アルジェリア(読み)あるじぇりあ(英語表記)People's Democratic Republic of Algeria 英語

精選版 日本国語大辞典 「アルジェリア」の意味・読み・例文・類語

アルジェリア

(Algeria) アフリカ北西部、地中海に面した共和国。ローマ、アラブ、トルコの支配を経て、一八三〇年フランス領。一九五八年臨時政府を樹立。一九六二年アルジェリア民主人民共和国が成立。首都アルジェ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルジェリア」の意味・わかりやすい解説

アルジェリア
あるじぇりあ
People's Democratic Republic of Algeria 英語
Jumhūrīya jazā'irīya dimoqratīya wa shābīya アラビア語

アフリカ大陸北西部、地中海に面する国。正称はアルジェリア民主人民共和国Jumhūrīya jazā'irīya dimoqratīya wa shābīya。公用語である正則アラビア語ではアル・ジャザイルal-Jazā'ir、El Djazaïrといい、首都アルジェ(人口335万。2007年)と同名である。アラブ世界の西の果てマグレブ三国の真ん中に位置し、東のチュニジア、西のモロッコに挟まれている。国土は南のサハラ砂漠に巨大なくさびを打ち込んだような形で大きく広がり、南東から南西にかけてリビア、ニジェール、マリ、モーリタニア、西サハラと国境を接している。面積は238万1741平方キロメートルで、アフリカ大陸ではスーダンに次ぎ二番目に広い国である。人口は3445万9729(2008年センサス暫定値)、3348万1000(2006年推計)、3489万5000(2009年推計)で、その95%は地中海沿岸から250~350キロメートル幅の地域(国土の14%)に集中している。フランス植民地時代はぶどう酒など農産物の輸出国であったが、1962年の独立後は、サハラの石油、天然ガスをもとに重化学工業化を進め、「地中海の日本」を目ざし、地中海沿岸諸都市には最新設備の工場がみられる。

[藤井宏志]

自然

地形

地形は大きくアトラス山脈地域とサハラ地域とに分けられる。山脈地域は古第三紀(6500万年前)に北上するアフリカプレート(岩盤)がユーラシアプレートに衝突し褶曲(しゅうきょく)が生じたものである。アトラス山脈地域は、狭い沿岸平野、標高1000~2000メートルの急峻(きゅうしゅん)な山地列よりなるテル・アトラス山脈、標高500メートルのアトラス高原、標高1000~2000メートルの比較的なだらかなサハラ・アトラス山脈の四つが北から順に並んでいる。テル・アトラス山脈には欧亜地震帯が走り、1980年にエル・アスナム(現、エシュ・シェリフ)でマグニチュード7.5の地震があり大きな被害を生じた。さらに、2003年5月にもブメルデス県でマグニチュード6.7の地震があり、2000人以上の死者がでた。サハラ地域は全体として平均標高500メートルの高原である。例外的に標高3000メートルに及ぶ南部のアハガル山地は、隆起楯状(たてじょう)地で風蝕(ふうしょく)により奇観を呈する岩山がある。エルグとよばれる砂丘群は、東部大砂丘群など4か所にある。北東端にあるメルリル塩湖の標高は海面以下である。

[藤井宏志]

気候

降雨は冬季に集中しており、地中海沿岸に多く、南下するにつれ極端に少なくなる。気候区分は地形によく対応し、沿岸平野とテル・アトラス地域が地中海式気候、アトラス高原からサハラ・アトラス山脈までがステップ気候、年降水量200ミリメートルの線が走るサハラ・アトラス山脈南縁より南が砂漠気候である。いずれの地域も夏は乾燥し、気温も高く厳しい暑さとなる。このため建物の壁は厚い。地中海沿岸は冬は温和であるが、アトラス山脈では気温が下がり、高山では積雪をみる。カビリー山地など東部のテル・アトラス山脈では年降水量1000ミリメートルを超す所もあるが、全体に降水量は少なく、大河はなく、農業・工業・都市用水をいかにして確保するかがつねに問題となる。サハラ・アトラス山脈からアトラス高原にかけ、砂漠化が進行しており、政府はこれを食い止めるため「緑の長城計画」(バラージュ・ベールBarrage Vert)とよぶ大規模植林計画を実施している。また幹線道路への砂の堆積を防ぐため、道路の両側に植林している。季節風として、春から初夏にかけサハラから吹き出す、砂混じりの熱風「シロッコ」は有名である。

[藤井宏志]

地誌

アルジェリアは地中海沿岸地域、ステップ地域、サハラ地域の三つに地域区分される。地中海沿岸地域は沿岸平野とテル・アトラス地域からなり、地中海式気候を示し、自然条件ではもっとも恵まれた地域である。植民地時代、ヨーロッパ人植民者はこの地域にもっとも多く入植し、ブドウ、柑橘(かんきつ)類などを栽培する農園を経営し、各町にヨーロッパ人市街地をつくった。1962年の独立後ヨーロッパ人農園を再編成した自主管理農場の多くは、この地域に分布し近代的機械化農業を展開した。また独立後の重化学工業化政策により、アンナバ、ビジャーヤ、スキクダ、アルジェ、アルズー、オランなどの沿岸工業都市が発展している。首都アルジェは国の政治、経済、文化の中心として人口の集中が続いており、背後のミチジャ平野は農業地域から住宅都市地域や近郊工業都市地域に変貌(へんぼう)した。内陸部のコンスタンティーヌ、セティフ、メデア、エシュ・シェリフなどの県都では地方工業化政策により工場、住宅が建設されている。一方カビリー山地など伝統的農業が行われている地域では、都市部やフランスへ労働者が多く流出している。

 ステップ地域はアトラス高原とサハラ・アトラス山脈を含む地域で、年降水量は200~400ミリメートルと少なく、小麦など穀物栽培とヒツジなどの牧畜を組み合わせた農業が行われる。雨のない年には草を求めて移動する半遊牧的牧畜もある。一部の近代的農場を除き、技術は伝統的であり、貧困な地域である。灌漑(かんがい)農業を進めるためホドナ湖の開発が考えられている。ジェルファ、バトナなどの県都では工業化が進められている。

