(五味文彦)
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平安末期の武将。父は平清盛(きよもり)、母は平時子。久安(きゅうあん)3年誕生。同腹弟妹に知盛(とももり)・重衡(しげひら)・建礼(けんれい)門院徳子(とくこ)がいる。従(じゅ)一位内大臣。1179年(治承3)清盛の嫡男重盛(しげもり)が病没後、81年(養和1)清盛が没し、一門総帥の地位につく。しかし政治家としての力量に欠け、83年(寿永2)源義仲(よしなか)入京に先だち西走。安徳(あんとく)天皇を奉じ一門を率いて九州に向かい、新都経営をもくろんだが果たさず、讃岐(さぬき)屋島(やしま)に本拠を置く。84年(元暦1)一ノ谷の戦い、翌85年(文治1)屋島の戦いに敗れ、同年3月壇ノ浦(だんのうら)で一門滅亡、宗盛は子清宗(きよむね)とともに生虜となる。5月鎌倉へ送られたのち、6月21日近江(おうみ)篠原(しのはら)(滋賀県野洲(やす)市)で父子ともに誅殺(ちゅうさつ)され、首は獄門にかけられた。
[飯田悠紀子]
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平安末期の武将。清盛の子。従一位内大臣。1181年(養和1)源平争乱のさなかに清盛が死に,一門の統率の任につくが力量に欠け,83年(寿永2)源義仲に追われて大宰府に走る。ついで屋島に拠り,一時,摂津一ノ谷までもり返すが敗退。85年壇ノ浦で一門が滅亡したさい,自決しえず子の清宗とともに源義経に捕らえられ鎌倉に送られた。さらに京都へ送り返される途中,近江篠原で斬られ,首を獄門にかけられた。
執筆者:田中 文英
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1147~85.6.21
平安末期の武将。清盛の三男。母は平時子。屋島内府と称する。1157年(保元2)従五位下。59年(平治元)平治の乱の功により遠江守。その後も順調に昇進し,従一位内大臣。異母兄重盛の死後,清盛の嫡子となり,清盛の死ののち一門を統率した。83年(寿永2)西走して屋島まで勢力を回復したが,一の谷・屋島の戦で敗北。85年(文治元)壇ノ浦で捕らえられ,鎌倉に護送されて源頼朝と対面した。京都に送られる途中,近江国篠原(現,滋賀県野洲市)で斬殺された。
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…逢坂山,勢多の唐橋,野路(のじ)の里,鏡山,伊吹が岳,不破の関,鳴海潟(なるみがた),三河の八橋(やつはし),浜名の橋と過ぎて,池田の宿に着いた(〈三重・初重〉)。ここでは長(ちよう)の熊野(ゆや)の娘侍従の家に宿泊したが,この侍従は,もと都で平宗盛に愛された女で,老母の病気に帰国を願ったが許されなかったため,和歌を詠じて宗盛から許しを得たという女だった。重衡は,春も暮れ近い道中の風物を見るにつけても,身の宿業の悲しさに涙が絶えない日々だった(〈中音・初重〉)。…
…731年(天平3)藤原武智麻呂の政権は口分田の再配分を強行し,民衆の不満を抑えるため畿内に惣官,諸道に鎮撫使を置いたが,この惣官は軍事的な権限を持つ臨時の官であった。1181年(養和1)源頼朝による東国政権の成立に対抗し,軍事体制の強化をはかる平氏政権は,平宗盛を五畿内,伊賀,伊勢,近江,丹波などの諸国の惣官とした。ここには天平の惣官の先蹤にならう意識もあったであろうが,むしろこれは,すでに成立していた供御人(くごにん),神人(じにん)の惣官に準じ,在庁をはじめ国中の武士の軍事的統轄者として補任された職で,のちの守護の先駆とみることができる。…
※「平宗盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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