信仰は宗教の基礎概念であり基本態度であるが,それだけに定義の困難なものである。どの宗教にも崇拝対象があり祭儀行為がありながら,信仰はより自覚的な態度であるので,すべての宗教にこれがあるとはいえず,あってもさまざまの段階をもっている。ギリシア人は一般に信仰pistisよりも知識を重んじたので,信仰は知識以下で,臆測doxaと同じものとみなしていた。ギリシア人の宗教性は不死へのあこがれを基盤とするもので,その深さは悲劇における苦悩の意識や自然の底にあるデーモン的なものの発見などにうかがわれ,ソクラテスに見るように敬虔の情にも欠けることはない。それにもかかわらず信仰が信仰として独立するに至らなかったのは,ギリシアの宗教が多神教で,しかも政治と倫理を媒介することが少なかったためといえる。イスラムでは唯一の人格神による創造と審判が説かれ,神はムハンマドを通して人間にあわれみを伝え,啓示の書たるコーランをもって共同体の規範としたと説かれる。この場合,信仰は人格的対象をもち,かつ現実の生の困難にたえて神への要請にこたえる行為とされるのであるが,信仰があまりにも一点に集中しているため,〈信仰の自由〉や〈信仰と文化〉の問題が起こることはほとんどないのである。仏教では〈信心〉が出発点で,それが仏法の知恵と悟りにまで高められることを目的として進み,その過程で世界と人間の罪業の深きを知り,因縁の深さに打たれると説かれる。信心の究極は仏となることにあり,この本願に導かれることが信仰であるといえる。この場合,信仰は対象との同化という循環過程あるいは円環領域の中にあるので,信心に純一と従順と知識を加えてこれを開かれたものとすることはあっても,中心を明示し逆説をとどめることはかえって不要とされる。
これらに対し,キリスト教は信仰対象をイエス・キリストとし,その内容として神が人間となったこと,この人間の死と復活において救いが成ったことを説く。そこでこの信仰は,信心から出発するといういわば人間学的態度をとることが可能であるが(《テモテへの第1の手紙》には敬虔eusebeiaという語が現れている),これがみずからを開きみずからを耕すことで内容を獲得することはできない。旧約聖書には〈信仰〉の語はなく,〈信頼〉〈確信〉〈真実〉を意味するhe'emīnがこれに代わるのであるが,創造にせよ救済にせよ対象の側からの開示があって初めて信仰内容となりロゴス化されるのである。したがって信仰内容は信仰に対して向き合うものでありつづける。例えば苦難は救済に限りなく近づくとしても,救済そのものではありえず,十字架は単なる模範ではなく代罰であり,信仰によって仰ぎ見られる対象である。キリスト教は歴史的宗教なので,ギリシア文化と接して〈信仰と理性〉を,ゲルマン人と接して〈信仰と政治〉を,近代の世俗世界に入って〈信仰の自由〉をそれぞれ問題としてもつに至った。しかしこれらは信仰内容に何かを加えるものでは必ずしもなく,信仰は〈信仰のみsola fide〉で十分であるともいわれる。この言葉は恩恵(恩寵)か自由意志かの問題で争ったアウグスティヌス(およびのちのルター)とペラギウスの双方から出されていて,信仰は恩恵に面して危機にさらされることを示している。
執筆者:泉 治典
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
神仏のように、自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係をもち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度をいう。経験できぬ不確実なものを主観的に確実であると思い込むことではない。宗教的体験や儀礼を繰り返すことによって、しだいに人格の内部に一定の心的態度が信仰として形成される。信仰は個人生活を統合する中心の役割を果たすと同時に、その信仰の表現である信条、組織、制度などにより、共同体の生活を統合する活動の中心にもなっている。
[藤田富雄]
幼児の母親に対する態度のように、人間と人間との間に形成され、相手の人格にすべてを一任する心的態度が信頼である。任せきるという点で信仰と共通するが、信頼の対象である人間は有限で究極的ではないから、相手の自由意志に任せる信頼は、つねに裏切られる危険と情緒的不安が付きまとう点では、信仰とはまったく異なる。
[藤田富雄]
人間は、直接の体験や他人の経験の範囲内で思考するが、合理的な思考形式によって、一般に確実で検証されたものと承認されるとき知識が生まれる。知識は学問研究によって絶えず改変されるから、つねに知識は不確実で不完全なものにすぎないが、仮説として承認される知識もある。このような認知的な心的態度が信念であるが、信仰は知情意の経験の全体にわたり、さらに経験を超えたものにも関係するので、既成の思考形式を超えて新しいものを生み出す可能性をもつ。科学が進歩すれば信仰は不要になるというような考え方は、信仰と信念との混同から生じるといえる。
[藤田富雄]
信仰対象、心的態度、社会や文化の状況などによって、信仰の形態は異なる。人間形成の過程においても、幼児期から老年期に至るまでに信仰は変化するのが当然である。とくに青年期は宗教的関心が高まって信仰が動揺するから、入信や改宗という回心現象が強くみられる。また、信仰はしだいに深まっていくもので、成熟した宗教的人格の備えている価値は聖者性とよばれ、聖者となることが信者の理想であり、信仰の極致であると考えられている。
[藤田富雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…仏教では発菩提心(ほつぼだいしん)とも信心ともいう。信仰というのもおなじであるが,信心はひろく通俗性をもっている。しかし仏教で〈信〉とか〈信楽(しんぎよう)〉といえば,絶対的帰依の哲学的意味をもたせる。…
※「信仰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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