 サハラ地域はサハラ・アトラス山脈南縁より南のサハラ砂漠であり、住民は水の得られる山麓(さんろく)、高原麓や谷底のオアシスに住む。オアシスでは湧水(わきみず)やフォガラとよばれる地下水路からの水でナツメヤシや野菜、果実などを栽培する。農民は南からかつて奴隷として連れてこられたブラック・アフリカ系の人々が多く、高い水代をとられるためきわめて貧しい。オアシス周辺を根拠地とする遊牧民は、夏は家畜を連れて収穫の終わった北の農耕地域に行き、冬は少雨で草の生えるオアシスに帰ってくる。交通の拠点であり市場の機能をもつオアシスには、市街地があり人口も多い。第二次世界大戦後、石油、天然ガスが開発され、ハシ(ハッシ)・メサウドやハシ(ハッシ)・ルメルには分離・送出工場ができ、技術者、労働者が定住している。風光明媚(めいび)で知られるガルダーヤ・オアシスやゴレアでも都市化・工業化が進められている。中部のレガヌにはフランスのサハラ核爆発実験場が置かれ、1960年にはフランス初の核実験がここで行われた。1962年の独立後もレガヌだけはフランス直轄地として1967年まで核実験は続けられた。その後フランス軍の撤退に伴い実験場はアルジェリアに移管され立入禁止地域となったが、放射能汚染問題は残っている。

[藤井宏志]

歴史

旧石器時代や、タッシリ・ナジェールの岩絵のような先史時代の遺跡を残した先住民とは異なり、直接現在とつながるマグレブ地方の古代の住民は、地中海人種に属するベルベル人であり、農耕、牧畜を営んでいた。古代のマグレブ地方は、航海技術の発達により地中海の北岸や東岸からきたフェニキア、バンダルなどの異民族に順次支配された。しかし支配者は沿岸の諸都市や内陸部の交通の要所を抑えただけで、ベルベル人各部族の政治、経済組織は維持された。

 中世はアラブ人の侵攻によるアラブ化、イスラム(イスラーム)化の時代である。7世紀なかばイスラム地域拡大のためマグレブ地方に侵入したアラブ軍は8世紀にはモロッコに達した。ベルベル人はこれに抵抗したが、アラブ軍は改宗した者を同等に扱ったのでイスラム教(イスラーム)への改宗者が相次ぎ、アラビア語、イスラム文化も浸透し、混血も進んだ。イスラム教を受容しても、ベルベル語、ベルベル文化を守った部族もあり、今日もそれをカビリー、オーレス(アウレス)、ムザブ(ガルダーヤ)、アハガルの各地方にみることができる。

 16世紀初頭、アルジェリア沿岸からスペイン軍を駆逐したトルコ軍はそのまま現地に残り、この地をオスマン帝国の属領とした。この時代の各トルコ総督の支配領域から、沿岸部における現在の国境がほぼ定まり、アルジェリア国家の枠組みが形成された。総督府が置かれたアルジェは首都としての地位が定まった。オスマン帝国の支配下でも諸部族の組織は維持され、一方、属領政治支配の実権は駐在するトルコ陸軍、海軍(海賊)の士官が握った。

 1830年、シャルル10世治下のフランスは、地中海を荒らしまわるトルコの海軍(海賊)を抑えるためとマルセイユ大商人の利益を図るために、この地に遠征軍を上陸させ、トルコ総督を降伏させてアルジェを占領した。これがフランスによるアルジェリアの植民地支配の第一歩となった。以後132年間の植民地時代に、フランス支配への抵抗と伝統的部族社会の解体のなかで、初めてアルジェリア人の国民意識が形成された。トルコ総督の降伏後もアルジェリア人の抵抗は強く、アブデル・カーディル(カーデル)やモクタールの挙兵はよく知られている。フランス植民地下のアルジェリアでは、1870年代のブドウ栽培成功をきっかけに、柑橘(かんきつ)類、野菜などヨーロッパ市場向けの商品作物を栽培する農園が発展した。このほか鉄や亜鉛の鉱山も開発された。このようにして一次産品を輸出し、工業製品を輸入するという植民地経済が形成された。土地を奪われ、伝統的な社会を解体されたアルジェリア農民は、都市へ出るか農園の労働者として働くかしかなかった。植民地時代末期、アルジェリア人700万人に対しヨーロッパ人植民者は100万人であった。フランス政府は「同化政策」と称しながら両者の間には身分、所得のうえで大きな差別があった。

 第二次世界大戦中、フランスの敗戦により一時ビシー政権下に入ったが、連合軍の北アフリカ占領によって、ドゴールの対独レジスタンスの根拠地となった。

 第二次世界大戦後、他のフランス植民地は次々に独立したが、アルジェリア独立の要求は認められず、1945年の「セティフの虐殺」のような弾圧が続いた。独立運動家たちはアルジェリア民族解放戦線(FLN)を結成し、国民解放軍(ALN)への参加を呼びかけた。1954年11月1日、FLNは全国各地で一斉に武力蜂起(ほうき)し、7年4か月に及ぶ独立戦争が始まった。フランス政府は50万の軍隊を投入して過酷な弾圧を加えたが、かえって民衆をFLNへ結集させた。泥沼状態から脱却するため、フランスでは1958年ドゴールが再登場して、アルジェリアの民族自決権の承認を原則とする方針のもとで、アルジェリア共和国臨時政府(1958年9月FLNが樹立)との交渉が進められた。そして1962年3月、停戦と独立を内容とするエビアン協定が成立した。

 1962年7月3日アルジェリアは独立を達成した。同年9月制憲議会の選挙が行われ、議会は民主人民共和国の成立を宣言した。1963年9月憲法草案を採択し、初代大統領としてベンベラ(ベン・ベラ)を選出した。翌1964年4月のFLN大会で社会主義を志向する新綱領「アルジェ憲章」を採択した。しかし1965年6月19日、副首相・国防相のブーメディエン大佐によるクーデターが起こり、ベンベラは失脚して幽閉された。ブーメディエンは憲法を停止し、革命評議会を最高機関として自ら議長に就任した。ベンベラはヨーロッパ人所有農地を国有化したが、ブーメディエンも社会主義路線を継承し、外国系企業を次々に国有化し、大学・専門学校出身の行政官を重用して、国営会社による重化学工業化を推進した。

