アルバニア(読み)あるばにあ(英語表記)Albania

翻訳|Albania

共同通信ニュース用語解説 「アルバニア」の解説

アルバニア

400年余りオスマン帝国の支配を受けたが、1912年に独立宣言。90年に労働党(共産党)による一党独裁を放棄し、91年に自由選挙を実施。2009年、北大西洋条約機構(NATO)正式加盟。22年に欧州連合(EU)と加盟交渉を開始。人口284万人(22年推定)。1人当たりの国民総所得は6110ドル(約80万円、21年)。首都はティラナ。(ティラナ共同)

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精選版 日本国語大辞典 「アルバニア」の意味・読み・例文・類語

アルバニア

  1. ( Albania ) バルカン半島の南西部にある国。古代からローマ、ビザンチン、トルコなどの支配を受けたが、一九一二年アルバニア王国として独立。二一年アルバニア共和国、四六年アルバニア人民共和国、七六年アルバニア人民社会主義共和国となったが、九一年社会主義政権が倒れ、再びアルバニア共和国と改称。首都チラナ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルバニア」の意味・わかりやすい解説

アルバニア
あるばにあ
Albania

南東ヨーロッパ、バルカン半島南西部に位置する共和国。正称は、シュチペリア共和国Republika e Shqipërisë。シュチペリアは「鷲(わし)の国」の意味で、国章と国旗に双頭の鷲の図柄が使用されている。北東はコソボ、北西はモンテネグロ、東は北マケドニア共和国、南はギリシアに隣接し、西はアドリア海に面し、その対岸にイタリアがある。面積は2万8748平方キロメートルで、四国の約1.5倍の大きさである。人口306万9275(2001年センサス)。1人当り国民総生産(GDP)は3360ドル(2007)。首都チラナ特別市ほか36の行政区(県)に分かれている。第二次世界大戦後、厳格なスターリン型共産主義体制をとって、共産圏諸国が体制改革に乗り出すなかで一種の鎖国政策を進めていたが、1990年以降は、ほかの東ヨーロッパ諸国同様、複数政党制による選挙が実施されて非共産主義政権が成立し共和制となり、欧米寄りの政策を進めている。

[齋藤 厚]

自然

南北340キロメートル、東西の最大幅150キロメートルの細長い国で、海岸沿いの平野のほかは起伏に富む山地であり、国土の7割が標高300メートル以上の風光明媚(めいび)な国である。コソボ、モンテネグロおよび北マケドニア共和国との国境地帯にはコラブ山(2751メートル)をはじめディナル・アルプス系の2000メートル級の山々が連なる。北マケドニア共和国から流入するドリン川が国内280キロメートルを流れ、河口付近は分流して、ブーネ川など他の数条の河川とともにアドリア海に注ぐ。湖では北部のシュコーデル湖(約360平方キロメートル)、南東部のオフリド湖プレスパ湖がいずれも国境上にある。海岸地帯は温暖な地中海性気候で、降雪はまれである。内陸部は大陸性気候で、冬季に積雪がある。年降水量は全国平均で1000ミリメートルを超す。夏の最高気温は30℃を超え、冬の最低気温は海岸で0℃前後、内陸部の諸都市で零下10℃以下となる。国土の4割余りが耕地や牧草地、同じく4割余りが森林で、カシワ、ブナ、マツが多い。

[齋藤 厚]

地誌

首都チラナは、繊維、化学、食品工業などが発達し、その生産高は全鉱工業生産の4分の1前後に上る。そのほか、中部の港湾都市ドゥレスでは、化学、軽工業、北部の都市シュコーデルではたばこや金属工業などの産業があるが、生産施設の老朽化が甚だしく、1990年に市場経済化を開始して以降は未稼働の工場も多い。アルバニアは、地下資源に恵まれ、中部と南部の海岸地帯では石油を、また、北部と東部の山岳地帯ではクロム、鉄、銅、ニッケルなどを産出し、それにあわせて付近の都市に精製または製錬施設が建設されている。さらに、北部と東部では、山がちな地形を生かした水力発電所が多数建設されている。農業は、海岸平野部を中心に行われ、小麦、綿花、果実類、タバコ、ジャガイモ、トマト、オリーブ、ビート(テンサイ)などが主作物である。

[齋藤 厚]

歴史

アルバニア人は自らを古代イリリア人(バルカンの先住民族、紀元前2世紀に滅亡)の子孫と称しているが、その正確な起源は不明である。現在のアルバニア人の領土は、古代ローマ帝国、ついで東ローマ帝国の版図(はんと)に入り、7世紀以降はビザンティン帝国ブルガリア帝国ラテン帝国、セルビア帝国の支配を受けた。なお、11世紀のビザンティン帝国の史書においてアルバニア人の名が歴史上初めて登場する。14世紀にオスマン・トルコのバルカン侵入に伴いその支配下に組み込まれると、以後5世紀間トルコ帝国の支配を受け、住民のイスラム教化が進行した。途中、15世紀なかばに一豪族のスカンデルベグがトルコの支配に抗して蜂起(ほうき)し、1443年以来25年間トルコの大軍を撃退し続けた。スカンデルベグは今日民族的英雄となっており、現在の国旗は彼の旗に由来している。

