(読み)ヒゲ

デジタル大辞泉 「髭」の意味・読み・例文・類語

ひげ【×髭/×鬚/×髯】

人、特に男性の口の上やあご・ほおのあたりに生える毛。
動物の口のまわりに生える長い毛状の突起物。また、昆虫の口器にみられる二対の細い突起物。
12を思わせる形状のもの。「巻き―」「―根」
[補説]「髭」は口ひげ、「鬚」はあごひげ、「髯」はほおひげをいう。
[下接語]青髯赤鬚あご植え髭うわカイゼル髭書き髭かま鯨鬚口髭黒髭コールマン髭小髭下鬚じゃの髭鍾馗しょうき白髪しらがチャップリン髭ちょび髭作り髭付け髭天神髭泥鰌どじょうとらなまず八字髭無精髭ほお巻き鬚山羊鬚やっこ竜の髭
[類語]鬚髯口髭顎鬚頰髯ちょび髭無精髭付け髭

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改訂新版 世界大百科事典 「髭」の意味・わかりやすい解説

髭/鬚/髯 (ひげ)
palp

本来は,男子の顔面部,ほお,あご,および口の周りに生ずる,長く伸びる毛の房を指す(それぞれ漢字では髯,鬚,髭をあてる)が,転じて哺乳類の同様な毛の房,および上唇などに生える触毛をいうばかりでなく,これらに似た毛状の突起物をも,機能に関係なく,ひげということが多い。例えば,魚類のひれの前にある鰭刺(きし)を触鬚(しよくしゆ),ヒゲクジラ類の口内にある角質の板をくじらひげ,鋏角類の脚にある突起物を脚鬚(きやくしゆ)pedipalpというたぐいであり,植物でも,つるの先端を巻きひげ,単子葉類の根をひげ根という。哺乳類で俗にひげと呼ばれるのは,上唇に生える触毛vibrissaで,体毛よりもはるかに太く,長くかつ硬く,毛根が毛囊に緩く収まり,その部を感覚神経の終末が取り巻いているので,この毛の先端が物に触れると,敏感にそれを感知する。同様な触毛(血洞毛)は,あまり目だたないが,目の上,ほお,おとがい,のどにもあり,ネズミ,ウサギ,ジャコウネコ,ネコなど,草やぶをくぐり抜けて活動するものでは,それらの先端は,その動物が通過できる円を形成する。オオヤマネコでは同様な触毛が耳介の先端にもある。また,これらの動物では,それが手根部などにもあることが多い。触毛はカワウソアザラシ,アシカ,オットセイなど,水にもぐって水底で獲物を探すものにもよく発達していて,セイウチでは箸(はし)のように太いものが上唇に密生している。ヤギ,アイベックスなどの下あごに生えるあごひげbeardは,男子のあごひげに似たものだが,その基部の皮膚には臭腺が発達していて,臭いを発散する面積を著しく増大しているらしい。あごひげはヌー,ヒゲサキザル,ダイアナモンキーブラッザモンキーなどにもあるが,臭腺との関係は不明である。トラ,オオヤマネコ,カワイノシシエリマキキツネザル,ドリル,ラングールなどには,耳の下からのどにかけてほおひげwhiskerが発達する。また,エンペラータマリンには長いカイゼルひげそっくりの口ひげmustacheがあるが,人間のひげと違って二次性徴ではなく,雄雌ともに同様のものが発達する。
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日本語では生えている部位の語に〈ひげ〉をつないでくちひげ,あごひげ,ほおひげなどと呼び,髭(し)(英語m(o)ustache),鬚(しゆ)(同beard),髯(ぜん)(同whisker(s))のように別々の単語で表していない。埴輪(はにわ)からうかがえば,古代の日本人にはひげを蓄える者が多くはなかったようである。《魏志倭人伝》は,倭人の男が貴賤(きせん)を問わず黥面(げいめん)(顔に入墨を施していること)であると述べて髪形や衣装も略記しているが,ひげの話はない。奈良時代から平安時代までの支配階級のなかには,肖像画にひげを残す人物も少なくないが,実際ひげがあったかどうか不明である。C.ダーウィンは,インドを境として以西の諸人種にはあごひげがよく発達しているが,以東では日本人も含めてひげは少なく,アイヌだけが例外であるという。けれども,ひげは民族の遺伝的特徴だけでなく,文化的特徴も現しているから,時代による風俗の変遷を無視して一概にひげの多少を決めつけることはできない。平安貴族たちがひげを愛好したとはいえないが,鎌倉時代以後の武士階級はひげを好んだ。《骨董集》(1815)は〈古画を見るに,髭なき男子はまれなり。昔は髯うすき者は仮髯(つくりひげ)をさへしたりと聞ける〉と述べ,昔から関東では成人男子を髭男(ひげおとこ)とほめたので諸侍は髭を願い,ほお髭は鍾馗(しようき)髭として好まれたが,あご髭は天神髭(菅原道真の肖像画のような二峰の鬚)としてあまり好かれなかったという《見聞軍抄(けんもんぐんしよう)》(1614)の言を引用している。能面にもひげのあるのが少なくない。戦国時代の武士だけでなく,江戸時代の奴(やつこ)たちもひげを求めて墨で描いたり,付けひげを用いたりした。さらに明治以後も政治家や軍人などの間にひげが流行して庶民にも及んだが,明治天皇の影響も少なくなかったと思われる。現代でもひげの小流行が何度か見られる。

