目次 自然・住民 歴史 政治 経済,産業 社会・文化 基本情報 正式名称 =アルバニア共和国Republika e Shqipërisë,Republic of Albania 面積 =2万8748km2 人口 (2009)=316万人 首都 =ティラナTiranë(日本との時差=-8時間) 主要言語 =アルバニア語(公用語) 通貨 =レクLek
バルカン半島の南西部に位置する共和国。北はモンテネグロ,東はコソボ,マケドニア,南東および南はギリシアと境を接し,西はアドリア海,南西端の一部はイオニア海 に面している。全国は26の行政区(県)に分かれ,首都ティラナ は特別市となっている。
自然・住民 地形的に国土は,北から南へ連なる山岳地帯と,アドリア海沿いの15~35kmの平野部,両者の中間の丘陵・高原地帯に3分される。山地はディナル・アルプス 山系に属し,大部分第三紀に隆起したもので,深い峡谷,急流が多い。北部は標高1500~2500mの山脈や高原で,北アルバニア・アルプスとも呼ばれ,最高峰はモンテネグロとの国境にあるイェゼルツェJezerce山(2692m)である。モンテネグロとの国境にはバルカン最大のシュコダル Shkodër湖がある。東部には三つの山脈が南北に平行して走り,その最高峰はマケドニアとの国境にあるコラブKorab山(2764m)である。マケドニア,ギリシアとの国境近くには,オフリト 湖,プレスパPrespa湖,コルチャKorcë台地などがある。最南端の地域では山脈が海岸に迫り,ギリシア国境からブロラ に至る海岸は風光明美で気候も温暖なため,アルバニア・リビエラと呼ばれている。オフリト湖から流出するドリンDrin川をはじめ,マチMat川,シュクンビンShkumbin川,セマンSeman川,ビオサVijosë川などの河川はアドリア海に注ぐ。海岸低地は主として第三紀に堆積した部分であり,ティラナ周辺,北部のシュコダル湖 南部の平野は肥沃で,この地域は人口密度も高い。
沿岸部は地中海式気候で,東部の山地は内陸性の気候の影響を受ける。7月の平均気温は西部で26℃,東部で20℃,1月は西部8℃,東部1℃で,山地では-20℃以下に下がる場合も多い。一般の山地の植生の極盛相は森林であり,カシ,クマシデ,ブナ,マツなどが多く,標高1500~1800mの高原地帯は草原で夏の放牧に利用される。
住民の97%は古代イリュリア人 の末裔とされるアルバニア人で,少数民族としてはギリシア人,スラブ系のマケドニア人がいる。また国外では,コソボ にも125万人のアルバニア人が住み,マケドニアに住む40万人,ギリシア,トルコ,イタリア南部のアルバニア人を加えると総数は500万人に達する。
宗教は,第2次大戦前はアルバニア人の70%がイスラム教徒,北部にカトリック教徒(12%),南部にギリシア正教徒(11%)という宗教分布であったが,1967年政府は2000以上のモスクと教会のすべてを閉鎖し,無神国家を宣言した。しかし,90年末に労働党は宗教活動を許可し,91年9月にはバチカンと外交関係を復活,同年10月には教会資産の返還を決定した。教会やモスクも再建されつつある。しかし,約半世紀にも及ぶ反宗教教育の結果,無宗教者の割合もかなりの比重を持つと推定される。
歴史 現代のアルバニアの地には前7世紀にケルト人が居住していたが,その後,今日のアルバニア人の祖先と考えられているイリュア・トラキア人がこの地に南下し,自治都市からなる国を築いたが,前4世紀にマケドニア,前3世紀ころからローマによる支配を受け,ローマ滅亡までその一属州として存続した。後6~8世紀のスラブ人の南下により,アルバニア語を話す地域が大幅に縮小していったものと考えられる。9世紀の初めに,ビザンティン帝国のテマ(属州)が施かれ,以後ビザンティン帝国やブルガリア王国の侵入,支配が繰り返された。アルバニアという名称は11世紀のビザンティンの文献に現れるが,アルバニア人たちはこの名称を用いず,〈鷲〉を意味するshqipを自分たちの民族名としている。13世紀末にセルビア人によって一部を占領され,14世紀前半にはステファン・ドゥシャン のセルビア王国に併合された。この時期に多くのアルバニア人はギリシアへ移住し,都市にはベネチアの影響が強まった。14世紀の後半からバルカン半島へオスマン・トルコが侵入し,アルバニアの封建諸侯も次々に降伏して,主要都市にはオスマン・トルコの守備隊が置かれた。