改訂新版 世界大百科事典 「魏晋南北朝美術」の意味・わかりやすい解説
魏晋南北朝美術 (ぎしんなんぼくちょうびじゅつ)
Wèi Jìn nán běi cháo měi shù
大帝国を築いた秦・漢と隋・唐の間にはさまれた魏晋南北朝は,天下を再統一した西晋のごくわずかの期間を除けば,分裂の時代であり,とくに晋が南遷して建康(南京)に東晋を建ててからは,胡族の北朝と漢族の南朝に分かれ相対立した。したがってこの時代の美術は,統治者である胡・漢両民族の性格の違いや,南北の気候風土の差を反映して,はっきりと北朝美術と南朝美術に二分される一方,文化のにない手として貴族階級が台頭したこと,また新たに西方から仏教文化が流入したことによって,前代の漢と異なる独自の様相を呈した。
この時代の美術の特筆すべき点の一つは,芸術家が登場し,美術が芸術として自立したことである。漢代までは,美術作品のほとんどが無名の工匠たちによって,実用目的に沿って作られ,作者自身の人格の裏付けをもたなかったが,魏・晋に至ると,名をもった芸術家が現れ,作者自身の人格の発露として,実用目的を離れた芸術それ自体を追求した。この現象は,まず書画の領域に現れ,書において,楷書,行書をたくみとしたという魏の鍾繇(しようよう),張芝は,作品が伝世せず不確かであるが,東晋の王羲之(おうぎし)は楷・行・草の三体を極めて,貴族的な典雅な書を作り,子の王献之とともに,書の芸術としての地位を確立した。また絵画においても,呉の曹不興については不明確であるが,王羲之と同じ東晋の顧愷之(こがいし)は,肖像,人物故事を描いて,対象のもつ神(しん),すなわち生命あるいは精神をとらえ,宋の陸探微,梁の張僧繇(ちようそうよう)とともに六朝絵画芸術の三大家を成した。
こうした芸術の自立の背景には,むろん当時の思潮の大きな変化があった。漢代に儒教が思想的に体制を支え,美術の面にもその礼教主義,勧戒主義が及んだが,漢王朝が倒壊するや,儒教に批判が向けられ,代わって〈竹林の七賢〉(七賢人)や〈清談〉に象徴されるごとく,老荘思想を中心に易を加えた玄学が流行し,礼教主義にのっとる政治や道徳に拘束されない自由な超俗の精神が広まった。芸術はこの玄学や超俗の精神と不可分な関係にあったが,単に世俗を超えて芸術に遊んだというだけでなく,教養ある人格が世俗から超越するためのよりどころとして芸術を必要とし,その自立性の証しとして天然,神といった高次な永遠なるものが追求されたのである。また,これら書画の芸術性を高めるべく,鑑賞,批評も盛んで,宋の虞龢(ぐか)の《論書表》,梁の庾肩吾の《書品》,南斉の謝赫(しやかく)の《古画品録》などの書画論が著された。そこでは書画の品等,つまり優劣の比較がおもに論じられたが,別に絵画を理論的に述べたものとして,宋の宗炳の《画山水叙》,王微の《画叙》などがあった。ただこれらの芸術は主として南朝にみられ,胡族の統治する北朝では,文化の発達が遅れたのに加えて,政治的締め付けが強く,芸術の自立的展開は南朝ほどではなかった。しかし漢代の隷書を発展させて質朴・勁健を宗とする独特の書風で,石碑,磨崖,造像記,墓誌銘などを書いたのをはじめ,北斉の時代には,ようやく楊子華,曹仲達などの画家も出た。だがいずれにしても,この時代の遺品の数はきわめて乏しく,王羲之の《喪乱帖》,顧愷之の《女史箴図》といった後世模本,あるいは南京西善橋南朝墓の竹林七賢と栄啓期図磚画,太原市南郊の北斉婁叡墓壁画などの墳墓出土資料を通してうかがうしか手はないのである。
ところで,魏晋南北朝美術を支えたいま一つは仏教美術である。仏教は後漢の明帝のころに伝わったといわれるが,後漢末のホリンゴール(和林格爾)漢墓や沂南(ぎなん)画像石墓では,仏教図像が中国古来の西王母などの神仙にまじって表され,伝来当初における仏教受容のありさまが知れる。そして仏像が純粋に仏像として表されたのは,3世紀後半以後のことで,中国美術はここに初めて,純粋な意味での宗教における超越的存在を表現することになった。むろん,最初はインド美術の深甚な影響下にあり,現存する最も古い仏像は,ガンダーラ様式の金銅仏である。西晋から五胡十六国にかけ,これらが金人,金像ともてはやされていたが,最古の後趙建武4年(338)の銘を持つ金銅仏座像は,すでにガンダーラ様式を感じさせぬように中国化している。しかしこの様式の金銅仏も,五胡十六国の終末と命運をともにし,5世紀になると,大規模な石窟寺院が営まれる。
