在する。「続風土記」に「古芝原を墾りて田を開き村居をなしたるより村名とせしなるへし」と記され、戦国時代は富田川東南の地に進出した内川氏の勢力が及んだと伝える。

慶長検地高目録によると村高一六四石余。元和五年(一六一九)以降和歌山藩田辺領。富田組に所属。延宝年間(一六七三―八一)頃の加子米は九・六石(「御領分加子米高帳」田中家蔵)


芝村
しばむら

[現在地名]海部町芝

野江のえ村の西に位置し、北を海部川、南をはは川が東流する。地内の地蔵寺に明徳元年(一三九〇)銘の逆修板碑が建てられている。慶長二年(一五九七)の分限帳に「柴村」とあり、高三七一石余が益田宮内丞の知行分。慶長年間のものと推定される国絵図に「志は」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「志ば村」と記される。正保国絵図では「芝村」として高三七四石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方三四四石余・畠方三〇石余、芝山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高二七八石余。


芝村
しばむら

[現在地名]日高町芝

猪子垣いのこがき村の東、三方みかた盆地の北部に位置する。江戸時代の領主の変遷は猪子垣村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高一二八石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも同高。寛文八年(一六六八)には高一三七石余、高持百姓数三、天明元年(一七八一)には高一六四石余で三五名(日高町誌)


芝村
しばむら

[現在地名]広見町芝

奈良なら川下流域の村。東は永野市ながのいち村、西は中之川なかのかわ村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「芝村 茅山有」と村名がみえる。宇和島藩領。

太閤検地の石高は二二六石八斗三合で、耕地面積の比率は田九五パーセント、畑五パーセント。寛文検地の石高は三二パーセントも減少し、田八五パーセント、畑一五パーセントとなっている。「墅截」によると、村柄は「中」、田が「中」、畑は「下」とされ、水掛りは「吉」となっている。


芝村
しばむら

[現在地名]南部町芝

北道きたどう村の東に位置し、北は吉田よしだ村。南部を熊野街道が通る。中世には高野山領南部庄の一部。慶長検地高目録では村高三六六石余。宝暦一〇年(一七六〇)の南部組大指出帳(「日高近世史料」所収)によれば田畑三一町五反余で高三六六石余、家数六八で内訳は大庄屋・庄屋・肝煎各一、御役家五、無役家四一など、人数五四九、牛九、馬二、池三、井堰一。


芝村
こうげむら

[現在地名]岡山市中撫川なかなつかわ福富ふくどみ

中撫川村の西に位置し、寛永八年(一六三一)当時は撫川村に含まれていたと推定される。寛永備中国絵図では高二〇九石余、庭瀬藩戸川氏領。延宝七年(一六七九)より旗本撫川戸川領(寛政重修諸家譜、天和―元禄初期「国絵図」池田家文庫)元禄郷帳では独立村として記されるが、元禄備中国絵図では中撫川村の枝村となっており、以後同村に統合され廃村となる。


芝村
しばむら

[現在地名]春日町黒井くろい 芝町

黒井村の東端に位置し、同村の枝郷(天保郷帳)。もと同村と一村をなしていた。天和三年(一六八三)同村より分村したとみられ、同年の高四四六石余。小物成は夫役・柴役・糠藁・竹の銀納(「亀山藩知行高並小物成帳覚」氷上郡志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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