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アインシュタイン あいんしゅたいんAlbert Einstein

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アインシュタイン(Albert Einstein)
あいんしゅたいん
Albert Einstein
(1879―1955)

相対性理論の創始者、20世紀最大の物理学者の一人として知られている。また、その非エリート的経歴の特異さ、アカデミックな枠にとらわれず、ほとんど独力で斬新(ざんしん)な理論を建設する独創性、物理学のみならず哲学・思想界に及ぼした影響の大きさ、さらに権威や差別、とくにファシズムを憎み、人類の平和を求め続けた人間性の豊かさは、ほとんど他に例をみない。[大野陽朗]

平凡な少年・青年時代

1879年3月14日、南ドイツのウルムにユダヤ人の長男として生まれたが、父ヘルマンHermann Einstein(1847―1902)の事業失敗のため、生後1年足らずでミュンヘンに移住した。幼年時代をここで過ごしたが、幼年時代は普通の子供に比べて成長が遅く、知的な障害があるのではないかと両親を心配させたほどであった。ただ5歳のとき父に見せられた羅針盤に異常な興味をもち、また6歳からバイオリンを習い始めたが、これは生涯を通じての楽しみとなった。小・中学生としての生活は、ドイツ特有の権威主義的規律と型にはめ込む教育に対する反発によって愉快なものではなく、したがって優等生ではなかった。もっとも12歳のときに学んだユークリッド幾何学だけは彼の興味を大きくひいた。1894年、父とその兄が共同経営していた会社がつぶれたため、一家はアインシュタインひとりをミュンヘンに残してイタリアのミラノに移った。そして翌1895年にアインシュタインも、卒業を目前にしてギムナジウム(長期普通教育の高等学校)を中退し、両親の下に行った。
 1895年、電気技師になる目的でチューリヒのスイス連邦工科大学を受験したが失敗し、翌1896年再度の受験で合格、1900年に卒業した。彼の学生生活は、正規の授業にはほとんど出席せず、友人のノートで試験を切り抜け、一方、一流の物理学者の原論文を熟読することが主体であった。1902年になって、友人グロスマンMarcel Grossmann(1878―1936)の父の推薦でやっとベルンの特許局の見習い技師に就職できたが、この仕事の余暇に理論物理学の研究に没頭し、やがて「奇跡の年」1905年を迎える。[大野陽朗]

物理学と哲学・思想に衝撃を与える

1905年、光量子説、ブラウン運動、特殊相対性理論に関する三つの論文を、さらに1907年には固体の比熱の量子論を、いずれもドイツの物理学雑誌『物理学年報』Annalen der Physikに発表した。これらはいずれも近代物理学の発展にとって重要な意義をもつものであったが、なかでも特殊相対性理論に関する論文「運動物体の電気力学」は彼の名声を確固たるものとした。
 当時、物理学界の指導者ローレンツの創始した「電子論」は、多くの現象をみごとに説明したが、その「絶対静止エーテル」の仮定に悩まされていた。すなわち、運動系における電磁現象、とくに光速度を観測することにより、その系のエーテルに対する絶対速度をみいだすことができるはずであったが、マイケルソンらの精密な測定にもかかわらず、地球公転速度の影響はみいだされなかった。ローレンツは苦心惨憺(さんたん)のすえ、運動系に対する時空座標の変換としてのローレンツ変換にまで到達したが、静止エーテルの概念を捨てきれなかった。
 アインシュタインは、「光速度不変」と「相対性」の二つの要請を置くことにより、この問題をみごとに解決した。これによって、ローレンツ変換は、二つの慣性系の間の時空座標の変換そのものであり、電磁場の方程式がこれらに対して同じ形を保つこと、力学の方程式もそのように一般化すべきこととなった。この後者から、質量保存則がエネルギー保存則に含まれることになった。しかし、この特殊相対性理論のもっとも革命的な考え方は、時空概念の変革であり、これが物理学ならびに哲学、思想に大きな衝撃をもたらした。この理論は、絶対静止エーテル、したがってニュートンの絶対空間を退けたばかりでなく、同時刻の概念、時間の進み方が運動状態に依存することを示すことによって、絶対時間や絶対運動の概念をも退け、時空を四次元の密接な関係に置いたのである。
 これらの業績によって、彗星(すいせい)のように物理学界に登場した彼は、1911年プラハのドイツ大学教授、1912年母校であるスイス連邦工科大学教授、1913年にはプロイセン科学アカデミー正会員、カイザー・ウィルヘルム研究所(現、マックス・プランク研究所)物理学部長に迎えられ、1914年、プランクらの招きにより、ベルリンに移住した。[大野陽朗]

