菅沼村(読み)すがぬまむら

日本歴史地名大系 「菅沼村」の解説

菅沼村
すがぬまむら

[現在地名]小山町菅沼

北流する鮎沢あゆざわ川を挟んで所領しよりよう村の西に位置し、村の北辺を同川支流の川が東流する。村域は鮎沢川と須川に囲まれる河岸段丘状の平地と、阿多野あだの原の一角を占める原向はらむきの台地から構成され、須川を挟んで北は藤曲ふじまがり村・湯船ゆぶね村・上野うえの村、西は阿多野新田吉久保よしくぼ村。「駿河記」は菅の繁茂する広い沼があったことが地名の由来とし、慶長九年(一六〇四)の水帳(岩田家文書)には「菅沼之処」、正保四年(一六四七)検地帳(同文書)には「菅沼」の地字がある。現在も菅沼という小字が残り、付近には湧水があり、また中世土豪の館跡と伝える岩田いわた館がある(小山町史)。地内新屋あらやの字とうもとにある曹洞宗甘露かんろ寺住持徳勝が建立した嘉慶(一三八七―八九)の年紀がみえる宝篋印塔には「駿州菅沼県」とある。永禄一三年(一五七〇)三月一七日、北条家は「菅沼村」の岩田惣右衛門・同三郎左衛門に宛てて朱印状(岩田家文書)を発し、武田信玄御厨みくりや地方への侵攻で離村した百姓たちの帰村を命じ、諸役免除を認めている。

慶長四年(一五九九)七月の横田村詮の法度(岩田家文書)によると年貢率は「毛付ニ七ツ」であった。


菅沼村
すがぬまむら

[現在地名]上平村菅沼

した村の北、庄川が北流から東流に変わる地点の右岸河岸段丘に位置する。東は細島ほそじま村へ一二町。当村までが五箇山ごかやま五谷の赤尾あかお谷で、ここから下流が上梨かみなし谷となる。庄川対岸へは籠渡しが架かり、五箇山道(飛州小白川村間道)と結ばれる。籠綱の総長二九間、うち八間は両詰巻留間数、二一間は籠通用間数。藤切人足・籠綱打立引渡人足は三四人ほど、うち二七人ほどは当村、七人ほどは細島村(五ヶ山籠渡覚「十村宅左衛門覚書」寿川区有文書)


菅沼村
すがぬまむら

[現在地名]駒ヶ根市中沢なかざわ 菅沼・穴山あなやま

天竜川の東岸、吉瀬きせ村の北、東南は永見山ながみやま上高見かみたかみの村に接する。天文一七年(一五四八)の諏訪社上社の神使御頭之日記に「内県介 真志野 宮付明侯、中沢・菅沼」とあるのが文献上の初見である。諏訪社上社に奉仕し、天正七年(一五七九)の上諏訪造宮帳(諏訪大社上社文書)の磯並宝殿の条には

<資料は省略されています>

とある。

村の中ほどの曹洞宗天監山常秀院の南に菅沼阿波守の居城と伝えられる菅沼城の城跡がある。


菅沼村
すがぬまむら

[現在地名]川本町菅沼

明戸あけと村の西に位置し、西は田中たなか村、南は荒川を隔て男衾おぶすま本田ほんだ村。村の中央よりやや南を東西に秩父往還が通る。天正七年(一五七九)八月一八日の聖護院門跡御教書(篠場文書)によると、長命ちようめい(現江南町)に「菅沼」の旦那職などが安堵されている。田園簿には管沼村と誤記され、田方一三石余・畑方一三二石余、旗本大久保領。貞享元年(一六八四)の地改帳(田島家文書)に田一町二反余・畑二〇町三反余・屋敷八反余とある。元禄郷帳では高一三五石余。宝暦六年(一七五六)大久保氏に継嗣がなく、知行地は収公され幕府領となる(寛政重修諸家譜)。明和三年(一七六六)上川原かみがわらで畑三町余、寛政元年(一七八九)に畑三町二反余の各六石余の新開地が高付されている(各年「新田検地帳」田島家文書)


菅沼村
すがぬまむら

[現在地名]作手村菅沼

善夫ぜんぶ村の北。南に流れる菅沼川の谷に沿う。西は広大な山地を隔てて東加茂郡に接する。北部に上菅沼、南に約二キロを隔てて下菅沼に分れる。元禄年間(一六八八―一七〇四)に分れて上菅沼村・下菅沼村と称した。慶長七年(一六〇二)より作手藩領、同一一年より新城藩領、正保二年(一六四五)より幕府領を経て慶安元年(一六四八)からは海老菅沼氏の領地となって幕末に至る。