15世紀の前半,中部アルバニアの出身でオスマン・トルコ軍人として有名であったスカンデルベグ がオスマン帝国に対するアルバニア独立の旗をかかげ,クルヤの城塞を拠点として戦った。1443-68年の間オスマン帝国は毎年のように大軍を派遣したが,そのたびに敗北し,やっとスカンデルベグの死(1468)後,封建諸侯の内紛に乗じて,再征服に成功した。スカンデルベグは今日も民族的英雄として国民の崇敬を集めている。オスマン帝国支配下で国土は荒廃し,多くのアルバニア人が南イタリア,シチリアに逃れ,国内の地主階級の多くはイスラムに改宗し,国民の2/3がムスリムとなった。また剽悍(ひようかん)な山岳民であることから,オスマン帝国の傭兵として活躍した。19世紀にオスマン帝国が弱体化するにつれて,各地の豪族の独立化傾向と民衆の反乱が民族独立運動の発展を促進した。1878年のベルリン会議で国土の一部がモンテネグロに割譲されたときに,アルバニア人はプリズレン同盟を結成し,独立運動は活発になった。1912年のバルカン戦争 の際,近隣の諸国はアルバニアの国土分割をめざして軍隊を侵入させたが,民族独立運動の高まりと列強の利害の対立の結果,12年12月のロンドン会議でアルバニアの独立が正式に承認された。しかし,第1次大戦中は隣接国の軍隊に国土が占領され,国土は戦場となった。第1次大戦後独立が再確認され,20年ティラナが臨時首都となり,アルバニアは国際連盟に加入した。21年から24年にかけて,進歩的な知識人による民主政府樹立の試みが繰り返され,24年にF.ノリ の政府が成立したが,アフメト・ゾグ のクーデタによって打倒され,28年にはゾグは王制を宣言した。ゾグはイタリアの援助を受けて独裁政治を行い,国民の不満は高まる一方であった。39年イタリアはアルバニアを軍事占領し,植民地とした。40-41年に,アルバニアの民族主義者,共産主義者の抵抗運動が始められ,それは,イタリア軍,のちにドイツ軍に対する全国民的武装闘争へと発展し,その運動の母体〈国民解放運動〉が中心的政治勢力となった。44年秋に全土が解放され,エンベル・ホジャEnver Hoxha(1908-85)を首班とする社会主義政権が成立した。48年までアルバニアはユーゴスラビアからの援助で経済発展の道に踏み出したが,コミンフォルム問題で両者の関係は断絶し,経済は61年までソ連の援助によるところが大きかった。しかし,中ソ対立をめぐって,ソ連との関係が悪化し,61年両者の関係も途絶した。1960年代には中国との関係が密接であったが,78年には両者の関係も絶たれ,アルバニアは東欧の孤児として,イタリアその他資本主義国との経済関係の発展を模索中である。
政治 1976年12月の人民議会採択の新憲法で,アルバニアは〈社会主義人民共和国〉と規定され,1946年制定の旧人民共和国憲法は廃止された。人民議会が国家権力の最高機関で一院制(定員250人,任期4年)。人民議会幹部会議長が国の元首。政党は労働党(1941年創立,48年まで共産党と呼ばれた)が唯一の政党で,党員数は約10万人。第一書記エンベル・ホジャが実権を握り,その補佐役でずっと首相の地位にあったメフメト・シェフは81年12月射殺されたといわれる。
1968年にワルシャワ条約機構から脱退し,コメコンの行動にも参加していない。国連には1955年に加盟。近年は,オーストリア,フランス,イタリアへの接近を示し,日本とは81年3月に国交を樹立した。義務兵役制で全兵力4万3000人,そのほかに民兵,国内治安部隊などがある。1966年に軍隊の階級制度が廃止された。
経済,産業 第2次世界大戦前のアルバニアはヨーロッパでももっとも遅れた農業国であった。戦後は1948年までユーゴスラビア,48-60年ソ連,61-78年中国などの経済援助により,工業化を推進し,国民総生産の半分を工業が占めるようになっている。1951年以降五ヵ年計画を実施し,現在第7次計画(1981-85)に入っている。第6次計画は,国民所得の成長率が38%,工業生産は41%であった。国連推計によると,78年度の生産高はクロム鉱39万t,原油280万t,ニッケル鉱8000t,銅1万1500tであった。戦後に発展した主要な工業部門は,食品,繊維,皮革,木材加工,セメントなどであり,農村の電化は1970年代に完成した。
