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イタリア・ルネサンス期の画家,建築家。英語ではラファエルRaphael。ウルビノに生まれ,ローマで没。古典主義絵画の大成者であり,その後西欧絵画の歴史のうえで,最高の範例と仰がれた。
父ジョバンニも画家で,少年時代に最初父から絵画の手ほどきを受けたとされる。次いでペルジーノのもとに学び,おそらくはペルージアのカンビオの壁画装飾に協力,またペルジーノの影響の強い《聖母の結婚》(ブレラ美術館)を描いた。他に初期の作品として,《騎士の夢》(ロンドン・ナショナル・ギャラリー),《三美神》(シャンティイ,コンデ美術館)などがある。1504年秋ごろからフィレンツェに移り,フィレンツェ派,とくにレオナルド・ダ・ビンチの作品を学んで,静謐で安定した様式を完成した。この時期の代表的作品として,《聖母の埋葬》(ボルゲーゼ美術館),《アニョロおよびマッダレーナ・ドーニの肖像》(ピッティ美術館)のほか,《大公の聖母》(ピッティ美術館),《ひわの聖母》(ウフィツィ美術館),《牧場の聖母》(ウィーン美術史美術館),《美しき女庭師》(ルーブル美術館)など,多くの聖母子像が挙げられる。08年,教皇ユリウス2世に招かれてローマに赴き,ユリウス2世,レオ10世の下でバチカン宮殿の〈署名(セニャトゥーラ)の間〉(1508-11),〈エリオドーロの間〉(1511-14),〈ボルゴの火災(インチェンディオ)の間〉(1514-17),〈ロッジア〉(1517-19)などの装飾活動に従事した。とくに,〈署名の間〉の壁画《アテネの学園》《聖体の論議》は,変化に富んだ人物表現と完璧な全体構成によって,ルネサンス期の最高の傑作に数えられる。この〈署名の間〉は,四周の壁や天井の装飾にいたるまでラファエロの構想になり,制作もほとんど彼自身の手になると考えられるが,それ以後の装飾活動においては,しだいに多くの協力者の手を借りるようになり,〈ボルゴの火災の間〉や〈ロッジア〉の装飾などは,ラファエロの基本構想と下絵に基づいて,ジュリオ・ロマーノら多くの弟子たちが制作に参加した。また,システィナ礼拝堂を飾るタピスリーのための原寸大下絵〈使徒行伝〉のシリーズ(ビクトリア・アンド・アルバート美術館)を制作したり,14年,同郷の先輩建築家ブラマンテが世を去った後はサン・ピエトロ大聖堂造営の総指揮を任されるなど,教皇庁のためにデザイナー,建築家としても活躍した。さらに15年には,教皇レオ10世より古代遺物監督官に任命されて,多くの古代遺品の調査にあたった。
ローマでのラファエロの活動は,教皇庁のためだけにかぎらず,多くの富裕な保護者(パトロン)にも捧げられた。とくに銀行家アゴスティノ・キージのためには,その別荘ファルネジーナ宮殿の装飾(《ガラテイアの勝利》の壁画ほか)や,サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のキージ礼拝堂の設計と天井装飾および彫像のデザインを引き受けた。それとともに,タブローにおいても休みなく制作を続け,天上の音楽に魅せられる美しい《聖カエキリア》(ボローニャ絵画館)をはじめ,彼が最も得意とした聖母子像において,《フォリニョの聖母》(バチカン絵画館),《アルバ家の聖母》(ワシントン・ナショナル・ギャラリー),《システィナの聖母》(ドレスデン国立絵画館),《小椅子の聖母》(ピッティ美術館)などの卓越した名品をつぎつぎに生み出した。また肖像画においても,《ユリウス2世の肖像》(ロンドン・ナショナル・ギャラリー),《レオ10世と2人の枢機卿》などの高位聖職者をはじめ,ラファエロと親しかった人文主義者《バルタザーレ・カスティリオーネの肖像》(ルーブル美術館)や,彼の恋人を描いたとされる《ベールの女》(ピッティ美術館)などの絶品がある。
これらの優れた作品や,残された多くのデッサン,あるいは版画複製などによって,ラファエロの作品はヨーロッパ中に知られ,最も完成された美の規準として,19世紀の新古典主義にいたるまで,西欧の絵画理念に最も大きな影響を与えた。
執筆者:高階 秀爾
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1483~1520
イタリア盛期ルネサンスの画家,建築家。ウルビーノに生まれ,ローマで没。父に画技を学んだのち,温雅な画風のペルジーノの工房に入る。1504年からフィレンツェに移り,レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロらの影響を受けて,調和のとれた明晰な構成と華麗な色彩で盛期の優美な古典様式を確立する。08年,教皇ユリウス2世の招きでローマにおもむき,ヴァチカンの宮廷画家として栄華のうちに夭折。後年の画風は,理想化をきわめて自然の模倣の域を脱し,主観主義的なマニエリスム様式への展開を示した。代表作は,聖母子像の規範となった多くの「聖母子」画,ヴァチカン宮壁画「アテネの学堂」など。
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…しかし,16世紀に入るとこの均衡は再び崩れ,芸術は,より新しい主観主義へと傾く。ラファエロは,教皇ユリウス2世の古代ローマ再建の壮大な意志を表現する大構図作者であったが表面的に過ぎ,ミケランジェロは初期には古代彫刻を超える肉体の官能性を表現したが,16世紀とともに危機に向かうイタリアの世界観を表現し,新たな象徴主義へと向かった。システィナ礼拝堂の《最後の審判》はその危機の表現である。…
…彼は,15世紀の芸術家が単に自然を模倣しこれを整理する理法を知ったのに反し,16世紀の芸術家は〈マニエラを知る〉ことによって〈自然〉を超えた〈優美〉をもつにいたった,と述べ,ここでマニエラは,〈自然〉に対して,人間の〈イデア(理念)〉を付加する高度の芸術的手法と考えられるようになった。バザーリとその同時代の理論書では,ミケランジェロとレオナルド・ダ・ビンチ,ラファエロの〈手法〉を知ることにより高度の理想美が実現できると考えられたが,これは,芸術表現において初めて,意識的に〈様式〉の自覚が行われたことを意味し,古代ギリシア以来のミメーシス(模倣)の理論に対する一つの変革であった。 しかし,17世紀のバロック古典主義,バロック自然主義のいずれもが,16世紀の主知的様式主義を芸術の堕落として敵視し,とくに美術理論家G.P.ベローリは,このマニエラを自然から離れた虚偽の人為的な芸術であり,芸術のデカダンスであると非難したため,新古典主義が主導権を握った17~18世紀を通じて,マニエラとマニエリスムの双方が著しく価値をおとしめられ,19世紀にいたるまで,マニエラは〈型にはまった同型反復〉,マニエリストは〈巨匠の模倣をする,創造性を欠く追従者〉として位置づけられた。…
…画家・金細工師のF.フランチアのもとで修業した後,1508年ころベネチアに赴き,とくにデューラーの木版画の模刻をするが剽窃(ひようせつ)罪で訴えられる。10年ころローマに移住し,ラファエロの工房で師のデッサンに基づく多量の複製版画を制作し普及に努めた。師の死後,同胞G.ロマーノと共作するが,作品の猥褻(わいせつ)性のため投獄される。…
※「ラファエロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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