 1878年、民族意識の高まりのなかにプリズレン(現、コソボ共和国内南部の都市)でアルバニア国民連盟(プリズレン連盟)が結成され、トルコ軍と衝突した。1912年、第一次バルカン戦争におけるトルコの敗退に際し、イスマイル・チェマルIsmail Qemali(1844―1919)の率いる一団がブローラにおいて独立を宣言、臨時政府を組織した。1913年、列強はロンドンの大使会議においてアルバニアを列強の後見のもとに独立させることを決め、国境を画定し、1914年ドイツ貴族ウィルヘルム・ウィートWilhelm von Wied(1876―1945)がアルバニア王として送り込まれた。しかし彼は国内に根を下ろしえず、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)後まもなく国外に去り、戦火のなかで、オーストリア、ついでイタリアに占領された。1920年イタリア軍を追い出して独立を回復、国際連盟に加入した。その後、地主出身のアフメット・ゾーグが台頭し、一時は進歩的なファン・ノーリFan Stilian Noli(1882―1965)政権にとってかわられた(1924)ものの、返り咲いて大統領となり、1928年には王制を宣言して自ら国王(ゾーグ1世)となった。経済的にはイタリアへの依存を強め、1939年イタリアに武力併合されてゾーグは亡命し、第二次世界大戦中、イタリアの降伏後はドイツに占領された。

 1941年にはアルバニア共産党が結成されてパルチザン闘争を開始し、1944年10月エンベル・ホッジャを首班として臨時政権を樹立、同年11月末までに自力で全土を解放し、1946年1月人民共和国を宣言して社会主義国となった。1961年、中ソ論争に際してソ連圏から離脱し、中国の盟友となってその援助を受けた。1978年、イデオロギー論争を契機として中国は援助を打ち切ったが、国交は継続する。以後、アルバニアは外国からの援助をいっさい拒否して孤立化・自力更正政策を進めた。しかし、1985年のホッジャの死後、国際情勢の変化や経済悪化から孤立化・自力更正政策の続行は困難になり、ホッジャの後を受けた党第一書記ラミズ・アリアRamiz Alia(1925―2011)は緩やかな開放政策を推進した。

 1990年、東ヨーロッパ諸国の民主化の影響を受け、さらに国内からイタリアやギリシアに難民が大量流出するに及んで大幅な民主化政策の導入に迫られた。1991年、国名がアルバニア社会主義人民共和国からアルバニア共和国に変更されるとともに、大統領制が導入された。また、戦後初めての複数政党制による選挙が実施され、旧労働党(共産党)の社会党が勝利し、民主党をはじめとする野党との間で挙国一致内閣が樹立された。しかし、徐々に力をつけてきた民主党が挙国一致内閣から離反したため、1992年春に再度選挙が実施され、民主党が議席の7割近くを獲得、サリ・ベリシャSali Berisha(1944― )を大統領とする民主党政権が誕生し、長年続いた共産主義政権は終焉(しゅうえん)した。

[齋藤 厚]

政治

1990年末の複数政党制導入以来、労働党による一党独裁は排除され、直接選挙に基づく議会制民主主義体制をとっている。立法機関は人民議会で一院制、議員は140名、任期は4年である。また、閣僚評議会が内閣に相当する最高行政機関で、評議会議長が首相、副議長が副首相に相当する。大統領は国家元首、軍最高司令官、共和国国防評議会議長であり、人民議会により選出され、任期は5年である。1996年に実施された人民議会選挙では、社会党などの野党がボイコットするなかで民主党が大勝したが、1997年春にねずみ講問題を発端として国が無秩序状態に陥るなかで、大統領ベリシャは人民議会による自らの再選を強行する一方、メクシAlexander Meksi(1939― )民主党内閣は退陣し社会党のフィノBashkim Fino(1962―2021)を首班とする暫定挙国一致内閣が樹立された。そして、1997年6月、フィノ暫定内閣の下で人民議会選挙が実施されて社会党が大勝し、社会党を中心とする連立政権が発足するとともに、ベリシャの大統領辞任を受けて、7月には後任に社会党出身のレジェップ・メイダニRexhep Meidani(1944― )が選出された。1998年新憲法制定。2000年10月の地方選挙、2001年6、7月の総選挙は社会党が勝利。2002年6月、メイダニの任期満了に伴い行われた大統領選挙では、アルフレッド・モイシウAlfred Moisiu(1929― )が選出され、7月に大統領に就任、社会党党首ナノFatos Nano(1952― )が首相となった。2005年7月の議会選挙では野党民主党が躍進し、民主党党首ベリシャが首相に就任、民主党中心の連立政権となり、社会党からの政権交代が行われた。2007年7月、任期が終了したモイシウの後任として、民主党副党首のバミル・トピBamir Topi(1957― )が大統領に選出された。

