慈照寺(読み)じしょうじ

精選版 日本国語大辞典 「慈照寺」の意味・読み・例文・類語

じしょう‐じ ジセウ‥【慈照寺】

(開基の足利義政の院号にちなむ) 京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺。山号は東山。文明一四年(一四八二)足利義政が金閣にならって建てた別荘東山殿を前身とする。義政の死後、遺命により夢窓疎石を開山に迎えて寺とした。二層の観音殿(銀閣)および義政の持仏堂(東求堂(とうぐどう))は国宝。庭園は国特別史跡特別名勝。銀閣寺。銀閣。

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デジタル大辞泉 「慈照寺」の意味・読み・例文・類語

じしょう‐じ〔ジセウ‐〕【慈照寺】

銀閣寺の正称。

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日本歴史地名大系 「慈照寺」の解説

慈照寺
じしようじ

[現在地名]左京区銀閣寺町

臨済宗相国寺派。延徳二年(一四九〇)二月に将軍足利義政の菩提を弔うため、如意によいヶ嶽北西麓の山荘東山ひがしやま殿を寺に改め創立。現在は境内にある観音かんのん殿(銀閣)にちなみ銀閣ぎんかく寺ともよばれ、足利義満の北山きたやま殿(現京都市北区鹿苑寺)とともに室町文化を象徴する代表的寺院。当寺は平成六年(一九九四)世界の文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。旧境内は国の史跡に指定されている。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔東山殿〕

義政が晩年の隠棲所として当地にあった浄土寺寺域に山荘造営を開始したのは、文明一四年(一四八二)二月四日である(後法興院記)。すでに寛正六年(一四六五)、義政は京都南禅寺塔頭恵雲院の地に山荘造立を計画したが(「蔭涼軒日録」同年一〇月八日・九日条)、応仁の乱の勃発で中止。乱後の文明一二年一〇月一九日、岩倉いわくら(現左京区)嵯峨さが(現京都市右京区)の地を検じて再び計画(大乗院寺社雑事記)、同一四年一月に浄土寺山の山麓が選ばれた(西園寺家記録)。翌一五年六月二七日最初に上棟した常御所が完成し義政はここに移徙した(御湯殿上日記)。同一七年に西指せいし庵・超然ちようねん亭・浴室、同一八年に持仏堂(東求堂)・西指庵の門、翌長享元年(一四八七)に会所・泉殿・庭、同二年に船舎・竜背りゆうはい橋が完成、翌三年二月二三日には最も遅れて観音殿が上棟されている(蔭涼軒日録)

造営にあたり義政は、山城に荘園をもつ領主に造営費・人夫を提出させたが(後法興院記・西園寺家記録)、その様子は東山殿御普請方入足配当帳(東寺百合文書)に収められる東寺(教王護国寺)の例によってうかがうことができる。このほかに幕府は守護大名に出銭を命じ、諸国の荘園に段銭をかけ、さらに遣明船の利益をも山荘造営費にあてた(「親元日記」「大乗院寺社雑事記」ほか)

〔慈照寺の創立〕

延徳元年一〇月三日に観音殿の扁額も完成したが(蔭涼軒日録)、翌二年一月七日に義政は五一歳の生涯をとじた。東山殿は義政の遺言にしたがい寺に改められて、住持に京都相国しようこく寺の室処が任ぜられ、持仏殿を仏殿とする慈照寺が創立される(「蔭涼軒日録」延徳二年二月二四日・二七日・三月四日・五日条)。明応三年(一四九四)三月二四日・文亀元年(一五〇一)三月一五日には近衛政家が寺内の建物を巡見している(後法興院記)。天文一九年(一五五〇)五月二一日には前将軍足利義晴の葬儀が営まれて、常御所御座所(唐人の間)と会所嵯峨の間が用いられ(万松院殿穴太記)、持仏堂(東求堂)が僧侶の宿泊所とされた(「鹿苑日録」同年五月二〇日条)

慈照寺
じしようじ

[現在地名]竜王町竜王

竜王集落の北方、釜無川左岸に位置する。有富山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。延徳元年(一四八九)に創建され、開山は真翁宗見、開基は諸角昌清。ともに武田信昌の子と伝えられる(寺記)。持照寺と記す史料もある。近世は竜華りゆうげ(現中道町)末。天文一五年(一五四六)三月一二日には殺生などを禁じた三ヵ条の武田晴信禁制(慈照寺文書、以下断りのない限り同文書)が出されている。織田信長も天正一〇年(一五八二)当寺に対し禁制を発した(同年四月織田信長禁制)。天正三年正月二八日には跡部勝忠等連署証文、同一三年九月七日には徳川家奉行連署証文が出され、寺門前の家五間の棟別役が免除されている。

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改訂新版 世界大百科事典 「慈照寺」の意味・わかりやすい解説