上菅沼の東北のくち遺跡は縄文中期から弥生期の土器、土師器須恵器も含む遺物散布地であり、また下菅沼との間、菅沼川左岸のヌメガイツ遺跡、その対岸の本城室屋敷ほんじようもろやしき遺跡はともに弥生後期のものである。


菅沼村
すがぬまむら

[現在地名]村上市菅沼

北西へ流れる門前もんぜん川左岸山麓にあり、東は赤沢あかさわ村、北西は鋳物師いもじ村に接する。永正六年(一五〇九)九月一一日の耕雲寺領納所方田帳(耕雲寺文書)に「菅沼彦七」として「七百地梨木田本作山中之六郎左衛門役二百十文 鮎川賀州之分」などの記載がある。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大国但馬分下すがぬま村 下」とみえ、本納一五石八斗五升・縄高二九石四斗六升八勺・家四軒とある。その上流に「大国但馬分上菅沼村 下」があり、本納一六石四斗五合五勺・縄高五三石七升五合二勺、家三軒。正保国絵図では「菅沼村」と一村で記され、高一三〇石余。天保九年(一八三八)の日下組村々御案内帳(小田彦左衛門氏蔵)によれば高一四六石四斗余・田畑一七町二反余、家数二二(うち百姓一二・水呑一〇)・人数一二二、馬一二。


菅沼村
すがぬまむら

[現在地名]片品村菅沼

筑地ついじ村の北、小立沢こたつざわ山北裾に位置。会津街道金精こんせい峠を越えて日光へ通ずる日光道も当地を通った。小字西原にしはら合途ごうどとよばれる所があり、道祖神が祀られ、「右小川道」「左土出道」とある。寛文郷帳によると田方一石余・畑方四一石余。寛文三年(一六六三)の真田領村高書上控では高一九三石余。延宝九年(一六八一)の熊胆上納届(県立文書館蔵)によると、同年三月村内「こたつ沢山」で熊を撃ち、胆を上納している。天和元年(一六八一)の郷村品々記録(小林文書)によると菅沼山は鷹巣山に指定されていた。


菅沼村
すがぬまむら

[現在地名]宮川村菅沼

種蔵たねくら村の東、菅沼谷中流の高い段丘上にある。かつて菅の茂った沼があり、今もその一部が残り、池田いけだの小字もある。小島こじま郷に属し、元禄検地帳(宮川村文書)では高二三石余、田六反余・畑五町九反余、漆七二束(四畝余)、ほかに焼畑四町二反余とあり、名請人は一〇人、屋敷持は二人の家抱えを入れて一二人。ほかに種蔵村よりの入作者四人。「飛騨国中案内」では免三割三分四厘余、家数一一(うち百姓一〇・門屋一)。安永三年(一七七四)新田検地(宮川村文書)では高一四石余・反別七町六反余、名請人は一四人で、ほかに種蔵村からの入作者二人。


菅沼村
すがぬまむら

[現在地名]安塚町菅沼

北流するほお川左岸の緩傾斜地に位置。北は切越きりこし村、南は朴木ほおのき村。東と西は丘陵尾根が延びる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「直嶺分菅沼村 中」とあり、本納五石九斗四升・縄高九石四斗四升二合、家二軒・八人。正保国絵図では高一五石余。天和三年郷帳では高二一石九斗余。蓮浄寺本によれば、高のうち山高二石二斗九升六合・漆高三升、反別田一町二反余・畑屋敷一町三反余・山林一一町で漆木三〇本。


菅沼村
すがぬまむら

[現在地名]会津高田町吉田よしだ

明神みようじんヶ岳北東山中にあり、東は小山こやま村。近くに雄沼・雌沼があり、総称を菅沼といったための村名というが、すでに沼はない(新編会津風土記)。近世は会津領から寛永二〇年(一六四三)以降南山御蔵入領で、冑組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高四五石余。


菅沼村
すがぬまむら

[現在地名]新井市菅沼

大毛無おおけなし(一四二九メートル)の東山麓、矢代やしろ川右岸に位置し、上流は菅沼新田、下流は村と接する。正保国絵図に高五七石余とある。天和三年(一六八三)の検地帳(岡田俊介氏蔵)では田八町六反余・畑二町余、うち屋敷五反余とある。天和三年郷帳に高一〇四石四斗余とある。寛延二年(一七四九)の五人組御仕置帳(岡田拳蔵氏蔵)によれば戸数一八、うち一〇石以上の高持は二戸であった。


菅沼村
すがぬまむら

[現在地名]小国町菅沼

足水中里あしみずなかざと村の東方にある。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高六九石余、免二ツ二分、家数六(うち役家三・肝煎一)・人数三八、役木として桑をあげる。蒲生氏高目録帳では菅沼は「一野沢」と併記され村柄は下、修正前の高四一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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