 対外政策では、共産主義政権時代の孤立化政策を大幅に転換し、欧米諸国や国連、世銀などの国際機関との関係強化に努力している。とくに、自国がヨーロッパに位置することを強調しつつEU(ヨーロッパ連合)に積極的に接近しており、NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)へは2009年4月に加盟、EUへも早期加盟の実現を目ざしている。近隣諸国との関係では、セルビア、モンテネグロ、北マケドニア共和国、ギリシアなどに居住するアルバニア人少数民族の自治または人権問題に注視しており、とくに、独立前のコソボのアルバニア人問題をめぐり、セルビアと対立した状態が続いた経緯がある。なお、1992年にイスラム諸国会議機構に加盟しており、イスラム諸国との関係も強化している。1995年に欧州評議会に参加。2000年にWTO(世界貿易機関)加盟。

 国防では、軍が1992年以降アメリカなどから援助を受け近代化を進めていたが、1997年の騒動の際に武装市民勢力に重火器や艦艇などを多数奪われており崩壊状態にある。軍の2002年時点での兵力は、陸軍2万、海軍2500(戦闘艦艇24隻など)、空軍4500である。

[齋藤 厚]

経済・産業

アルバニアは、第二次世界大戦後、共産主義政権の下で、共産圏諸国の支援に頼りつつ工業化、農業近代化を目ざした計画経済体制をとっていた。戦後の工業化の進展は急速で、戦前はわずかであった鉱工業生産は、1960年に農業生産を上回り、1981年には工農生産比がほぼ7対3になった。しかし、1961年の対ソ連断交、そして1978年の中国との関係悪化を経て自力更正政策を導入すると、経済活動は停滞した。アルバニアは、1991年より市場経済への移行を開始したが、設備の老朽化、労働モラルの低下などが原因となって、鉱工業生産は劇的に減少した。とくに、重工業部門の不振が深刻で、多くの国営企業は未稼働状態にある。かつて世界第3位の生産・輸出量を誇っていたクロムも、2002年には第9位、世界の生産量の0.5%に落ちている。一方、食品、繊維などの軽工業部門や農業、観光、公共投資は活性化しつつある。主要産業は、農業、機械工業、鉱業、製造業。2004年のGDP(国民総生産)は76億ドル、1人当りGDPは2381ドル、貿易総額26億2000万ドル、輸出総額5億5000万ドル、輸入総額20億7000万ドル。主要輸出品目は繊維、建築資材、食料品など、主要輸入品目は機械、食料品、繊維など。通貨はレクLek。

 農業は、社会主義時代に集団化が行われたものの、大規模化、機械化にまでは発展しなかった。1991年、市場経済の導入にあわせて実施された農地私有化が成功し、生産活動が活発化している。なお、農民は、収益率の高い果実類などを好んで栽培する傾向がある。

 輸出はクロムや銅などの非鉄金属や靴や繊維製品などの軽工業品が、また、輸入は耐久消費財や中古車などの工業製品が中心で、主要貿易相手国はイタリア、ギリシアなどのヨーロッパ諸国である。輸入が輸出を大幅に超過して貿易赤字が膨らんでおり、国民の経済生活は、海外で働く移民からの仕送りや、諸外国・国際機関からの援助に大きく依存するかっこうになっている。

 商業は、1991年に私有が許可されて以降急速に発展し、個人経営の商店や貿易会社が多数設立されている。

[齋藤 厚]

社会

人口の95%以上がアルバニア人であるが、北部のゲグ人と南部のトスク人との間には、言語、風習に地方差がある。公用語はアルバニア語。ただし標準語にはトスク方言が採用されている。少数民族としてはギリシア人(2.4%)、マケドニア人、モンテネグロ人(あわせて0.9%)などがいる。また、セルビア、コソボ、モンテネグロ、北マケドニア共和国の領内に約200万のアルバニア人が居住しているほか、イタリアとギリシアにそれぞれ20万人前後のアルバニア人移民労働者がいる。

 人口増加率は、1980年代の2%強から1990年代前半には人口の国外流出によって1%に低下したが、依然、ヨーロッパ諸国のなかでも高水準である。アルバニアは、ヨーロッパの最貧国群から脱することができず、首都チラナには職を求める農村人口が大量に流入し続けており、また、市場経済導入以降、貧富の差が急速に拡大しつつある。

 宗教は、第二次世界大戦前はイスラム教徒が7割で、ギリシア正教徒が2割、カトリック教徒が1割であったが、2001年の時点での割合はイスラム教徒が39%、ローマ・カトリックが17%、アルバニア正教徒が10%、残りはその他の宗教あるいは不明となっている。共産主義政権時代に禁止であった宗教は1990年に解禁された。

[齋藤 厚]

文化

長くトルコの支配下にあって、民族意識の形成とこれに基づく文化的発展が遅れたことは否めない。アルバニア語で授業する学校は、1887年にようやく1校のみ設立が認められるという状態であった。このような条件のなかで、19世紀に主として国外で「アルバニア・ルネサンス」運動がおこったが、なかでも叙事詩『スカンデルベグ物語』のナイム・フラシャリが光る。第二次世界大戦後は、共産主義政権が芸術分野を厳しい統制下に置き、社会主義リアリズム路線を強力に推進した。そうしたなかにあって、イスマイル・カダレIsmail Kadare(1936―2024)が独創的な詩や小説を次々に発表し、世界的名声を獲得している。