一般相対性理論の建設

特殊相対性理論を完成した彼は、ただちにこれを慣性系ばかりでなく、任意に加速運動をする系に一般化する仕事にとりかかった。そのために、ニュートン力学では偶然にすぎなかった慣性質量と重力質量の一致を「等価原理」として積極的に取り上げた。これによって、加速系と重力のある慣性系の等価性、したがって重力と時空の計量との関係が得られるが、その一般的定式化、とくに重力場自身の方程式を一般相対論的共変の形に表すことは容易でなかった。彼は、数学者となった古い友人グロスマンの協力も得て苦心のすえ、リーマン幾何学の形式を用いてついにこれを完成し、1916年、論文「一般相対性理論の基礎」を『物理学年報』に発表した。この理論は難解なうえに、観測による検証の可能性が少ないため、当初はそれほど注目されなかった。しかし1919年、エディントンによる日食観測によって、光線の屈曲が確かめられるに及んで、俄然(がぜん)脚光を浴び、物理学界のみならず、各界の注目を引くようになった。一般相対性理論は単に特殊相対性理論の拡張というだけでなく、「時空間の曲率が物質の分布によって決められる」、すなわち「時空の物質性」を示したものとして、哲学、思想のうえにも大きな意義をもっている。現在、観測技術の精密化により、この理論の検証はさらに確実となり、また宇宙物理学の進歩により、パルサーにおける重力波の検出、ブラック・ホールの存在の可能性などで、原子物理学の発展によって一時圏外に取り残された観のあった一般相対性理論も、ふたたび脚光を浴びつつある。
 1922年(大正11)11月、改造社の社長山本実彦(やまもとさねひこ)およびその意を受けた物理学者石原純(いしはらあつし)らの招請により来日した。その前年の1921年にノーベル物理学賞を授与されたが、これは主として光電効果の光量子的解明に対して与えられたものであった。しかし、「相対性理論」のアインシュタインとして、世界の寵児(ちょうじ)となった彼は、世界各国からの講義、講演の依頼で忙殺されるようになった。2週間余りの日本旅行では東京その他で講演を行った。学者、学生はもとより、世紀の天才を一目でも見ようとする民衆は会場にあふれ、難解な理論を平易な表現で説明する彼の温容に魅せられた。また、彼の天衣無縫な、形式を嫌う言動が、岡本一平の漫画、漫文などで伝えられ、人々に親しみを覚えさせた。彼自身も、第一次世界大戦後のドイツ国内のわずらわしさから離れて、東洋に一時の安らぎを覚えたようである。
 彼のその後の仕事には、ボース‐アインシュタイン統計など量子論関係のものがあるが、彼自身、量子力学の非決定論的性格に飽き足らず、これを不完全な一時的理論とみて、1927年以来数回ボーアと誌上その他で論争したが、最後まで釈然としなかった。そして彼の興味は、電磁場と重力場の統一とそれによる粒子のふるまいの記述に傾き、この「統一場理論」は、その後アメリカで没するまで続けられたが、あまり実りあるものとはならなかった。もっともいまは、電磁場と弱い相互作用の統一理論が成功し、さらに重力場をも含むすべての相互作用を統一しようという試みが行われていることは、彼の志を別の形で受け継いだものともいえよう。[大野陽朗]