 ただし,日本の神話にはひげについてはあまりみえず,素戔嗚(すさのお)尊の八握鬚髯(やつかひげ)(《日本書紀》)が目だつ程度である。これに対して古代中国には,巨人盤古の死後に髪や髭から星を生じた話や,《列仙伝》や《神仙伝》に登場する多くの超人たちがみごとなひげをもって描かれていることなどがあるばかりではない。《三国志》の英雄もみなひげを蓄えており,なかでも孫権の高貴な紫髯と関羽の美髯が際だっている。〈羽美鬚髯,故亮謂之髯。羽省書大悦,以示賓客〉(《蜀書》関羽伝)。しかし,ひげの意味づけと神話や伝承は中近東より西にとくに多い。

 二次性徴である乳房が女と女性的観念の象徴であるように,二次性徴としてのひげは,男および男性的な観念である権威や権力の象徴である。両性具有の姿として生殖と豊穣(ほうじよう)の神をあがめた古代人は,シュメールでは母神イナンナにひげを生やし,キプロスでは髯のあるアフロディテを祀った。また当然のことながら,イスラエルヤハウェと預言者たち,イスラムのムハンマドマホメット),ギリシア神話のゼウス,北欧神話のオーディンらはみな,りっぱなひげがある。エジプト神話のオシリスは光り輝く宝石から成る長い編みひげを有していた。他の神々も編みひげをもち,神の子であり神と同体の歴代の王(ファラオ)たちもツタンカーメンの〈黄金のマスク〉に見られるような編みひげを蓄えたし,女王も宝石を飾った付けひげを用いることがあった。貴族のひげは許されたがほかの人々には認められず,家人の喪に服する間だけはひげが伸びても容認されたという(ヘロドトス《歴史》)。

 ひげと神権または王権との結合はあまねく見られ,アッカド王国の創始者サルゴンはほおから下を豊かな編みひげで覆い,ペルシアの王や貴族は金粉や金糸を添えたひげを誇り,女王も付けひげを黄金の鎖でとめていた。さらに時代を下ればアーサー王のひげがあり,《ローランの歌》はカール大帝シャルルマーニュ)の白ひげを繰り返し歌っている。東ローマ皇帝コンスタンティヌス4世はPogonatus(鬚皇帝)とあだ名され,キューバ革命を成し遂げたF.カストロはEl Barbudo(髭男)と呼ばれている。

 ひげを敬った古代ギリシア人は医神アスクレピオスに金の髯を与え,神話中最強の英雄ヘラクレスにみごとな髭をつけただけではない。ソクラテスは白いひげでほおから下を包んでいたが,一般にひげは知の象徴として敬われており,当時の人々にならってローマの詩人ペルシウス・フラックスも彼を〈ひげ先生〉と称している。さらにユダヤ人,トルコ人,ペルシア人などの間でも,ひげは男性的な権威の印であって,これをそることは致命的な恥辱だった。ひげをむしるのはもちろんのこと,触れることさえこの上ない侮辱行為とされた。ダビデ王の遣わした使者がアンモン人の王ハヌンによってひげをそり落とされたことから戦争が起こっている(《歴代志》上19:1~5,《サムエル記》下10:1~14)。ユダヤ人がもっぱらひげを生やしたのは,体を毛で覆えば悪魔や悪霊から身を守れるという信仰と,彼らにとっては邪教であるバアル神をあがめる神官がひげをそる習慣があったのでこれと区別するためと,父なるヤハウェや預言者たちが豊かなひげをもっていたのでこれに似せようとしたためである。ひげをそるなというモーセの律法が通用するゆえんであり,アッシリアの王(《イザヤ書》)やモアブの人々(《エレミア書》)が髪とひげをそられるのもこのためである。この考えは罪人の髪を刈り,ひげをそる現代の習慣にも影を落としているといえようか。古代ギリシア人と同様,他人のひげに触れることはユダヤ人にとってときに友情の表現ともなった。ムハンマドのひげに誓うイスラム教徒と同様に,今も自分の髭に宣誓する習慣がユダヤ人にはある。鬚や髯は宗教的イメージに絡むが,髭は男性的権威の印であった。キリスト教でもパウロやニコラウスはひげをもった聖人である。