 ほかの地中海諸民族に比べて物静かで忍耐強いとされるが、家父長制的メンタリティも残り、女性の地位向上運動が続けられている。市民の楽しみは映画、テレビ、それに夕方の散歩である。スポーツはサッカーの人気が圧倒的である。

[齋藤 厚]

日本との関係

日本とは1922年(大正11)外交関係が結ばれたが、1939年(昭和14)イタリア併合により断絶、第二次世界大戦後、1981年に再開された。人的交流も貿易額も現時点ではわずかであるが、一方で、日本はアルバニアにとり主要援助供与国の一つとなっている。2008年(平成20)2月、ベリシャ首相が来日。2004年の両国間貿易総額は206万ドル。日本からの輸入総額は147万ドルで、主要輸入品目は機械、自動車など。アルバニアから日本への輸出総額は59万ドルで、主要輸出品目は繊維製品、薬草など。

[齋藤 厚]

『木内信藏著「アルバニア」(「世界地理8 ヨーロッパⅢ」所収・1975・朝倉書店)』『木戸蓊著「世界現代史24 バルカン現代史」(1977・山川出版社)』『矢田俊隆編「世界各国史13 東欧史」(1977・山川出版社)』『中津孝司著「アルバニア現代史」(1991・晃洋書房)』『伊東孝之他監修「東欧を知る辞典」(1993・平凡社)』『Stefanaq Pollo and Arben PutoThe History of Albania(1981・Routledge & Kegan Paul)』『Raymond E.Zickel and Walter R.IwaskiwAlbania, a country study(1994.Federal Research Division,Library of Congress)』


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改訂新版 世界大百科事典 「アルバニア」の意味・わかりやすい解説

アルバニア
Albania

基本情報
正式名称=アルバニア共和国Republika e Shqipërisë,Republic of Albania 
面積=2万8748km2 
人口(2009)=316万人 
首都=ティラナTiranë(日本との時差=-8時間) 
主要言語=アルバニア語(公用語) 
通貨=レクLek

バルカン半島の南西部に位置する共和国。北はモンテネグロ,東はコソボ,マケドニア,南東および南はギリシアと境を接し,西はアドリア海,南西端の一部はイオニア海に面している。全国は26の行政区(県)に分かれ,首都ティラナは特別市となっている。

地形的に国土は,北から南へ連なる山岳地帯と,アドリア海沿いの15~35kmの平野部,両者の中間の丘陵・高原地帯に3分される。山地はディナル・アルプス山系に属し,大部分第三紀に隆起したもので,深い峡谷,急流が多い。北部は標高1500~2500mの山脈や高原で,北アルバニア・アルプスとも呼ばれ,最高峰はモンテネグロとの国境にあるイェゼルツェJezerce山(2692m)である。モンテネグロとの国境にはバルカン最大のシュコダルShkodër湖がある。東部には三つの山脈が南北に平行して走り,その最高峰はマケドニアとの国境にあるコラブKorab山(2764m)である。マケドニア,ギリシアとの国境近くには,オフリト湖,プレスパPrespa湖,コルチャKorcë台地などがある。最南端の地域では山脈が海岸に迫り,ギリシア国境からブロラに至る海岸は風光明美で気候も温暖なため,アルバニア・リビエラと呼ばれている。オフリト湖から流出するドリンDrin川をはじめ,マチMat川,シュクンビンShkumbin川,セマンSeman川,ビオサVijosë川などの河川はアドリア海に注ぐ。海岸低地は主として第三紀に堆積した部分であり,ティラナ周辺,北部のシュコダル湖南部の平野は肥沃で,この地域は人口密度も高い。

 沿岸部は地中海式気候で,東部の山地は内陸性の気候の影響を受ける。7月の平均気温は西部で26℃,東部で20℃,1月は西部8℃,東部1℃で,山地では-20℃以下に下がる場合も多い。一般の山地の植生の極盛相は森林であり,カシ,クマシデ,ブナ,マツなどが多く,標高1500~1800mの高原地帯は草原で夏の放牧に利用される。

 住民の97%は古代イリュリア人の末裔とされるアルバニア人で,少数民族としてはギリシア人,スラブ系のマケドニア人がいる。また国外では,コソボにも125万人のアルバニア人が住み,マケドニアに住む40万人,ギリシア,トルコ,イタリア南部のアルバニア人を加えると総数は500万人に達する。

 宗教は,第2次大戦前はアルバニア人の70%がイスラム教徒,北部にカトリック教徒(12%),南部にギリシア正教徒(11%)という宗教分布であったが,1967年政府は2000以上のモスクと教会のすべてを閉鎖し,無神国家を宣言した。しかし,90年末に労働党は宗教活動を許可し,91年9月にはバチカンと外交関係を復活,同年10月には教会資産の返還を決定した。教会やモスクも再建されつつある。しかし,約半世紀にも及ぶ反宗教教育の結果,無宗教者の割合もかなりの比重を持つと推定される。