 また1971年にはアルジェリア人所有農地を再配分する「農業革命」を開始した。1976年新憲法の採択、大統領選挙などの民主化が行われ、翌1977年には国会議員選挙が実施された。独立戦争とフランス人の引き揚げによって経済が破綻(はたん)に瀕(ひん)していたこの国を「中進国」に成長させたブーメディエンは、国民の圧倒的な支持を得て大統領に選出されたが、1978年病死し、参謀総長のシャーズィリー(シャドリ)・ベンジェディード大佐al-Shādhili Benjadid(1929―2012)が後継者となった。

 1980年代に入り石油価格が低落し、国営化、重化学工業化路線は挫折(ざせつ)して膨大な累積債務に悩むこととなった。失業とインフレ、生活物資の不足を生じ、この路線を主導したFLNの一党独裁に国民の不満は高まった。この不満の高まりにこたえたのがイスラム(イスラーム)主義運動組織で、1990年初頭に行われた各種の選挙で7割以上の票を獲得した。これに危機感をもった政府と軍が強硬な弾圧策をとったため、イスラム主義運動組織は1992年以降テロ活動に転じた。このテロにより外国人を含め数万人が犠牲となり、一時は「第二次アルジェリア戦争」とよばれるような状況になった。

[藤井宏志]

政治

イスラム主義運動組織「イスラム救済戦線(FIS)」は、1990年6月の複数政党制移行後初めての地方選挙で圧勝した。1991年12月の国民議会選挙の第1回投票でもFISが多数を獲得したため、軍は大統領のシャーズィリー(シャドリ)を退陣させて権力を握り、第1回投票の無効を宣言し、1992年1月の第2回投票を中止した。

 1992年1月、軍は国家高等委員会を最高権力機関とし、ブーディヤーフMohamed Boudiaf(1919―1992)を議長として、全土に非常事態宣言を布告した。同年6月ブーディヤーフは暗殺され、アリー・カーフィAli Kafi(1928―2013)が新議長となった。しかし軍はこうした軍政は移行措置であるとし、1994年1月、委員会を解散して元将軍ゼルワールLiamine Zeroual(1941― )を大統領に指名した。その後1995年11月、4名が立候補した大統領選挙でゼルワールは61%の票を得て当選し、合法的に信任(任期5年)された。1999年ゼルワールが大統領を辞任、同年4月大統領選挙で元外相ブーテフリカAbdelaziz Bouteflika(1937―2021)が当選した。2004年4月にブーテフリカが大統領に再選。さらに2008年11月の憲法改正により、大統領の任期制限が撤廃されたため、ブーテフリカの多選が可能となった。そして2009年4月にブーテフリカは3選を果たし、長期政権を維持した。

 一方、1992年以来続いているテロ活動はますます激しさを加え、1996年にはFISの武装組織イスラム救国軍(AIS)と武装イスラム集団(GIA)との対立が表面化、フランス人修道士7人の誘拐・殺害をはじめ爆破事件などが繰り返された。1997年には村落襲撃・虐殺事件が続発するなど、テロの犠牲者は数万人に達するといわれる事態に至った。2003年にもイスラム主義過激派による観光客人質事件が発生している。ブーテフリカ大統領は、武装解除をしたテロ組織に恩赦を与える融和策など、テロ対策に積極的に取り組んでいるが、テロ活動を抑えるに至っていない。

 議会は1996年11月の憲法改正で、国民評議会(上院)と国民議会(下院)からなる二院制が採用された。国民議会選挙は1997年6月行われ、大統領支持派の民主国民連合(RND)とFLNが全380議席のうち過半数を得た。同年12月には上院選挙も実施された。2002年5月と2007年5月の2回の国民議会選挙でも、FLN、RNDなどの与党連合が圧勝している。首相は大統領により任命され、内閣を組織する。政府には26省5庁がある。軍は陸海空で総兵力14万7000人。予備役15万人。

[藤井宏志]

経済・産業

独立以後の経済の課題は、植民地時代に形成されたブドウ、柑橘(かんきつ)類、鉱産物の輸出に依存する経済、近代的部門と伝統的部門および内陸部と沿岸部との著しい格差、多数の失業者と海外出稼ぎ者などの解消にあった。ブーメディエン時代、石油・天然ガスの輸出収入を基礎に、先進国の融資と技術を導入し、二度の五か年計画で工業化を図った。この結果、沿岸や地方に工場が建設され、「中進国」となったが、一方で農工間格差は拡大し、失業者、労働移住者は減少しなかった。

 1980年以後、石油・天然ガス価格は下落し、建設した工場の操業率も低く、重化学工業化路線は破綻(はたん)した。生活物資も不足し、1988年10月には全土に暴動が起きた。1994年には累積債務が返済不能となり、民営化と通貨切下げ、補助金削減を中心としたIMF(国際通貨基金)および世界銀行の構造調整計画を受け入れた。豊富な石油・天然ガスを生かすため、49%を外国企業に開放して開発を進め、1996年末完成したスペインへの海底ガスパイプラインを使って、ヨーロッパ各国への供給を高めた。1998年にはIMF構造調整計画を予定通り終了し、国営企業の再編・民営化、市場経済化、外国資本の誘致など経済の再建中である。EU(ヨーロッパ連合)加盟の可否も経済発展の鍵(かぎ)であり、2002年にはEUとの連合協定を締結した。

[藤井宏志]

資源

工業化の基礎である石油の埋蔵量は11億4000キロリットル(2007)、年生産量は6387万トン(2007)で、このうち85%を輸出している。油田はハシ(ハッシ)・メサウド、エジェレなどで、地中海沿岸まで500キロメートル以上のパイプラインが必要だが、軽質油であり、ヨーロッパに近接している点で有利である。天然ガス埋蔵量は4兆5000億立方メートルと世界有数である。ハシ(ハッシ)・ルメルに大ガス田があり、海岸へ送って液化したうえで輸出している。1983年イタリアへ、1996年にはスペインへの海底ガスパイプラインが完成。生産は政府が51%資本参加した外国企業が、輸送と販売は国営会社ソナトラックが行い、1991年以降外国企業と協力して開発が進んでいる。このほか地下資源として鉄鉱石(ウェンザなど)、燐(りん)鉱石(ジュベルオンク)、亜鉛、鉛などがある。

