《古事記》《日本書紀》に伝えられ初代の天皇とされる。高天原(たかまがはら)より天津神(あまつかみ)の子として地上に降臨した瓊瓊杵(ににぎ)尊の曾孫とされる。神武という名は8世紀後半の命名による漢風諡号(しごう)で,記紀には,(1)若御毛沼(わかみけぬ)命,(2)神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)命,(3)始馭天下之天皇(はつくにしらししすめらみこと)ほか多くの名が記されている。(1)は穀霊的性格を示す幼名にあたり,(2)は神聖な大和の国のいわれ(由緒)を負うている男,(3)は初めて天下を治定した天皇の意である。記紀の神武天皇の所伝は若干の小異があるが大綱においてほぼ同様で,要するにそれは神々の世界に生まれた穀霊的存在((1))が,いかにして人の世を開き初代君主((2)(3))となったかを語った一種の英雄伝説とみなされる。《日本書紀》の記す紀年,辛酉年(かのととりのとし)(前660)即位,76年(前585)に127歳で没というのは史実をよそおった造作であり,6~7世紀の記紀神話形成期に今見るような形に物語化されたものであろう。
初め日向の国の高千穂宮(たかちほのみや)にいた神武は,兄五瀬(いつせ)命とはかり,〈どの地を都とすれば安らかに天下を治められようか,やはり東方をめざそう〉と日向を出発する。途中,宇佐,筑紫,安芸,吉備を経歴しつつ瀬戸内海を東進して難波に至り,そこで長髄彦(ながすねひこ)と戦って五瀬命を失う。神武の軍は南に迂回して熊野に入ったところを化熊に蠱惑(こわく)されるが,天津神の助力によって危地を脱し,天津神の派遣した八咫烏(やたがらす)の先導で熊野・吉野の山中を踏み越えて大和の宇陀に出る。ここで兄猾(えうかし),弟猾(おとうかし)を従わせ,以後,忍坂(おさか)の土雲八十建(つちぐもやそたける),長髄彦,兄磯城(えしき),弟磯城(おとしき)らの土着勢力を各地に破り,大和平定を成就する。さらに別に天下っていた饒速日(にぎはやひ)命も帰順して,神武は畝傍(うねび)の橿原(かしはら)を都と定め天下を統治するに至った。后妃は日向の土豪の妹,阿比良比売(あひらひめ)がいたが,大后(おおぎさき)として三輪の大物主(おおものぬし)神の娘,伊須気余理比売(いすけよりひめ)を立て,その間に神渟名川耳(かむぬなかわみみ)尊(第2代綏靖天皇)ほか2子が生まれた。
以上の神武伝説は往古の覇者東漸を記した歴史というより,7世紀前後に王権の儀式,大嘗祭(だいじようさい)とかかわりつつ記紀神話の一環として語りだされたものであろう。大嘗祭に基礎をおく神話の一典型は,大嘗宮での新天子誕生の秘儀を説話化した瓊瓊杵尊の降臨譚だが,神武伝説はこの天孫降臨神話の地上的・世俗的再話といえる。神武の穀霊的素性を示す幼名は,彼が瓊瓊杵尊の分身であることをあらわし,熊野での危機とその克服は降臨譚と同じく死と復活の儀式の型をふんでいる。ただ前者の天界より地上へという宇宙的・神話的展開に対し,後者が日向から大和への遍歴・征服の筋をとるのは,大嘗祭の地上的部分,とくに国覓(くにまぎ)儀礼にもとづくからであろう。国覓は天子が都とするに足るよき地を求めることで,7世紀末以前の都城が天子一代限りとされていた時代には即位式中の一重要部分であった。実際の国覓は大和周辺のあれこれの地を卜占等により選定するが,神武伝説はそれを歴代都城の地にほかならぬ大和そのものの発見,治定として典型化している。それこそが初代君主にもっともふさわしい事業とされたのであろう。なお神武伝説には,一連の戦闘歌謡,久米歌(くめうた)が含まれている。これも大嘗祭における歌舞,久米舞(くめまい)の詞章によるものだが,独特な活気と迫力をもって物語中に精彩を放っている。
→天孫降臨神話
執筆者:阪下 圭八
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記紀に第1代と伝える天皇。神武という名は8世紀後半に贈られた中国風の諡号(しごう)である。『日本書紀』によれば、国風諡号は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)。高天原(たかまがはら)から南九州の日向(ひゅうが)に降(くだ)った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫(そうそん)で、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第4子、母は海神の女(むすめ)玉依姫(たまよりひめ)。