石窟寺院の源流はインドにあり,アフガニスタンから中央アジアを経て甘粛に入り,まず敦煌莫高窟,炳霊寺(へいれいじ)石窟,麦積山石窟などが開削され,さらに東漸して雲岡,竜門などの石窟が造営された。敦煌莫高窟は4世紀中ごろに僧楽僔が創始したといい,炳霊寺石窟は169窟北壁に西秦建弘元年(420)の墨書銘が発見されている。両石窟ともに石質がもろいため塑造で仏像を作り,周囲を極彩色の壁画で埋めている。初期の仏像は通肩で衣が膚に密着した中インドのマトゥラー様式を示し,壁画は仏伝図,本生図などが描かれた。また雲岡石窟は山西大同の西郊にあり,北方鮮卑族の拓跋部の建てた北魏朝廷の事業として,460年(和平1),沙門統曇曜(どんよう)の奏請をいれ造営された。2期に分かれ,初期は曇曜五窟(16~20窟)などに示されるごとく,堂々たる量感を示して新興の気運をみなぎらすほか,仏像は丸顔で体に薄い衣をまとったり,仏伝や本生などのフリーズ浮彫が作られるなど,西方の色彩が濃い。ところが後期になると,漢化政策の一環として486年(太和10)に始まった胡服から漢族の服装への一連の服制改革により,仏像も褒衣博帯式の中国風衣装をつけ,中国化が進んだ。この傾向は494年,北魏が洛陽に遷都し,伊水に臨む西山に営んだ竜門石窟においていっそう本格化し,古陽洞,賓陽洞などはさらに北魏上流階級の貴族文化を反映して,繊細で装飾的傾向が目だった。これは近傍の鞏県(きようけん)石窟でも同様である。その後,華北では東魏,北斉時代に,国都鄴(ぎよう)の近くに響堂山石窟,別都太原の近くに天竜山石窟が営まれ,とくに門口の尖栱(アーチ)額や側柱の唐草文に新たな西方様式が見いだされる。
このように,北朝では石窟寺院を中心に仏教美術が展開したが,金銅仏,石仏の制作も盛んに行われ,造寺,造仏の黄金時代であった太和年間(477-499)の太和仏,北斉時代の河北地方に流行した優美な白大理石像,北周の長安を中心とした黄華石像などが知られる。これに対して南朝でも,北朝に劣らず仏教が信仰され,南朝文化の最盛期をむかえた梁の武帝の時代(502-549)には,〈南朝四百八十寺〉(杜牧)とうたわれたように,都の建康では同泰寺など仏寺が盛んに建立された。しかし,仏像などの遺品の数はきわめて少なく,わずかに宋の元嘉14年(437)と同28年銘の金銅仏座像などが現存するにすぎない。ただこれら南朝の金銅仏と北朝のそれとを比べると,後者が外に向かって威光を放つかのごとく豪壮であるのに対して,前者はおとなしく内省的で優雅である。この違いは主に北朝仏教が国家仏教として発達したことに起因し,たとえば雲岡の曇曜五窟本尊が,歴代の帝王を当今の如来として表したことにもうかがえる。
このほか,魏晋南北朝美術の注目すべきものに,近年,発掘成果の著しい墳墓出土の資料がある。鬼神は漢代において墳墓装飾の主流であったが,引き続いてこの時代にも,方相氏,怪獣などが墓壁,石棺,墓誌などに表され,また南朝陵墓の墓前には石刻の獅子,麒麟(きりん),天禄などが置かれた。とくに後者は,南朝仏教彫刻の遺品の欠を補うべく,彫刻資料として貴重である。こうした神獣はまた鏡鑑の背面をも飾り,当時の人々の神仙志向を物語っている。また陶磁は,漢代と同じく墓中に人物,動物をかたどった俑や器物が副葬されたほか,浙江省一帯の南朝古越磁と河北省の北朝青磁は,この時代に定着した釉陶の例として重要である。
執筆者:曾布川 寛
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