[藤井宏志]

農業

独立後、農地の所有形態は、社会主義セクター、農業革命セクター、私的セクターに分類された。前二者は、ヨーロッパ人所有の農園や大地主の農地を国有化し、国営農場(自主管理農場)や協同組合農場に再編したもので、全耕地面積の40%を占めた。私的セクターはアルジェリア人の大農、中農、小農の所有地である。国営農場、協同組合農場では、給与が一定で、政府が販売を管理したため、農民の労働意欲が低下し、農産物の質・量ともに低下した。工業化の過程で農場員の都市流出も起きた。食糧自給率も落ち、食糧輸入は増加した。1987年、社会主義セクターと農業革命セクターは解体され、3万以上の個人経営農場(EAI)と集団経営農場(EAC)に分割された。社会主義セクターもほとんど民営化している。1戸当り10ヘクタールが生活限度のこの国で、私的セクターは平均7ヘクタールと零細農が多いが、50ヘクタール以上の中農、100ヘクタール以上の大農は近代化し収入も多い。

 主要栽培作物は小麦、大麦、ブドウ、柑橘類、野菜、工芸作物、ナツメヤシであるが、国内需要のないブドウは小麦への転換が行われており、2007年の農業人口は300万となっている。遊牧民の伝統があり畜産・酪農にも力を入れている。2007年の家畜統計ではヒツジ1985万頭、ヤギ337万頭、ウシ166万頭、ロバ23万頭、ラクダ29万頭などとなっている。

[藤井宏志]

工業

国内総生産(GDP)に占める石油、天然ガス生産の割合は高く、工業生産は10%程度である。主要な工業は重化学工業では鉄鋼、機械、電機、石油化学で、沿岸諸都市に立地する。最新設備を有するが、低い操業率が問題である。地方の工業化によって各県都の周辺に、繊維、プラスチック、セメント、建材、皮革、食品など比較的雇用数の高い工場を設置している。ほとんどの企業は一業種一国営会社の方式で経営されていたが、民営化が進められている。

[藤井宏志]

貿易

石油、天然ガスの輸出にもかかわらず、工業化による設備投資、食糧輸入のため、貿易収支は大幅な赤字が続いてきた。石油、天然ガスの輸出は、総輸出額の97.9%(2006)を占める。主要輸入相手国はフランス(20.8%)、イタリア、中国、ドイツ、アメリカであり、輸出相手国はアメリカ(27.2%)、イタリア、スペイン、フランス、カナダである。旧宗主国フランスとの関係は強い。

[藤井宏志]

財政

外国からの借入金に依存してきたため債務の元利返済が増加したが構造調整策を実施、石油価格も上昇したので2007年の累積債務総額は40億ドルに減少している。

[藤井宏志]

交通

全長4017キロメートルの鉄道はほとんど植民地時代に敷設されたもので、国営鉄道会社が運営している。道路の建設は独立後も続けられており、とくにサハラ縦断道路の建設に力を入れ、1978年に完成した。2010年時点で、モロッコとチュニジアを結ぶ東西横断高速道路が日本企業により建設されている。航空では20以上の空港があり、主要な国際空港はアルジェのウアリ・ブーメディエン空港とオラン、アンナバ、コンスタンティーヌの各空港で、フランス各都市との路線が多い。国営会社のアルジェリア航空は国内路線を独占している。港湾ではアルジェ、アルズー、オラン、アンナバが主要港である。各港からマルセイユとの間に定期旅客航路がある。

[藤井宏志]

社会

先住民はベルベル人であり、7世紀以後アラブ人が入ってきた。混血とイスラム化、アラビア語化が進み、現在ベルベル人を区別するのは、ベルベル系言語を話せるということのみである。ベルベル人の人口の割合は19%で、主としてカビリー、オーレス(アウレス)、ガルダーヤ、アハガルの諸地方に分布しているが、大都市にも多く住む。近年のアラビア語化運動に危機感をもっている。サハラのオアシスには農民としてアフリカ系の人々が住む。公用語は正則アラビア語であるが、植民地時代にフランス語教育を強制され、アラビア語使用を禁じられたので、大部分の人が両国語を使い分ける。独立後は正則アラビア語教育に力を入れている。近年、英語教育とアラビア語アルジェリア方言の国語化の要望が高まっている。

 1995年央の推計人口は2855万であったが、1998年の国勢調査(センサス)では2910万、2008年の国勢調査では3346万となっている。これに加えて、外国にいる労働移民が95万、遊牧民が41万5000いる。出生率2.8%、死亡率0.5%、自然増加率は2.3%と高い。年齢階層別人口では、0~24歳が59%を占め、教育、雇用、食糧、住宅などの需要増大が大きな問題となっている。1990年代以降の石油価格の高騰で財政が豊かになり、大都市や地方都市では戸建てや高層アパートの建設が進み、住宅事情は好転しつつある。

 独立後義務教育の普及に努力し、識字率はかつての20%から67%(1999)、75%(2007)に上昇している。中等・高等教育では、工業化と関連して技術教育に力点を置いている。イスラム教(スンニー派)が国教である。独立後、民族主義との結び付きから、戒律を守ることが強化されてきた。

 医療は無料化され、他の社会保障制度も進んでいる。とくに労働者総同盟(UGTA)の組織が強く、労働者保護は高い水準にある。

[藤井宏志]

文化

基調をなす文化として、ベルベル文化、アラブ・イスラム文化、フランス文化があるが、思想、言語の両面で7世紀以来のアラブ・イスラム文化がアルジェリア人の基盤をなしている。しかし、フランス文化が近代化の中心となり、政治、経済、教育などの諸制度を支えていることから、現在、日常生活ではフランス文化の影響が大きい。独立後の文学、映画もフランス語で発表されてきた。言語の面では、ベルベル語を民族語を構成する一言語としたうえで、アラビア語化運動を進めているが、ベルベル文化を守る者の反発を買っている。文学、映画では独立戦争や、ベルベル人の風土のなかでの粘り強い生き方を題材にしたものが多い。誇り高く、意志強く自己を主張する国民性をもっている。