 チョーサーの《カンタベリー物語》の男性巡礼者たちの大半は,その容貌(ようぼう)がひげによって鮮やかに読みとれる。中世のイギリスでも成人男子はひげがあるのが普通だった。ヘンリー2世やエドワード3世などはひげに尊敬を集めたし,ジョン王はアイルランドの反乱者たちを罰してひげを切ったため,かえって反感をつのらせている。T.モアは処刑台の前でひげの手入れをしながらひげの名誉を主張した。ヘンリー5世以後はひげのない国王が続き,エドワード6世やエリザベス1世はひげに課税しようとして徒労に終わった。エリザベス朝期は趣向を凝らしてひげをよそおった全盛期で,その後はしだいに魅力が失われ,男性の関心はむしろ鬘(かつら)に移っていき,ひげはそり落とされるようになった。

 ヨーロッパ全体でも事情は同様で,17世紀後半から約200年間,ひげを軽んずる風潮が続いている。そしてこのひげの退潮期の17世紀末にヨーロッパを視察して帰国したロシアのピョートル1世は,みずからはさみを持って貴族廷臣らのひげを切り落とし,一連の法令を発して〈ひげ税〉を国民に強制した。けれども,もともと薄い髭しかなかった大帝は例外的で,スラブ民族は古来ひげを重んじており,ひげにまつわる神話や伝承も多く,法典《ルスカヤ・プラウダ》でも他人のひげを引き抜くことに高額の罰金刑を科していたし,ひげのない男の誓いは信用されなかったばかりでなく,16世紀半ばには〈正教徒たる者,ひげをそるべからず〉という法令さえ出たほどである。〈ひげ税〉は国中に憤懣(ふんまん)を呼んで,エカチェリナ1世がさらに法令を強化したが失敗し,同2世に至ってこれを廃止して,再びひげは自由を得た。

 19世紀はショーペンハウアーのように,二次性徴であるひげを男の顔の真ん中にもつなどわいせつで野蛮だとする考えも強くあったが,芸術家たちをはじめとしてひげを生やした者も少なくなかった。ショパンは奇をてらって聴衆に見える顔の右側にだけひげを生やし,モーパッサンの愛称は〈La moustache〉であった。クリミア戦争(1853-56)は戦地の厳寒がぶしょうひげにつごうのよい口実になり,以後は強力の象徴として軍人の間に残って,日本の大山巌,東郷平八郎,乃木希典その他にまで影響を及ぼしている。もっとも,ひげは戦闘の際につかまれるから不利だとして,兵士にこれを禁止したマケドニアのアレクサンドロス3世のような例も古代にはある。

 自身もひげの豊かなダーウィンは《人類の起原とその性淘汰》(1871)でひげについても各地の習俗を紹介した。マルクス以来,レーニン,トロツキー,スターリン,ホー・チ・ミンなど,社会主義革命の指導者の多くがひげを生やし,他方,ビスマルク,〈カイゼルひげ〉のウィルヘルム2世やヒトラーもひげで目だっている。ドストエフスキー,ロングフェロー,L.N.トルストイ,イプセン,ラスキンその他,文芸の大家たちにもひげは愛されている。
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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【口器】より

…大あごの下側には小あごが,さらにその後面を下唇が覆う。小あごと下唇には通常,味覚などの感受器が分布する口鬚(こうしゆ)(くちひげ)palpがある。下咽頭の基部には,アミラーゼなどの消化酵素を分泌する唾液(だえき)腺が開口している。…

【顔】より

…ヒトでは顔には生毛がはえていて,終生毛としてはまゆげとまつげがあるのみである。ただし男子では青春期になると口のまわり,ほお,おとがいなどの生毛が終生毛に変わって須毛(ひげ)となる。なぜサルとヒトとだけが顔に生毛がはえているのかは不明である。…

※「髭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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