第2次大戦後の投資のかなりの部分が農業にふり向けられ,干拓事業により農地が拡大され,食糧自給の目標が達成された。72年度での耕地面積は123万ha,牧草地63万haで,灌漑面積も拡大されつつある。農業の機械化も進み,1万1000台のトラクターが稼動している。主要な農業生産物は小麦,トウモロコシ,綿花,タバコ,ビートなどで,79年度の穀物生産高は約76万tであった。耕地の80%が国有化され,18%が協同組合所有となっている。畜産は農産物生産高の約40%を占め,羊170万頭,ヤギ120万頭,牛43万頭が飼育されている。果樹栽培の中心はオリーブ,ブドウである。山林は国土の43%を占め,カシ,ブナ,マツその他が重要な木材資源となっている。アドリア海沿岸,シュコダル湖では漁業が盛んである。
戦後,貿易の構造は対外政策を反映して変動がはげしかった。1978年段階では西側との貿易が全体の30%,対東欧約20%,対中国50%であったが,中国側の援助停止で,現在はイタリア,西ドイツ,ユーゴスラビアへの依存度が高まっている。主要輸出品は石油,石炭,銅・クロム鉱など。輸入品は建設用施設,農機具,車両,機械。日本との貿易量は総額で1977年469万ドル,78年238万ドル,79年658万ドルであった。日本側輸入の大半がクロム鉱である。第2次大戦後鉄道がはじめて建設され,ティラナ~ドゥラス~エルバサン線ができた。営業キロ数は201km。国内の主要な交通手段は道路網で,首都ティラナと近隣諸国の首都は空路で結ばれている。
社会・文化 第2次世界大戦前はアルバニア人の70%がイスラム教徒,北部にカトリック教徒(12%),南部にギリシア正教徒(11%)という宗教分布であったが,67年政府は2000以上のモスクと教会のすべてを閉鎖し,無神国家を宣言した。
アルバニア語 はインド・ヨーロッパ語族に属するが,国の複雑な歴史を反映し,ギリシア語,ラテン・ロマンス系の諸語,トルコ語などからの借用語が多い。北方のゲグ方言と,中央・南方のトスク方言に分かれ,今日の標準語は1945年以来トスク方言が基礎になっている。現存のアルバニア語最古の文献は,1462年の〈洗礼信条〉である。この時代の多くの文献はオスマン・トルコとの戦争の時期に焼失した。1555年には最初の印刷物,司祭ブズクGjon Buzukuによる《ミサ典礼書》が発行された。17世紀には,北のシュコダルでカトリック系の文献,南のボスコポリエではギリシア正教系の文献の出版活動が盛んであった。15~16世紀に南イタリア,シチリアに移住したいわゆるアルバレシュ人の間では独自の文学が発達し,19世紀の詩人デ・ラダDe Rada(1814-1903)の活動はその頂点をなすものであった。アルバニア本国では文語確立のために努力したクリストフォリジ (1824-95)のあとを受けて,アルバニア最大の国民詩人N.フラシャリ が近代文学と文語を確立した。20世紀にはグラメノMihal Grameno(1872-1931),ポストリFoqion Postoli(1889-1927),ミギエニ ,F.ノリらによって新時代の文学が推進され,第2次大戦後は抵抗運動を主題としたものが多く,ムサライShefqet Musaraj(1914- ),ギャタFatmir Gjata(1922-89)シュテリチDhimitër Shuteriqi(1915- ),ペトロ・マルコPetro Marko(1913- )らが活躍している。
アルバニアの沿岸部には古代のギリシア,ローマ時代の遺跡が多く,中世の建築として独特な様式のモスクが各地に残されている。戦後の美術界では彫刻家のニコラ,画家のコドラ,イタリアで活躍するデリジャが有名。第2次大戦前の劇作家ではフィエシュタ(1871-1940)が有名で,戦後は《わが大地》の作者ヤコバKolë Jakovaなどが活躍している。映画は戦後になってはじめて制作されるようになったが,ほとんどがソ連との合作であった。トルコやアラブの影響が強く感じられる民族音楽,舞踊は農村部,都市部をとわず盛んで,南のギロカスタルでは毎年フェスティバルが開かれている。芸術音楽の中心はティラナで,オペラの作曲,演奏活動なども発達しつつある。戦前,アルバニアの文盲率は80%であったが,現在は8年制の義務教育が完全に実施されている。中等教育も普及しており,ティラナには総合大学,芸術,農業の単科大学がある。新聞は労働党の機関紙《人民の声》その他がある。 執筆者:直野 敦