45歳のとき、船軍を率いて日向を出発し、瀬戸内海を東へ進み、難波(なにわ)に上陸して大和(やまと)に向かおうとしたが、土地の豪族長髄彦(ながすねひこ)の軍に妨げられ(東征)、方向を変え、紀伊半島を迂回(うかい)して熊野から大和に入り、土豪たちを征服し、ついに長髄彦を倒して、日向出発以来、6年目(『古事記』では16年以上かかる)で大和平定に成功し、辛酉(かのととり)の年元旦(がんたん)、畝火(うねび)(橿原(かしはら)市の地)の橿原宮で初代の天皇の位につき、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と讃(たた)えられた(大和平定)。そして媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)(『記』では比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ))を皇后とし、在位76年、127歳(『記』では137歳)で没して畝傍(うねび)山東北陵に葬られたという。
記紀における神武天皇は、神の代から人の代への接点に位置する神話的な人物であり、即位の辛酉の年(紀元前660年)は中国の讖緯(しんい)思想によってつくられ、事績には神話的な色彩が濃く、史実を伝えるものはほとんどないといわれる。しかし、神武天皇の物語の核心をなす東征の部分には、皇室の遠い祖先が西方からきたという記憶が反映しているとみる説もある。
[星野良作]
『植村清二著『神武天皇』(1957・至文堂)』▽『門脇禎二著『神武天皇』(三一新書)』▽『原島礼二著『神武天皇の誕生』(1975・新人物往来社)』▽『星野良作著『研究史 神武天皇』(1980・吉川弘文館)』
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記紀系譜上の第1代天皇。神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇・彦火火出見(ひこほほでみ)尊と称する。鸕鷀草葺不合(うがやふきあえず)尊の第4子。母は海神豊玉彦(とよたまひこ)の女玉依姫(たまよりひめ)。甲寅年,45歳のとき東征を企て,日向国をたち,筑紫・吉備をへて4年後に河内国に入った。胆駒(いこま)山をこえて大和に入ろうとして長髄彦(ながすねひこ)の抵抗にあったが,転じて熊野にむかい,天照大神(あまてらすおおみかみ)の遣わした八咫烏(やたのからす)に導かれて奈良盆地南部に入り,在地勢力を従えてついに長髄彦を討って大和を征服した。媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命を正妃とし,辛酉年に橿原宮で即位し,始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)とよばれたという。この神武東征説話は,基本的には天孫降臨以後の建国神話の一部であると考えられるが,弥生文化の九州から畿内への伝播などとも関連して,その背景になんらかの歴史的事実の存在を考える意見もある。
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…清国との戦争に備えて,鎮台組織から新師団編成への改変,陸海軍における軍備拡張など,いわゆる対内的軍隊から対外的軍隊への具体的移行がすすめられた時期にとられた政策の一つ。神武天皇東征の際,天皇の弓にとまった金色のトビ(鵄)が長髄彦(ながすねひこ)の軍卒を眩惑・圧倒したという故事にちなんで制定され,軍人の名誉心をそそろうとするものであった。功一級から功七級に至る。…
…記紀神話においては大国主(おおくにぬし)神の子として国譲りの誓約を行い,その後は大和の宇奈提(うなで)に〈皇孫命(すめみまのみこと)の近き守り神〉として祭られた(《出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)》)。また,この神が八尋(やひろ)ワニとなって三嶋溝樴(みぞくい)姫と結婚し神武天皇の后となる姫を生んだという三輪山(みわやま)型説話(三輪山伝説)も伝えられている(《日本書紀》)。コトシロヌシは本来は祈年祭の祝詞にいう大和六県の一つ,高市県(たけちのあがた)で祭られていた飛鳥地方の土着の国津神(くにつかみ)であった。…
…記紀の神武天皇条にあらわれる人物。神武天皇東征の際,熊野において化熊が出現し,天皇の軍を惑乱させてしまう。…
…その姿は,石や岩,山や水などの自然物に象徴される国津神(くにつかみ)を威嚇するのに十分であり,剣は悪霊ざわめく葦原中国を平定する武力と権威の象徴でありえた。したがってタケミカヅチの剣は熊野で難渋していた東征中の神武天皇に降(くだ)し与えられることにもなる。この剣を〈フツノミタマ〉という。…
※「神武天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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