慈照寺 (じしょうじ)

京都市左京区にある臨済宗相国寺派の寺。通称銀閣寺,正式には東山慈照禅寺。1490年(延徳2),足利義政の菩提を弔うため,如意嶽のふもとに義政が営んだ東山殿(ひがしやまどの)(東山山荘)を禅寺に改めて開創された。世にいう東山文化を象徴する寺である。義政の東山山荘は天台の古刹浄土寺の旧地に当たり,義政がこの佳境を愛して山荘造営を開始したのは,応仁の乱後の1482年(文明14)のことであった。翌83年,まず常御所(つねのごしよ)が完成し,義政はこの山荘に移った。造営は義政の趣向をいれて続けられ,西指庵(せいしあん),超然亭(ちようねんてい),持仏堂(東求堂(とうぐどう)),会所,庭園,船舎,竜背橋(りゆうはいきよう)などが完成し,最後に銀閣(観音殿)が89年に上棟されたが,その翌年義政は病没した。義政の遺言で,祖父義満の鹿苑寺(旧北山山荘)にならい山荘を禅寺に改めて,義政の院号にちなんで慈照寺と称した。その後,室町幕府の衰亡とともに寺運も傾き,戦国末期に兵禍のため,東求堂と銀閣を除いて他の建物を失い荒廃した。近世には朱印寺領35石を有し,寛永年間(1624-44)には堂宇の修復もあって今日の寺観を整えた。創建当初,義政は西芳寺庭園を手本とした閑寂な庭を営んだが,現在の庭園は寛永の修復時にこれを整備したものである。寺宝には義政関係のものが多いが,とりわけ足利義政木像1軀は,室町時代の肖像彫刻の代表作として注目される。
執筆者:

東求堂(1486,国宝)は6.9m四方,檜皮葺き(ひわだぶき)入母屋造の屋根をもつ小堂で,内部は持仏堂,同仁斎(どうじんさい)とよばれる小室など4室からなる。持仏堂はこの建物の主室で,南面して桟唐戸(さんからと)をつり,床は拭板敷,折上格天井(おりあげごうてんじよう)仕上げ,正面に阿弥陀三尊を安置する。同仁斎は北東部にある4畳半座敷で,北側に棚,付書院(つけしよいん)がつくりつけになっており,床は畳を敷きつめ,角柱,外回りは遣戸(やりど)と明障子(あかりしようじ),内部間仕切は襖障子とし,猿頰(さるぼお)天井を張るなど,初期書院造の典型となっている。銀閣(1489,国宝)は正式には観音殿と称し,宝形造,柿(こけら)葺き屋根をもつ2層の殿閣で,初層を心空殿,上層を潮音閣と称する。初層は東を正面とし,腰高障子を用いて書院造住宅風につくり,上層は南を正面として桟唐戸と花頭(かとう)窓を構え,高欄つきの縁をまわすなど禅宗様仏堂の形式を備えている。住宅の上に仏堂を重ねる構成は鹿苑寺金閣にすでに先例があるが,下層は寝殿造風の金閣とは異なり,それぞれつくられた時代の住宅形式が反映されている。なお銀閣の名称は江戸初期の名所案内記に登場し,義満の金閣にならって銀箔をはったとされるが,その形跡はない。庭園(特史)は浄土庭園の構成をもち,池や中島の石組みにみられる直線的な構成美が優れている。作庭には義政の意向をうけて,当時〈泉石の名手〉といわれた善阿弥一族が参加したと推定され,義政自身がかかわった造園のなかで現存する唯一の遺構としても貴重である。
足利義政
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「慈照寺」の意味・わかりやすい解説

慈照寺
じしょうじ

京都市左京区銀閣寺町にある臨済(りんざい)宗相国寺(しょうこくじ)派の寺。山号は東山(とうざん)。通称の銀閣寺で名高い。本尊釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。1465年(寛正6)足利(あしかが)8代将軍義政(よしまさ)は、天台宗浄土寺の旧跡に山荘の造営を始め、1483年(文明15)常御所(つねのごしょ)落成後に移り住み、これを東山殿(ひがしやまどの)と称した。1490年(延徳2)義政死去して、その遺命により禅寺に改め、相国寺の室処和尚を住持に迎え、夢窓疎石(むそうそせき)を勧請(かんじょう)開山とした。慈照寺の名は義政の法諱(ほうき)をとったもの。ついで10代将軍義稙(よしたね)の弟維明(これあき)が住持となってからは、五摂家より出て住持となる者が多かった。園中の楼閣(観音殿(かんのんでん))は世に銀閣とよばれ、北山鹿苑寺(ろくおんじ)の金閣と並び称されている。ただし楼閣の落成は1490年、義政没後であった。盛時には殿閣、亭楼10余を数えたが、現在は東求堂(とうぐどう)、銀閣(以上は国宝)、本堂、弄清(ろうせい)亭などがあるにすぎない。金閣寺に比べると規模は小さいが、幽雅清淡を尊ぶ茶道精神にのっとる東山文化の代表作として知られる。銀閣は重層宝形造(ほうぎょうづくり)で、住宅風の下層を心空殿(しんくうでん)、仏殿風の上層を潮音閣(ちょうおんかく)と号し、本尊の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を安置している。東求堂は義政の持仏(じぶつ)堂で、東の間の同仁斎(どうじんさい)は日本最初の四畳半茶室として著名である。相阿弥(そうあみ)(一説に善阿弥(ぜんあみ))作と伝えられる庭園は西芳(さいほう)寺の庭園を模したもので、池を錦鏡(きんきょう)池、中央の砂盛りを銀沙灘(ぎんしゃだん)、富士形の砂盛りを向月台といい、一樹一石にすべて名がある。特別史跡・特別名勝。1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。