 社会主義体制とテロのため閉鎖的であったが外国人観光客の誘致に力を入れ始めた。観光資源としてすばらしいものがあり、ユネスコの世界遺産にも「ベニ・ハンマド要塞」「ムザブの谷」「ジェミラ」「ティパサ」「ティムガッド」「アルジェのカスバ」(以上文化遺産)「タッシリ・ナジェール」(複合遺産)の七つが登録されている。

[藤井宏志]

日本との関係

独立戦争中、日本の有志がFLNに医療援助などを行ったことから両国の友好関係は密接で、独立後すぐ大使を交換した。経済関係では日本から工業製品を輸入し、天然ガス、原油を輸出している。日本の技術への信頼から日本のプラント輸出が多く、アルジェリアは日本の1977年度(昭和52)プラント輸出相手国の第1位であった。そのほか、世界遺産に登録されたタッシリ岩絵の保存計画など幅広い協力を行っている。大統領ブーテフリカは2000年(平成12)、2004年、2008年に来日している。

[藤井宏志]

『淡徳三郎著『アルジェリア革命』(1972・刀江書院)』『宮治一雄著『アルジェリア社会主義と自主管理農場』(1978・アジア経済研究所)』『宮治一雄著『アフリカ現代史5 北アフリカ』(1978・山川出版社)』『藤井宏志著『アルジェリア非植民地化の地理学的研究』(1982・熊本商大海外事情研究所)』『日本貿易振興会編『ジェトロ貿易市場シリーズ・アルジェリア』(1987・日本貿易振興会刊)』『フアン・ゴイティソーロ著、山道佳子訳『嵐の中のアルジェリア』(1999・みすず書房)』『私市正年編著『アルジェリアを知るための62章』(2009・明石書店)』『シャルル=ロベール・アージュロン著、私市正年、中島節子訳『アルジェリア近現代史』(白水社文庫クセジュ)』


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改訂新版 世界大百科事典 「アルジェリア」の意味・わかりやすい解説

アルジェリア
Algeria

基本情報
正式名称=アルジェリア民主人民共和国al-Jumhūrīya al-Jazā'irīya al-Dimuqratīya wal-Sha`bīya, Democratic and Popular Republic of Algeria 
面積=238万1741km2 
人口(2010)=3598万人 
首都=アルジェAlgier(日本との時差=-9時間) 
主要言語=アラビア語,フランス語,ベルベル語 
通貨=アルジェリア・ディーナールAlgerian Dinar

北アフリカ(マグリブ)の中央を占める共和国。

北は地中海,南はニジェールとマリに接している。また東はチュニジアとリビア,西はモロッコとモーリタニアに接する。国土面積は広大で日本の約6倍もあるが,その約85%を占める南部地方は砂漠であり,住民や経済活動は北部地方に集中している。北部地方には,地中海に沿って東西に走る二つの山脈,テル・アトラスTell Atlas山脈とサハラ・アトラスSahara Atlas山脈があり,また南部地方にはアハガル(ホガール)山地がある。

 地中海沿岸地方は,冬雨夏乾の典型的な地中海性気候であり,年雨量が600mmをこえるが,山脈を越えて南下するにつれて雨量が低下し,また気温の較差が大きい大陸性気候に変わっていく。地中海沿岸には平野部が少ないが,二つの山脈の間は台地状の高原であり,サハラ・アトラス山脈の南麓はなだらかな勾配でサハラ砂漠につらなっている。

 アルジェリアの先住民は,コーカソイド(白色人種群)でアフロ・アジア語族のベルベル語を話すベルベルであるが,7世紀と11世紀にアラブの侵入をうけ,長い間にアラブと混交して,住民の大半はイスラムに帰依し,アラビア語を話すようになった。今なおベルベル語を母語としている住民は,全人口の2割にみたない。植民地時代にはヨーロッパ系植民者の比率が1割以上(約100万人)を占めていたが,独立後そのほとんどがフランスなどに移住した。アラビア語が公用語であり,独立後正則アラビア語(フスハー)が普及したが,口語はアラビア語アルジェリア方言であり,今なおフランス語もかなり通用する。近代以前の歴史・社会については〈マグリブ〉の項を参照されたい。

1830年のアルジェ占領から1962年の独立まで,アルジェリアは132年間にわたってフランスの植民地支配をうけた。いわゆる移住植民地として多数のヨーロッパ系植民者が定着していたために,名目上フランス本土の一部とされていたが,実質的には植民地にほかならず植民者の少数支配体制がつくられ,アルジェリア人は,フランス本国と植民者による二重支配の圧政に苦しんだ。植民地支配は,また後に述べる二重経済,多人種社会と呼ばれるようなひずんだ社会経済構造をつくり上げたし,文化的にはフランス語とキリスト教を強制することによって,アラビア語とイスラムを支柱とするアルジェリア民族の個性を否定しようとした。

 独立後の現在からみると,植民地支配は,国境の確定と国土の統一,法体系と行政制度の整備のような,国家形成の基礎となる影響も残している。だがそのためにはアルジェリア人がまず民族運動によって植民地支配体制をくつがえし,次いで独立後の政治過程のなかで植民地的な遺制を打破していくことが必要であった。

 アルジェリアの民族運動は,次のような段階をたどって発展した。すなわち,(1)アブド・アルカーディルの抵抗に代表される19世紀の征服に対する武力抵抗運動,(2)〈青年アルジェリア運動〉といわれた第1次大戦前後の民族復興を目標とした文化運動,(3)〈ムスリム議員同盟〉やベン・バディースBen Badīsの指導する〈ウラマー協会〉が担った両大戦間の政治的地位向上運動,そして(4)第2次大戦後の独立をめざす民族解放運動,の4段階である。どの段階も次の段階を準備したという点に意義があり,独立後の政治体制については,(4)のなかでもその最終段階であるアルジェリア戦争が大きなインパクトを与えた。