現代のアルバニアの地には前7世紀にケルト人が居住していたが,その後,今日のアルバニア人の祖先と考えられているイリュア・トラキア人がこの地に南下し,自治都市からなる国を築いたが,前4世紀にマケドニア,前3世紀ころからローマによる支配を受け,ローマ滅亡までその一属州として存続した。後6~8世紀のスラブ人の南下により,アルバニア語を話す地域が大幅に縮小していったものと考えられる。9世紀の初めに,ビザンティン帝国のテマ(属州)が施かれ,以後ビザンティン帝国やブルガリア王国の侵入,支配が繰り返された。アルバニアという名称は11世紀のビザンティンの文献に現れるが,アルバニア人たちはこの名称を用いず,〈鷲〉を意味するshqipを自分たちの民族名としている。13世紀末にセルビア人によって一部を占領され,14世紀前半にはステファン・ドゥシャンのセルビア王国に併合された。この時期に多くのアルバニア人はギリシアへ移住し,都市にはベネチアの影響が強まった。14世紀の後半からバルカン半島へオスマン・トルコが侵入し,アルバニアの封建諸侯も次々に降伏して,主要都市にはオスマン・トルコの守備隊が置かれた。15世紀の前半,中部アルバニアの出身でオスマン・トルコ軍人として有名であったスカンデルベグがオスマン帝国に対するアルバニア独立の旗をかかげ,クルヤの城塞を拠点として戦った。1443-68年の間オスマン帝国は毎年のように大軍を派遣したが,そのたびに敗北し,やっとスカンデルベグの死(1468)後,封建諸侯の内紛に乗じて,再征服に成功した。スカンデルベグは今日も民族的英雄として国民の崇敬を集めている。オスマン帝国支配下で国土は荒廃し,多くのアルバニア人が南イタリア,シチリアに逃れ,国内の地主階級の多くはイスラムに改宗し,国民の2/3がムスリムとなった。また剽悍(ひようかん)な山岳民であることから,オスマン帝国の傭兵として活躍した。19世紀にオスマン帝国が弱体化するにつれて,各地の豪族の独立化傾向と民衆の反乱が民族独立運動の発展を促進した。1878年のベルリン会議で国土の一部がモンテネグロに割譲されたときに,アルバニア人はプリズレン同盟を結成し,独立運動は活発になった。1912年のバルカン戦争の際,近隣の諸国はアルバニアの国土分割をめざして軍隊を侵入させたが,民族独立運動の高まりと列強の利害の対立の結果,12年12月のロンドン会議でアルバニアの独立が正式に承認された。しかし,第1次大戦中は隣接国の軍隊に国土が占領され,国土は戦場となった。第1次大戦後独立が再確認され,20年ティラナが臨時首都となり,アルバニアは国際連盟に加入した。21年から24年にかけて,進歩的な知識人による民主政府樹立の試みが繰り返され,24年にF.ノリの政府が成立したが,アフメト・ゾグのクーデタによって打倒され,28年にはゾグは王制を宣言した。ゾグはイタリアの援助を受けて独裁政治を行い,国民の不満は高まる一方であった。39年イタリアはアルバニアを軍事占領し,植民地とした。40-41年に,アルバニアの民族主義者,共産主義者の抵抗運動が始められ,それは,イタリア軍,のちにドイツ軍に対する全国民的武装闘争へと発展し,その運動の母体〈国民解放運動〉が中心的政治勢力となった。44年秋に全土が解放され,エンベル・ホジャEnver Hoxha(1908-85)を首班とする社会主義政権が成立した。48年までアルバニアはユーゴスラビアからの援助で経済発展の道に踏み出したが,コミンフォルム問題で両者の関係は断絶し,経済は61年までソ連の援助によるところが大きかった。しかし,中ソ対立をめぐって,ソ連との関係が悪化し,61年両者の関係も途絶した。1960年代には中国との関係が密接であったが,78年には両者の関係も絶たれ,アルバニアは東欧の孤児として,イタリアその他資本主義国との経済関係の発展を模索中である。

1976年12月の人民議会採択の新憲法で,アルバニアは〈社会主義人民共和国〉と規定され,1946年制定の旧人民共和国憲法は廃止された。人民議会が国家権力の最高機関で一院制(定員250人,任期4年)。人民議会幹部会議長が国の元首。政党は労働党(1941年創立,48年まで共産党と呼ばれた)が唯一の政党で,党員数は約10万人。第一書記エンベル・ホジャが実権を握り,その補佐役でずっと首相の地位にあったメフメト・シェフは81年12月射殺されたといわれる。

 1968年にワルシャワ条約機構から脱退し,コメコンの行動にも参加していない。国連には1955年に加盟。近年は,オーストリア,フランス,イタリアへの接近を示し,日本とは81年3月に国交を樹立した。義務兵役制で全兵力4万3000人,そのほかに民兵,国内治安部隊などがある。1966年に軍隊の階級制度が廃止された。

