江戸前期の大名。会津松平藩祖。将軍徳川秀忠(ひでただ)の第4子。家光(いえみつ)の異母弟、幼名幸松麿(ゆきまつまろ)。母は秀忠の側室神尾(かんお)氏お静、その出生をはばかり7歳のとき信濃(しなの)国(長野県)高遠(たかとお)藩主保科正光の養子となり、1631年(寛永8)養父正光の遺領3万石を継ぐ。1636年出羽(でわ)山形藩20万石、1643年3万石を加増され会津23万石となった。同時に幕領で南山(みなみやま)5万石余を私領同様の取扱いで預かった。1651年(慶安4)家光の死去後、遺言によって幼少の将軍家綱(いえつな)の後見として幕政に参与、慶安(けいあん)事件(由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱)などで動揺した幕政を安定させ、文治政治を推進した。明暦(めいれき)大火後の両国橋架橋、玉川上水工事などにも尽力した。一方藩政では、入部と同時に家臣の知行(ちぎょう)を俸禄(ほうろく)制とし、城代、家老、奉行(ぶぎょう)、加判制と月番制、軍役などの制度を改正整備した。また郷村仕置の法令を布達し、領内産物の他領流出の防止、市場の再興、特産物の蝋(ろう)、漆(うるし)の納入および買い方の決定などを正保(しょうほう)年間(1644~1648)までに確定、1648年(慶安1)領内総検地を実施した。1654年(承応3)農民に低利で米金を貸与する社倉法を実施、さらに1658年(万治1)定免(じょうめん)制によって藩財政の収入を安定させるなど会津藩の藩体制を揺るぎないものとした。また殉死の禁止、領民の風俗匡正(きょうせい)、人身売買の厳禁、孝子節婦の表彰、高齢者の養老扶持(ふち)の支給なども行った。正之は朱子学と神道(しんとう)の信奉者で、朱子学は山崎闇斎(あんさい)に、神道は吉川惟足(これたり)に学び、『輔養編』『玉山(ぎょくざん)講義附録』『二程治教(にていちきょう)録』『伊洛(いらく)三子伝心録』を編纂(へんさん)し、『会津神社誌』『会津風土記(ふどき)』なども残している。1668年(寛文8)正之自ら起草したと伝えられる「家訓十五ヶ条」は、永代会津藩政の基本となった。寛文(かんぶん)12年12月18日、江戸で没した。
[誉田 宏]
『会津若松史出版委員会編『会津若松史 3』(1965・会津若松市)』
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(大森映子)
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江戸前期の大名,会津藩主。徳川秀忠の三男。母は神尾(かんお)氏お静の方。家光の異母弟。信濃国高遠藩主保科正光の継母が家康の異父妹であった縁で,1617年(元和3)正光の養子となる。31年(寛永8)家を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり,従五位下肥後守に叙任。その後,侍従・少将に昇進し,53年(承応2)正四位下中将に叙任。36年出羽山形20万石に移り,43年会津23万石を領した。藩政においては家臣団編成・農政にすぐれた手腕を示し,江戸時代前期の名君の一人に数えられる。《会津家訓》は正之みずからが著した会津藩の祖法である。朱子学を学び,神道を信仰した。家光の遺言によって4代将軍となった家綱の補佐役となり,幕政に重きをなし,殉死の禁止などの政策に関与した。69年致仕し,子の正経に家督を譲った。
執筆者:藤井 譲治
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1611.5.7~72.12.18
江戸前期の大名。陸奥国会津藩主。徳川秀忠の四男。1617年(元和3)秀忠の密命で保科正光の養子となった。31年(寛永8)正光の遺領信濃国高遠3万石を領し,36年出羽国山形藩主となり,43年会津23万石に転じた。53年(承応2)正四位下中将。兄の徳川家光死後,その遺言により家綱をたすけ,幕閣の重鎮として活躍。寛文の武家諸法度発布に際しては,正之の意見により殉死の禁が口達されている。ほとんど江戸住いだったが,藩政においても国元の家老以下を指導し,社倉の採用や蝋・漆の生産奨励と専売制の実施など会津藩政の基礎確立に尽くした。
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…会津藩内の神社について,藩主保科正之(ほしなまさゆき)の命をうけ,服部安休(1619‐81)が記した書。1巻。…
…大土木工事による支出の増大を補うための年貢増徴に加え,農村を襲った寛永の大飢饉により農民の逃散が相つぎ,家臣堀主水との軋轢(あつれき)(会津騒動)もあり,43年明成は封を返還した。代わって徳川家光の異母弟保科正之が最上より入部,保科氏は95年(元禄8)松平の姓と葵の紋を許され,幕末まで家門大名としてこの地を支配した。本領23万石のほかに,南山あるいは越後国において預地の変遷がみられた。…
…徳川家康に殉死者がなかったのは,家康が殉死に反対の見解を示していたためといわれる。大名の中にも同様の見解を抱く者が多くなり,その一人である保科正之の意見などにもとづいて,幕府は63年(寛文3)4代将軍家綱が武家諸法度を公布した際に,口頭で殉死を禁止する旨を申し渡した。実際に幕府は,その2年後に殉死者を出した宇都宮藩主奥平家を罰して2万石を減封し,殉死者の子を斬罪に処したので,この風習はほぼ絶えた。…
…1658年(万治1)初めて京から江戸に遊学した闇斎は以後毎年江戸に下り諸大名に講学した。その結果65年(寛文5)会津藩主保科正之に招かれその賓師となり,正之との交わりは72年正之死去のときまで変わることなく持続した。正之の知遇をうけ儒学者として闇斎の社会的地位も確立したが,当時正之は吉川惟足(これたり)に師事し熱心に神道を研究しており,闇斎も1671年54歳のとき垂加霊社という生前霊社号を惟足から授与された。…
…その生祠を霊社(れいしや)と称している。生前神になった事例は,山崎闇斎の垂加霊社や会津藩主保科正之の土津(はにつ)霊神がある。また松平定信は〈我は神なり〉と主張し,自己の木像を家臣にまつらせ,守国霊神と称された。…
…信濃の豪族。平安末期諏訪氏の一族が高井郡保科(現,長野市若穂町)によったことにはじまる。1181年(養和1)の横田河原の合戦に木曾義仲軍井上光盛の手勢として保科党がみえる。また保科太郎は源頼朝の家人となった。一族は15世紀はじめに伊那高遠へ移った。その後裔正則は高遠城により,正俊,正直の2代は武田氏に属し勇名をはせた。正直は武田氏滅亡後徳川氏に仕え,1590年(天正18)徳川氏の関東移封にともない下総多胡1万石の領主となった。…
※「保科正之」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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