 1962年の独立以来の歴史をふり返ると,権力構造と政策志向の継続性とともに,著しい変化を認めることができる。次のような四つの時期に分けて政治過程を考察することができる。

(1)ベン・ベラ政権期(1962-65) 1962年7月の独立前後からFLN(民族解放戦線)の内部で激しい権力闘争がおきたが,軍部を掌握するブーメディエンHouari Būmedīn(1927-78)の支持をうけたベン・ベラが政権についた。ベン・ベラは,1963年9月に憲法を制定して政治体制の枠組みを定め,64年4月のFLN大会が採択したアルジェ憲章で,社会主義的な経済建設の方向を確認した。また積極的非同盟主義と民族解放闘争支援という外交の基本路線も定めた。ベン・ベラ政権は,65年6月の軍事クーデタで崩壊したが,大統領への権力集中,それを支える軍部,FLN,官僚機構の三本柱というアルジェリア型政治体制の特徴は,アルジェリア革命の伝統にもとづく上記の政策志向とともにその後の政権にも受け継がれた。

(2)ブーメディエン政権期(1965-70) ベン・ベラに代わって政権についたブーメディエンは,憲法を停止し国会を解散して,国権の最高機関として革命評議会を設置した。メンバーは議長(国家元首)となったブーメディエンも含めていずれも国民解放軍(ALN)出身の軍人である。ALNは,独立後〈人民国軍〉と改称されたが,権力を支える上記の三本柱のうちFLNと官僚機構が再編成過程で弱体であったのに対して,軍隊は政治性と組織性を兼備した唯一の集団であった。ブーメディエンは民主主義の問題を棚上げにしながら,経済における民族主義と開発主義に重点をおく政策を実施した。(3)ブーメディエン政権第2期(1971-75) 政権を安定させたブーメディエンは,後に述べる経済計画を実行し経済開発の課題に取り組んだ。国内で一連の社会主義的政策(第2次土地改革,労働者経営参加,医療無料化,農業税廃止)を実施し,国外では新国際経済秩序の樹立に向けて活発な外交を展開した。経済政策に重点をおき,その成果によってクーデタで獲得した政権の正当性を主張し,革命の伝統に忠実な政策の実施によって政権の正統性を主張しようとしたのである。

(4)ブーメディエン政権第3期(1976-78) 独立後の経済開発と社会変動の結果生み出された社会問題が,参政権を奪われた国民の政治運動としてあらわれ始めたとき,ブーメディエンはそれまで棚上げにしていた民主主義の問題への対応策を取った。すなわち1976年6月の国民憲章制定,11月の憲法制定,12月の大統領選挙,そして翌77年2月の国会議員選挙である。国民に参政権を回復することによって政権の合法性を回復したといってもよい。ところが78年12月ブーメディエンは不治の病に倒れ,惜しまれて世を去った。

(5)ベン・ジェディド政権期(1979-91) 1979年1月のFLN大会では後継者の指名をめぐって争いがあったが,軍部の長老ベン・ジェディドShadlī Ben Jadīdが政権を掌握した。シャドリ・ベン・ジェディド(独立戦争中から姓よりも名で知られており,シャドリ大統領と呼ばれることが多い)は,80年6月の臨時FLN大会,82年3月の国会選挙をへて,政敵を権力中枢から排除し,長期安定政権の基礎を固めた。新政権の政策は,政治の面では国会とFLN機構の重視,限定的自由化(たとえばクーデタ以来拘禁されていたベン・ベラ元大統領の釈放),経済の面では工業化政策の見直しや社会問題への対策などをその特徴としている。

 84年の選挙で再選,88年に三選されたシャドリ・ベン・ジェディド大統領は,当初国民憲章の改定(86年1月),人民議会の改選(87年2月)などの制度的正統性の確立を重視する一方,イスラム運動,ベルベル運動をはじめとする民主化要求に厳しい態度で臨んでいた。しかし,88年10月アルジェ暴動を契機として,89年2月に憲法改正が行われ,FLNによる一党独裁の廃止,複数政党制への移行,言論・結社の自由などの民主化政策が進められることになった。20をこえる政党が活動を開始したが,大別すると政府与党系,イスラム政党系,民主諸派という三つの系統に分けることができる。そのうち,急速に勢力を台頭したのはイスラム政党FIS(イスラム救済戦線)であり,90年6月の地方選挙で地滑り的な大勝を果たし,91年12月の国会選挙でもFISの大勝とFLNの壊滅が明らかになった。イスラム政権の成立に対して危機感をもった軍部は翌年1月に事実上のクーデタを起こして,シャドリ大統領を解任し,国家高等委員会体制を樹立して,権力を掌握した。

(6)ゼルアル政権期(1992- ) 軍部に推戴されたブーディアフMuḥammad Boudiaf国家元首は,1989年憲法を停止してFISの非合法化を決定するとともに,民主化過程への復帰と経済情勢の回復という二つの課題に取り組んだが,いずれも順調に進まなかった。FLNをはじめとする諸政党が軍事政権に反対したほか,FIS系ほかさまざまなイスラム派活動家が武力抵抗とテロを開始したからである。92年6月にブーディアフ元首が暗殺されアリー・カーフィAlī Kāfi元首に交替した後もテロの対象が民間人や外国人に拡大され,それに対する政府の弾圧もエスカレートして,97年末までに6万人以上の死者を出したとされている。

 1994年1月に軍部の推薦によって国家元首に就任したゼルアルLamine Zerroualは,リスケジュール(債務繰延べ)政策を実行し,また国会選挙など政治の民主化過程への復帰に取り組んだ。

経済の面では移住植民地としての特徴は,二重経済構造という形であらわれた。すなわち植民者が掌握する近代化された経済部門とアルジェリア人が属する伝統化された経済部門の並存である。前者では,フランス経済との結びつきを前提として輸出向け農業(ブドウ,かんきつ類),鉱業(鉄,燐鉱),インフラストラクチャー(道路,港湾)が発展したが,わずかの軽工業を除いて工業の発展は抑えられた。それに対して後者では,自給自足農業(麦類と牧畜)が主体であり,前者に労働力を提供するだけで,前者の発展から取り残されていた。