第2次世界大戦前のアルバニアはヨーロッパでももっとも遅れた農業国であった。戦後は1948年までユーゴスラビア,48-60年ソ連,61-78年中国などの経済援助により,工業化を推進し,国民総生産の半分を工業が占めるようになっている。1951年以降五ヵ年計画を実施し,現在第7次計画(1981-85)に入っている。第6次計画は,国民所得の成長率が38%,工業生産は41%であった。国連推計によると,78年度の生産高はクロム鉱39万t,原油280万t,ニッケル鉱8000t,銅1万1500tであった。戦後に発展した主要な工業部門は,食品,繊維,皮革,木材加工,セメントなどであり,農村の電化は1970年代に完成した。

 第2次大戦後の投資のかなりの部分が農業にふり向けられ,干拓事業により農地が拡大され,食糧自給の目標が達成された。72年度での耕地面積は123万ha,牧草地63万haで,灌漑面積も拡大されつつある。農業の機械化も進み,1万1000台のトラクターが稼動している。主要な農業生産物は小麦,トウモロコシ,綿花,タバコ,ビートなどで,79年度の穀物生産高は約76万tであった。耕地の80%が国有化され,18%が協同組合所有となっている。畜産は農産物生産高の約40%を占め,羊170万頭,ヤギ120万頭,牛43万頭が飼育されている。果樹栽培の中心はオリーブ,ブドウである。山林は国土の43%を占め,カシ,ブナ,マツその他が重要な木材資源となっている。アドリア海沿岸,シュコダル湖では漁業が盛んである。

 戦後,貿易の構造は対外政策を反映して変動がはげしかった。1978年段階では西側との貿易が全体の30%,対東欧約20%,対中国50%であったが,中国側の援助停止で,現在はイタリア,西ドイツ,ユーゴスラビアへの依存度が高まっている。主要輸出品は石油,石炭,銅・クロム鉱など。輸入品は建設用施設,農機具,車両,機械。日本との貿易量は総額で1977年469万ドル,78年238万ドル,79年658万ドルであった。日本側輸入の大半がクロム鉱である。第2次大戦後鉄道がはじめて建設され,ティラナ~ドゥラス~エルバサン線ができた。営業キロ数は201km。国内の主要な交通手段は道路網で,首都ティラナと近隣諸国の首都は空路で結ばれている。

第2次世界大戦前はアルバニア人の70%がイスラム教徒,北部にカトリック教徒(12%),南部にギリシア正教徒(11%)という宗教分布であったが,67年政府は2000以上のモスクと教会のすべてを閉鎖し,無神国家を宣言した。

 アルバニア語はインド・ヨーロッパ語族に属するが,国の複雑な歴史を反映し,ギリシア語,ラテン・ロマンス系の諸語,トルコ語などからの借用語が多い。北方のゲグ方言と,中央・南方のトスク方言に分かれ,今日の標準語は1945年以来トスク方言が基礎になっている。現存のアルバニア語最古の文献は,1462年の〈洗礼信条〉である。この時代の多くの文献はオスマン・トルコとの戦争の時期に焼失した。1555年には最初の印刷物,司祭ブズクGjon Buzukuによる《ミサ典礼書》が発行された。17世紀には,北のシュコダルでカトリック系の文献,南のボスコポリエではギリシア正教系の文献の出版活動が盛んであった。15~16世紀に南イタリア,シチリアに移住したいわゆるアルバレシュ人の間では独自の文学が発達し,19世紀の詩人デ・ラダDe Rada(1814-1903)の活動はその頂点をなすものであった。アルバニア本国では文語確立のために努力したクリストフォリジ(1824-95)のあとを受けて,アルバニア最大の国民詩人N.フラシャリが近代文学と文語を確立した。20世紀にはグラメノMihal Grameno(1872-1931),ポストリFoqion Postoli(1889-1927),ミギエニ,F.ノリらによって新時代の文学が推進され,第2次大戦後は抵抗運動を主題としたものが多く,ムサライShefqet Musaraj(1914- ),ギャタFatmir Gjata(1922-89)シュテリチDhimitër Shuteriqi(1915- ),ペトロ・マルコPetro Marko(1913- )らが活躍している。

 アルバニアの沿岸部には古代のギリシア,ローマ時代の遺跡が多く,中世の建築として独特な様式のモスクが各地に残されている。戦後の美術界では彫刻家のニコラ,画家のコドラ,イタリアで活躍するデリジャが有名。第2次大戦前の劇作家ではフィエシュタ(1871-1940)が有名で,戦後は《わが大地》の作者ヤコバKolë Jakovaなどが活躍している。映画は戦後になってはじめて制作されるようになったが,ほとんどがソ連との合作であった。トルコやアラブの影響が強く感じられる民族音楽,舞踊は農村部,都市部をとわず盛んで,南のギロカスタルでは毎年フェスティバルが開かれている。芸術音楽の中心はティラナで,オペラの作曲,演奏活動なども発達しつつある。戦前,アルバニアの文盲率は80%であったが,現在は8年制の義務教育が完全に実施されている。中等教育も普及しており,ティラナには総合大学,芸術,農業の単科大学がある。新聞は労働党の機関紙《人民の声》その他がある。
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百科事典マイペディア 「アルバニア」の意味・わかりやすい解説

