デジタル大辞泉
「下関市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
Sponserd by 
下関市
しものせきし
面積:二二一・三九平方キロ
本州の最西端にあり、南は関門海峡を隔てて九州と相対し、西は対馬海峡を経て朝鮮半島を望む位置にある。中心市街地は関門海峡沿いに展開し、市域は山陽・山陰に広がりをもち、中央部は山が多い。
古来九州および大陸との交通の接点で、関門海峡を通過する船舶の寄港地でもあり、近海・遠洋漁業の基地としても栄えたが、本州―九州間の鉄道トンネル・国道トンネル・関門橋の開通など交通体系の変化により、その性格も変化をきたしている。
「旧事本紀」に「赤間物部」、「大同類聚方」に「赤間稲置」とあり、赤間(赤目)・赤間関(赤馬関)・赤目関・関・馬関などとも称されてきた。貞観一一年(八六九)九月二七日付の太政官符には「下関」とみえる。
〔原始・古代〕
下関は関門海峡を擁して内海と外海をつなぎ、大陸とも近いという地理的条件から、遺跡の分布は外海側に圧倒的に多い。縄文時代の遺跡は、安岡地区・彦島地区・王司地区・長府地区に分布する。弥生時代のものは全市域に広がりをもち、旧赤間関をはじめ吉田・小月・王司・長府・内日・勝山・川中・安岡・吉見・吉母の各地区に遺跡や遺物が分布するが、綾羅木郷台地遺跡(川中)、梶栗浜遺跡(安岡)、吉母浜遺跡(吉母)など外海側に多い。
さらに古墳時代のものとして戦前の発見や発掘調査によるものをあげると、前方後円墳六基、円形墳(横穴式石室)七四基、箱式石棺二四基、横穴一基、須恵窯一ヵ所、遺物の包含・散布地一四ヵ所が全市域に分布し、とくに中央の丘陵地帯に比較的多い。
「旧事本紀」によれば景行天皇の時代に「穴門国造」が任命され、「日本書紀」によれば仲哀天皇二年に天皇と神功皇后は熊襲追討のため穴門国豊浦津(現長府)に着き、宮室を建てて豊浦宮とよんだ。同書の白雉元年(六五〇)に「穴門国造首」と国名がみられるが、天智天皇四年以後の記録では長門国となる。その領域は、厚狭・豊浦・美祢・大津・阿武(延喜式)の五郡である。
長門の国府は、中心地であり海運上の要衝でもあった豊浦津に置かれた。国府の正確な境域や国衙の位置については今もなお明らかにされていない。大宝二年(七〇二)正月一七日、国司として従四位上大神朝臣高市麻呂が任ぜられた(続日本紀)。
国分僧寺・国分尼寺は現在その遺構を十分にみることはできないが、「国史所見防長事考」(「長府史料」所収)によれば、僧寺は国府の西方北寄りの現長府の逢坂の田中、尼寺はその西方の安養寺に、僧寺と隣接していたものとされる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
下関〔市〕
しものせき
山口県西部,関門海峡に臨む中核市。南は瀬戸内海,西は日本海に面し,西方の蓋井島,六連島,角島などを市域に含む。1889年赤間関市として市制。1902年下関市に改称。1955年吉田村,王喜村,内日村の 3村を編入。2005年菊川町,豊田町,豊浦町,豊北町の 4町と合体。本州の西の門戸にあたり,古くから内海航路の港町として発展。幕末の外艦砲撃は四国艦隊下関砲撃事件として歴史に残り,明治以後は日清戦争の講和条約(→下関条約)締結の場となり,イギリス領事館も設置。1901年に山陽本線が開通。1905年朝鮮半島のプサン(釜山)との間に連絡船が就航して,大陸との連絡口となり,海陸交通の要衝として繁栄。1944年鉄道関門トンネルが開通。1958年国道関門トンネルが開通してからは,北九州市との関連が強まった。1973年に中国縦貫自動車道に連なる関門橋,1975年に山陽新幹線が完成。遠洋漁業の基地も兼ね,水産加工,漁網,船具,製氷,造船など漁業関連の工業が特徴的。工業は長府臨海工業地帯が中心で化学,金属,造船などの大規模な工場も立地。農業は米作が中心で,野菜や花卉,果樹栽培も行なわれる。赤間宮,住吉神社(本殿は国宝),功山寺(仏殿は国宝)など古社寺があり,綾羅木遺跡,長門鋳銭司跡(→鋳銭司),高杉晋作墓,中山忠光墓,梶栗浜遺跡,仁馬山古墳(以上国指定史跡),壇ノ浦の合戦跡など名所・旧跡に富む。長府沖の満珠樹林,干珠樹林,および六連島の雲母玄武岩,木屋川流域のゲンジボタル発生地などは国の天然記念物。市域の一部は瀬戸内海国立公園,西長門海岸県立自然公園,豊田県立自然公園に属する。面積 716.10km2。人口 25万5051(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 