 このような植民地経済の状態こそ,アルジェリア革命の経済的背景であり,独立政府の課題は,植民地的経済構造の変革,経済開発と経済的自立を同時に達成することであった。アルジェリアの特徴は,社会主義的経済政策の実験を続けたこと,そしてその財源として石油,天然ガスの収益を利用できたことである。

 経済政策に注目しながら独立後の経済をみると,やはり四つの時期に分けて発展の軌跡をあとづけることができる。これは政治発展の時期区分と若干ずれながら,ほぼ対応している。

(1)民族主義の時期 独立前後からヨーロッパ系植民者が急激に出国したために経済活動は大幅な混乱と停滞に陥った。ベン・ベラ政権の課題は,アルジェリア人を経済運営の担い手にすることであり,そのために経営権の移転とアルジェリア人人材の養成が急務となった。この時期に実現したのは,国有財産の管理権移管,植民者所有農地の国有化・自主管理化(第1次土地改革)であり,人材については,外国人への依存状態がつづいた。1966年から鉱山,銀行,保険などの基幹部門,68年からは製造工業や流通部門の主要な企業が対象になり,71年のフランス系石油会社の国有化によって,民間部門,外国系企業のアルジェリア化も基本的に完了した。ブーメディエン政権は経営方式として国営会社制度を採用した。民族主義の延長線上にある政策を重視したという意味で,民族主義の時期と呼ぶことができよう。

(2)開発主義の時期 1968年から経済開発計画の策定が進められ,第1次四ヵ年計画(1970-73)と第2次四ヵ年計画(1974-77)が相ついで実施された。鉄鋼業,石油化学工業などの重工業の発展に重点を置き,それが生み出す波及効果によって他の工業部門を発展させるという戦略である。この方針は第2次計画では若干修正され,雇用創出効果の点から軽工業もおこされたが,二つの計画を通じて石油収入をもとに消費を抑制して国内生産の40%にのぼる投資を行い,重化学工業化を推進したという点で,開発のアルジェリア型モデルとして注目された。その結果著しい経済成長(1967-78年にGDP実質で2.25倍)があり,産業構造も大きく変化した。その反面で都市問題,住宅問題の深刻化のように社会資本の立遅れが顕著になり,農工格差,地域格差が拡大した。経済成長のなかで経済の二重構造が再生産されていること,また生活水準の向上が進まないことに国民の不満が高まりはじめた。ブーメディエン政権末期から重工業プロジェクトの凍結を含む工業化戦略の見直しがはかられ,社会開発(住宅建設,教育など)や農業を重視するようになった。経済開発至上主義がとられたという意味で,開発主義の時期と呼ぶことができよう。

(3)保守主義の時期 ベン・ジェディド政権になって発表された第1次五ヵ年計画(1980-84)には,こうした政策転換が示されている。そのほか経営効率(とくに設備の稼動率)を高めるために国営会社の経営陣の刷新や分割による規模の適正化がはかられ,軽工業,商業については民間企業の奨励,外国人による直接投資(合弁事業)の振興などの政策も打ち出された。

植民地社会の特徴は,多人種社会であったことである。フランス人を頂点とし,他のヨーロッパ系植民者とユダヤ人が中間を占め,多数のアルジェリア人は社会階層の底辺に置かれていた。独立後,植民者がほとんど帰国し,アルジェリア人化が進んで多人種的社会構造は急激に変化したが,アルジェリア人内部の階層分化が進んだ。すなわち従来の商人,地主のほか,公共部門の中堅幹部,技術者が加わったことにより,中産階級の厚みが増し,下級公務員,国営会社社員などの階層も増加した。だが国民の大多数を占める農民の場合,土地改革の受益者はわずかであり,経済成長の過程で新しく指導的地位についた官僚ブルジョアジー(高級官吏,軍人,国営会社幹部など)との所得格差が拡大していった。3%を超える人口増加率が維持され,脱農化現象が進んだために都市人口が急増し,都市での雇用問題,住宅問題,青少年問題などが深刻化した。フランスへの出稼ぎが社会的安全弁になっていたが,1973年以降新規流出が禁止された。このような急激な社会変化,生活様式の変化を原因とする社会不安が,1970年から文化問題の形をとって顕在化するようになった。とくに目立つのは,イスラム,アラビア語,少数民族をめぐる問題である。

 植民者がキリスト教とフランス語を武器とする文化攻勢をかけたのに対して,植民地支配下のアルジェリア人はイスラムとアラビア語を支柱に民族意識を擁護しようとした。独立政府は,両者の復興という民族運動の目標を達成し,同時に上からの国民統合を推進するために,イスラムとアラビア語の普及に最大限の便宜を与えた。それに対して政治体制や政策志向への不満,社会変化への不安感が,下からのイスラム化,アラビア語化の運動として表明されるのである。前者はふつうイスラム原理運動と呼ばれるもので,地方都市の伝統的中間層(商人,職人)だけでなく,大都市の理工系学生や青年労働者の間に支持者が拡大した。また後者は,アラビア語教育を受けた知識人や学生がその担い手であり,アラビア語への転換が官庁や国営会社でなかなか進展せず,したがってアラビア語習得者の就職機会が奪われることへの抗議行動である。政府にとってはそれらが自然発生的な大衆行動であるだけに危険な兆候であったが,やがて88年のアルジェ暴動となって政治体制そのものの変革を余儀なくされた。

 最後に少数民族問題としてベルベル人の運動がある。アルジェリアの国語・公用語はアラビア語であるが,言語からみるとベルベル語を母語とするベルベル人が全人口の2割弱を占めている。なかでもカビール人の問題はアルジェリア独立直後に反政府運動として表面化したこともあり,根は深い。政府がベルベル語と固有の伝統文化を無視して多数派住民への同化を強制することに反発し,1970年代に入り文化活動をさかんに行った。
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百科事典マイペディア 「アルジェリア」の意味・わかりやすい解説

