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第89代天皇(在位1246~59)。名は久仁(ひさひと)。法名素実(そじつ)。常盤井(ときわい)殿また富小路院(とみのこうじいん)殿と称した。後嵯峨(ごさが)天皇の皇子。母は西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の女(むすめ)大宮院姞子(おおみやいんきっし)。父天皇の譲を受け位についたが、父の命により1259年(正元1)位を弟亀山(かめやま)天皇に譲った。その後、子伏見(ふしみ)天皇、孫後伏見(ごふしみ)天皇の代に院政をとり、90年(正応3)出家し、嘉元(かげん)2年7月16日没。京都の深草北陵に葬る。後深草天皇は持明院(じみょういん)統の祖であり、北朝皇統の祖にもあたる。持明院、大覚寺(だいかくじ)両統の対立が激化した伏見天皇の代、浅原為頼(あさはらためより)の伏見天皇殺害未遂事件があった。後深草天皇は、33年間にわたり100巻に余る日記を記したと伝えられており、これを『水旱宸記(すいかんしんき)』とも称したが、今日ではそのほとんどが失われ、わずか10巻だけが伝存する。
[村田正志]
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1243.6.10~1304.7.16
在位1246.1.29~59.11.26
後嵯峨天皇の第3皇子。名は久仁(ひさひと)。母は西園寺実氏の女大宮院姞子(きっし)。1246年(寛元4)即位し,父後嵯峨上皇が院政を行った。59年(正元元)父の命で弟亀山天皇に譲位。後嵯峨上皇の没後,亀山天皇の子孫が正嫡とされ,74年(文永11)後宇多天皇が即位。これを不満とした後深草上皇の意をくんだ関東申次(もうしつぎ)西園寺実兼が幕府へ働きかけ,皇子熙仁(ひろひと)親王(伏見天皇)を皇太子に立てた。87年(弘安10)伏見天皇が即位し,後深草上皇は持明院に入って院政を行った。このため,その皇統を持明院統という。90年(正応3)出家し政務から退いた。
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…著者は中務大輔藤原信実の娘(実名不詳)で,肖像画の名手藤原隆信の孫に当たる。後深草天皇に皇太子時代から仕えた。日記の期間は1246年(寛元4)の後深草天皇即位から52年(建長4)ころまで,内容は200首に及ぶ著者の歌を中心に,宮廷生活における行事や見聞を記す。…
…鎌倉時代後半,天皇家が後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂して皇位継承を争った時期に,妥協策として両統から交互に皇位につくとされた原則。後嵯峨法皇は第3子後深草上皇よりも第7子亀山天皇を愛し,後深草の皇子熙仁親王を退けて亀山の皇子世仁親王を皇太子に立てたが,承久の乱(1221)後鎌倉幕府が皇位継承問題に干渉することが多く,それを顧慮した後嵯峨法皇は死に際して後深草,亀山のいずれを〈治天の君〉(天皇家の惣領)とすべきかの決定を幕府の指示にゆだねた。…
※「後深草天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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