自由な創造者として、平和の闘士として

1933年ナチスのヒトラーが政権をとり、侵略政策とユダヤ人迫害を始めると、身の危険を感じてアメリカに亡命し、プリンストン高等研究所員となり、1955年4月18日、動脈瘤(どうみゃくりゅう)破裂で死亡するまでここにとどまった。ここでの仕事は、前述のほかに、インフェルトとともに、『物理学はいかにつくられたか』を執筆したことで、これは物理学の本質を平易に解説したものとして、世界各国で親しまれている。
 以上にみるように、彼のあり方は、強制や枠にとらわれないで、自由に創造することであった。また、ユダヤ人として差別、圧迫を受けた体験から、虐げられた者の味方であった。迫害、虐殺を受けた同胞ユダヤ人への熱い心はもとより、たとえば来日中、人を見下すものとしてけっして人力車に乗らなかったこと、また「自由」の国アメリカでの黒人への差別に反対し、「自分がアメリカ国民の一人だということを感ずれば感ずるほど、この事態がますます私を苦しめる」として、その人権を守るために努力を惜しまなかったことは案外知られていない。まして、ファシズムに対しては、国際平和主義者として心からこれを憎み、ナチスが原子爆弾を製造して世界を制覇することを恐れ、それ以前にこれを製造するよう勧告した手紙に署名してアメリカのF・D・ルーズベルト大統領に送り、これがマンハッタン計画の契機となった。
 第二次世界大戦後、彼の願いもむなしく、アメリカ、ソ連による原爆開発競争が際限なく続く状況をみて、彼は原水爆戦争による人類滅亡の危機を訴え、このことを生涯の責務とした。1947年8月には国際連合にメッセージを送り、国連の組織を改めて、強力な世界政府をつくり、核兵器をその管轄下に置くべきことを提唱した。このいささか理想主義にすぎた提唱に対し、ソ連の科学者らの反論があったが、これに対する回答その他でアインシュタインの示した社会主義観は注目される。「資本主義体制では利潤追求のために、技術の進歩は労働の重荷を軽減するよりも、失業の増大をもたらす。この悪弊を除くには、計画経済のほうがよいが、それだけでは社会主義とはいえない。官僚の権力を抑え、個人の諸権利を保護する民主的対抗力が必要だ」という意味のことを述べている。
 1955年、アインシュタインはラッセルの呼びかけに応じて核戦争防止の宣言を発した。この宣言は湯川秀樹(ひでき)、パウエルら9名の賛成を得て、同年7月アメリカ、ソ連など6か国の政府首脳に送られ、それはその後、科学者パグウォッシュ会議の契機となったのであるが、アインシュタインは、宣言が送られる直前、同年4月18日、プリンストンの病院で永眠した。「全体的破滅を避けるという目標は、他のあらゆる目標に優先されねばならない」というアインシュタインの原則は、いまや「ノーモア・ヒロシマ」とともに、すべての反核・平和運動の導きの灯となりつつある。[大野陽朗]
『アインシュタイン著、中村誠太郎他訳『晩年に想う』(1950・日本評論社/講談社文庫) ▽湯川秀樹監修『アインシュタイン選集』3巻(1970~1972・共立出版) ▽アインシュタイン、フロイト著、浅見昇吾編訳『ヒトはなぜ戦争をするのか?』(2000・花風社) ▽アインシュタイン著、内山竜雄訳『相対性理論』(岩波文庫) ▽アインシュタイン、インフェルト著、石原純訳『物理学はいかに創られたか』上下(岩波新書) ▽石原純著、岡本一平画『アインシュタイン講演録』(1971/新装版・1991・東京図書) ▽L・インフェルト著、武谷三男・篠原正瑛訳『アインシュタインの世界――物理学の革命』(1975・講談社) ▽E・カッシーラー著、山本義隆訳『アインシュタインの相対性理論』(1976/改訂新装版・1996・河出書房新社) ▽A・P・フレンチ編、柿内賢信他訳『アインシュタイン――科学者として人間として』(1981・培風館) ▽S・ギビリスコ著、小島英夫訳『図説アインシュタインの相対性理論――特殊および一般相対性理論と宇宙論』(1989・大竹出版) ▽D・J・レイン著、岡部哲治訳『アインシュタインと相対性理論』(1991・玉川大学出版部) ▽B・パーカー著、井川俊彦訳『アインシュタインの遺産』(2004・共立出版) ▽佐藤文隆著『アインシュタインが考えたこと』(岩波ジュニア新書)』

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