アルバニア

◎正式名称−アルバニア共和国Republic of Albania。◎面積−2万8703km2。◎人口−279万人(2013)。◎首都−ティラナ(42万人,2011)。◎住民−アルバニア人。◎宗教−イスラム70%。◎言語−アルバニア語(公用語)。◎通貨−レクLek。◎元首−大統領,ブヤール・ニシャニBujar Nishani(1966年生れ,2012年7月就任,任期5年)。◎首相−エディ・ラマEdi Rama(2013年9月就任)。◎憲法−1998年11月国民投票で承認。◎国会−一院制(定員140,任期4年)。最近の選挙は2014年6月。◎GDP−123億ドル(2008)。◎1人当りGNI−2960ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−50%(1997)。◎平均寿命−男73.4歳,女79.8歳(2007)。◎乳児死亡率−16‰(2010)。◎識字率−95.9%(2008)。    *    *ヨーロッパ南東部,バルカン半島南西部の共和国。シュキペリヤ(鷲の国)と自称。大部分が山地で,西部のアドリア海岸に狭い平野がある。南東部はピンドス山脈の延長部。地中海式気候。住民の97%はイリュリア族系統のアルバニア人でアルバニア語を話し,約70%がイスラム教徒,約10%がギリシア正教徒とカトリック教徒。牧畜,農業が行われ,小麦,トウモロコシ,テンサイが主産物。1951年以来数次の五ヵ年計画により急速に工業化。石油,クロム鉱,銅などの資源開発も進み,繊維,セメント,タバコ,製油,製鉄工業が行われる。国権の最高機関は一院制の議会で,議会で選ばれる大統領が元首。なお,隣接するコソボの住民の80%余はアルバニア系である。 4世紀末ビザンティン帝国の支配下にはいり,1468年以降オスマン帝国(トルコ)の支配をうけた。1912年バルカン戦争をきっかけに独立宣言,1921年共和国,1928年からイタリア軍に占領される1939年まで王国。1944年ソ連軍によって解放され,1946年人民共和国を宣言。フルシチョフのアルバニア批判(1961年)以来ホッジャ政権はソ連との関係を断ち,親中国政策を取ってきたが,1976年の毛沢東の死,中国の近代化,四人組追放と対米接近などで1978年には中国とも断交状態になった。1990年労働党(現,社会党)の一党独裁制が廃され,1991年の新憲法で社会主義と決別した。1992年,1996年の総選挙では民主党が社会党に勝利した。市場経済への移行過程でねずみ講式の投資組織が浸透していたが,1997年1月以降その被害者らの抗議行動が各地で反政府暴動に発展した。事態収拾のため1997年6月に行われた総選挙では,社会党が大勝,政権に復帰。2005年の総選挙では,民主党など野党連合が勝利し,8年ぶりの政権交代が実現。2007年の大統領選挙では,民主党副党首のトピが選出された。2012年の大統領選挙では,与党民主党のニシャニが大統領に就任。2000年7月世界貿易機関(WTO)加盟。2009年4月,NATOに正式加盟。
→関連項目アルバニア労働党ベラットとギロカストラの歴史地区

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルバニア」の意味・わかりやすい解説

アルバニア
Albania

正式名称 アルバニア共和国 Republika e Shqipërisë。
面積 2万8703km2
人口 282万2000(2021推計)。
首都 ティラナ

ヨーロッパ南東部,バルカン半島の西部にある国。西はアドリア海に臨み,北はモンテネグロコソボ,東は北マケドニア,南はギリシアと接する。国土は西部の海岸低地帯,中部の高原地帯,東部の山岳地帯の,いずれも南北に細長い三つの地帯に大別される。気候は一般に冬は温暖で夏は暑いが,山岳地帯には内陸性気候の影響がみられる。住民はイリュリア人の系統をひくアルバニア人,公用語はインド=ヨーロッパ語族に属するアルバニア語で,北部のゲグ方言と南部のトスク方言があるが,現在のアルバニア語はトスク方言が共通語となっている。初めバルカン半島北西部はイリュリア人の土地であったが,前2世紀にローマ帝国の領土となり,以後,ビザンチン帝国オスマン帝国および周辺諸国などの支配と侵略を受けた。1912年ヨーロッパ列強の支持により独立。第1次世界大戦中は一時イタリアの勢力下に入ったが,1921年共和国。1928年から王制をしいたが,1939年イタリアに武力統合された。第2次世界大戦後,解放されて社会主義国となり,1950年代はスターリン主義に基づく政府を保持。1961年からはソビエト連邦との関係が悪化,以後,中国寄りの政治路線を歩んだが,1977年からはその路線からも離れ,事実上の鎖国政策を維持した。1988年から各国との関係を修復。解放以来一党支配を続けてきたアルバニア労働党(現アルバニア社会党)は,1990年複数政党制導入を発表し,1991年国名をアルバニア人民社会主義共和国から現国名に変更したが,1992年の総選挙でアルバニア民主党に敗れ,社会主義体制が崩壊した。農牧国で,トウモロコシ,コムギ,ジャガイモ,ワタ,タバコ,サトウダイコンなどを栽培。クロム鉱,銅鉱,リン鉱,石油,天然ガスなど鉱産資源に恵まれているが,開発は遅れている。中央計画経済のもとで工業化に力を注いできたが,原材料不足で低迷。1990年以降,経済改革により農地の個人所有,工場の民営化が進められた。オリーブ油などの農産加工,衣料,石油精製,セメントなどの工業がある。(→アルバニア史