[平井俊榮]

『『古寺巡礼 京都20 金閣寺・銀閣寺』(1977・淡交社)』

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百科事典マイペディア 「慈照寺」の意味・わかりやすい解説

慈照寺【じしょうじ】

京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺。銀閣寺と通称。15世紀末に足利義政の建てた山荘東山殿を,その没後遺命により禅寺としたもの。銀閣(観音殿,国宝)は金閣になぞらえて建てたもので,2層からなり,初層の心空殿(しんくうでん)は住宅様式,2層の潮音閣(ちょうおんかく)は禅宗様式になっている。東求(とうぐ)堂(国宝)は義政の持仏堂など4室からなり,その中の四畳半の部屋同仁斎は書院造の最古の遺構であり,茶室の始まりといわれる。庭園(特別史跡)は西芳寺庭園を模して設計されたもの。1994年世界文化遺産に登録。
→関連項目京都[市]古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市)左京[区]善阿弥東山山荘東山文化

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「慈照寺」の意味・わかりやすい解説

慈照寺
じしょうじ

京都府京都市左京区にある相国寺派(→相国寺)の寺。通称は銀閣寺。足利義政が文明14(1482)年から数年にわたって建設した別荘東山殿(ひがしやまどの)を,義政の死後遺命により寺に改め,慈照寺と号した。現存する当時の遺構は銀閣と呼ばれる楼閣建築と東求堂のみで,ともに国宝。銀閣は延徳1(1489)年に完成。西芳寺の舎利殿を模したといわれ,当初観音殿と呼ばれていた。池に面した 2層の構造で,屋上に鳳凰を戴く。1階は書院造風,2階は禅宗仏殿風の様式。鹿苑寺の金閣にならって銀箔を押す計画であったが,義政の死により実現されなかった。東求堂は義政の書斎兼持仏堂として建造された。また庭園は広くないが山腹に石と水を配してのちの茶庭にも通じる境地を開いている。有名な銀閣前の白砂による銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台の構成は江戸時代の改修によるもの。(→東山文化

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「慈照寺」の解説

慈照寺
じしょうじ

銀閣寺とも。京都市左京区にある臨済宗相国寺派の寺。1490年(延徳2)2月,室町幕府8代将軍の足利義政の菩提を弔うため,如意ケ岳北西麓の山荘東山殿を寺に改めて創建。境内にある観音殿(銀閣)にちなみ銀閣寺という。足利義満の北山殿(鹿苑(ろくおん)寺)とともに室町文化を代表する寺院。義政が,天台宗浄土寺の旧跡に山荘造営を開始したのは1482年(文明14)。戦国末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが,前久の死後は相国寺の末寺として再興。重層宝形造(ほうぎょうづくり)杮葺(こけらぶき)屋根2層の銀閣,方形単層入母屋造檜皮葺の東求堂(ともに国宝),国特別史跡・国特別名勝の庭園などがある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「慈照寺」の解説

慈照寺
じしょうじ

銀閣

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デジタル大辞泉プラス 「慈照寺」の解説

慈照(じしょう)寺

京都府京都市左京区にある寺院、銀閣寺の正式名。

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世界大百科事典(旧版)内の慈照寺の言及

【書院造】より

…足利義政が応仁の乱後に経営した東山殿の常御殿や会所の屋内諸座敷の構成は,これらの一連の住宅形式の新傾向を採用したものであった。慈照寺(銀閣寺)の東求堂は東山殿の遺構の一つであり,その屋内北東隅にある書院の同仁斎は四畳半の畳を敷きつめた小室で,北面に一間の付書院と間半の違棚をつくりつけていて,室内外の形式と意匠に書院造の諸特徴をそなえ,書院造最古の遺構とされる。 近世初頭の慶長・元和年間(1596‐1624)には武家大名の邸宅が各地で造立された。…

※「慈照寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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