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旺文社世界史事典 三訂版 「アルバニア」の解説

アルバニア
Albania

バルカン半島南西部の共和国。首都ティラナ
【古代〜近代】アルバニア人の祖先は,インド−ヨーロッパ語系の古代イリリア人といわれる。前5世紀に部族連合のイリリア王国が形成されるが,前167年ローマ人に滅ぼされ,支配される。4世紀末のローマ帝国の分裂後,東ローマ(ビザンツ)帝国の一部とされ,その後,セルビア・ブルガリアの支配を受け,14世紀末からオスマン朝の支配下にはいる。その支配のもと住民の3分の2がイスラームに改宗。
【独立とその後】独立運動が高まる中,1912年の第1次バルカン戦争の際,オーストリアの支援で独立を宣言し,翌年,独立を達成。第一次世界大戦中はギリシアとイタリアに占領されたが,1917年に独立を回復。1925年共和国となるが,翌26年ティラナ条約でイタリアの保護国となる。1928年王政となるが,39年4月イタリアが一方的に併合。第二次世界大戦中,一時ドイツに占領されたが,1944年国民解放運動が中心となり全土を解放。1946年,エンベル=ホッジャを首班とするアルバニア人民共和国が成立し,ソ連と同盟を結び新憲法を制定。以後,実質上はホッジャによるスターリン主義的独裁化が進められる。中ソ対立が進行する中,1961年ソ連を修正主義と批判して国交を断絶。以後,中国とは友好関係を維持する中,1964年国名を社会主義人民共和国と改称し,65年にはワルシャワ条約機構から脱退。しかし,1970年代にはいって米中接近が始まるとそれを批判し,78年中国とも国交を断絶し,鎖国政策を採用。1985年,長年独裁体制をしいてきたホッジャが死去,アリア政権となるが,その政権下でも「純粋社会主義」の堅持を表明。1988年になると中国と関係改善に合意し,同年7月にはソ連と国交正常化を行い,国際社会復帰に向けて開放化を進めた。1989年の東欧民主革命の影響がアルバニアにもおよび,90年ティラナで民主化要求デモが起こり,同年12月労働党(共産党に該当)が一党独裁放棄と複数政党制導入,さらに非スターリン化を公式に決定。1991年,アメリカと国交を回復,さらに自由投票による総選挙で労働党(6月社会党と改称)が勝利,4月大統領制に移行し,国名をアルバニア共和国に改称。同年5月には市場経済への段階的移行を発表。1992年の総選挙では民主党が圧勝。このころからセルビア共和国コソヴォ自治州の多数を占めるアルバニア人の扱いをめぐって新ユーゴスラヴィア政府を非難。1997年に「ねずみ講」の破綻を機に全土で暴動が発生し,6月の総選挙で社会党が圧勝。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アルバニア」の解説

アルバニア
Shqipëri[アルバニア],Albania[英]

バルカン半島の南西部に位置する共和国。首都はティラナ。アルバニア人はバルカンの先住民イリリア人の子孫と考えられる。6世紀後半,南スラヴ族のバルカン進出に伴い,山岳地に追われて現在の地域に定住。ビザンツ帝国ブルガリア帝国,中世セルビア王国の支配を受け,みずからの国家を築けなかった。15世紀前半にオスマン帝国の支配下に置かれたが,スカンデルベグがオスマン軍に果敢に抵抗。スカンデルベグは近現代に至ると,民族の英雄としてアルバニア民族主義の基礎にすえられた。19世紀後半,アルバニア人居住地はオスマン帝国の行政上,4州に区分されていただけでなく,北部のゲグ族と南部のトスク族とに分断されていたが,ようやく民族運動が進展。1878年に南部の豪族アブドゥル・フラシャリの呼びかけでプリズレン連盟が結成され,アルバニア人居住地域の統一と自治が初めて掲げられた。1912年,第1次バルカン戦争のさなかにアルバニアの独立が宣言され,翌年5月に国際的に承認された。20年に「再独立」を認められ,28年にはゾグを国王とする立憲君主国となった。第二次世界大戦後,ホジャのもとで硬直したスターリン主義の社会主義国となり,67年から「無宗教国家」となった。78年からは「鎖国政策」の道を選択。89年の東欧革命の影響が及ぶのはおそく,92年に体制転換が完了したが,不安定な政情が続いた。

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