アルジェリア

◎正式名称−アルジェリア民主人民共和国al-Jumhuriya al-Jazairiya al-Dimuqratiya wal-Sha biya/Democratic and Popular Republic of Algeria。◎面積−238万1741km2。◎人口−3408万人(2008)。◎首都−アルジェAlger(236万人,2008)。◎住民−アラブが大部分,ほかにベルベル。◎宗教−イスラム(スンナ派が大部分)99%。◎言語−アラビア語(公用語),フランス語,ベルベル語。◎通貨−アルジェリア・ディナールAlgerian Dinar。◎元首−大統領,ブーテフリカAbdelaziz Bouteflika(1935年生れ,1999年4月選出,2009年4月3選,任期5年)。◎首相−アブデルマレク・セラルAbdelmalek Sellal(2012年9月就任,大統領が任命)。◎憲法−1976年11月制定,1996年11月改正,2002年5月改正。◎国会−二院制。国民評議会=上院(定員144,任期6年),国民会議=下院(定員389,任期5年)。(2015)◎GDP−1739億ドル(2008)。◎1人当りGDP−3400ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−23.6%(2003)。◎平均寿命−男70.8歳,女73.6歳(2007)。◎乳児死亡率−31‰(2010)。◎識字率−72.6%(2006)。    *    *アフリカ大陸北西部の共和国。北アフリカ北岸に沿ってアトラス山脈が走り,地中海岸部は気候温暖で雨量も多いが,国土の約88%はサハラ砂漠。住民の約5分の1が農業に従事,ブドウ,オレンジ,小麦が主産物。1956年サハラ砂漠に豊富な油田が発見され,石油,天然ガスの輸出額が総輸出額のほとんどを占める。鉄鉱石,リン鉱石,天然ガスなども産する。 先住民はベルベル人で,古代ローマ支配ののち,7世紀にアラブが侵入。16世紀にオスマン帝国の支配が確立し,1830年からフランスが進出,1905年その支配が確立した。第1次大戦後,反仏・独立運動が始まり,1954年アルジェリア民族解放戦線が結成され,アルジェリア戦争を開始。1962年エビアン協定がなり,独立を達成。〔独立から現在まで〕 1963年ベン・ベラが大統領に就任したが,1965年クーデタで失脚した。クーデタ後漸進的社会主義化が進められた。1989年に憲法が改正され,政治の民主化が行われたが,1991年末の総選挙でイスラム救国戦線(FIS)が圧勝すると,1992年1月軍が事実上のクーデタを起こし,選挙を無効にした。以降,これに対してイスラム原理主義派によるテロが続発し,治安が悪化した。1999年に就任したブーテフリカ大統領は治安を回復させ,国営企業の民営化を進める一方で,外資を呼び込んで経済を上向かせた。しかし,イスラム原理主義派のテロ活動は続き,2003年1月にはイスラム過激派集団による軍への大規模な武力攻撃も起こった。2005年9月過激派への恩赦を盛り込んだ〈平和と国民和解のための憲章〉の是非を問う国民投票が行われ,97%の賛成で承認,ブーフテリカ政権は過激派との融和策を進めようとしたが,2007年4月以降自爆テロが頻発,同年12月には首都アルジェの憲法評議会と国連機関周辺で爆弾テロが起き,国連職員11人を含む37人が死亡する事件が起きた。こうした経過のなかで,FISの一部であったイスラム武装集団(GIA)が次第に勢力を増し,その組織はイスラム・マグリブ諸国アル・カーイダ機構(のちのAQIM)に継承され,アルジェリアのみならずマグリブ諸国をはじめ北アフリカ各地が,アル・カーイダの活動拠点となっていった。さらに,アルジェリアの南に隣接するマリやニジェールなどで,トァレグ族(ベルベル系遊牧民)の独立運動が起こり,マリの軍事クーデタを機に,2012年マリ北部のアザワドを中心にイスラム国家の樹立をめざしてAQIMをはじめアンサール・ディーンなどのイスラム武装勢力が結集。イスラム過激派はトァレグ族組織を打倒して,アサワド地域は事実上彼らの手中に落ちた。アルジェリアは欧米諸国,アフリカ諸国とともに,マリ軍を支援,2012年11月フランス軍が軍事介入してアサワド地域に攻撃を開始した。こうしたなか,2013年1月アルジェリアのイナメナス近郊の天然ガス精製プラントを,アル・カーイダ系武装集団のイスラム聖戦士結盟団(モフタール・ベルモフタールが指導者)が襲撃,多数のアルジェリア人や日本人10人を含む外国人41人が人質とされた。アルジェリア政府は軍の特殊部隊を投入し,銃撃戦の末制圧したが,日本人10人を含む8ヵ国37人が死亡した。→アルジェリア日本人人質事件
→関連項目マグリブ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルジェリア」の意味・わかりやすい解説

アルジェリア
Algeria

正式名称 アルジェリア民主人民共和国 Al-Jumhūrīyah al-Jazā'irīyah al-Dīmuqrāṭīyah ash-Sha`bīyah。
面積 238万1741km2
人口 4525万8000(2021推計)。
首都 アルジェ

アフリカ北西部,マグレブ三国(→マグレブ)中央部の国。断続的に連なる海岸丘陵の南に比較的低いテルアトラス山脈サハラアトラス山脈がほぼ平行して東西に延び,さらにその南側に国土の大半を占める広大なサハラ砂漠が広がる。降水量は北と東に行くほど多く,テルアトラス山脈と沿岸部を含むテル地方は,温帯冬雨気候(地中海式気候)でしのぎやすい。植生もこの地域は豊かで,オリーブ,コルクガシなどが生え,肥沃な農業地帯となっているが,古代には豊かな森林地帯であった南部の高原とサハラアトラス山脈地方は,今日では乾燥したステップ地域。大型野獣もほとんど姿を消した。かつてフェニキア人が植民地を建設し,ローマ時代にはヌミディアと呼ばれてローマの文化が栄え,先住民族ベルベル人の国もあったが,430年にはバンダル族に,531年にはビザンチン帝国に,7世紀にはアラブ人に,16世紀にはオスマン帝国によって支配され,1830年にはフランスの植民地とされた。1962年7月3日,アルジェリア民族解放戦線 FLNによる 7年半の独立戦争ののち独立達成(→アルジェリア問題)。国土は 15県(のち 48県),91郡に分けられ,郡は自治性の強いコミューンに分けられたが,全体的には FLNによる一党独裁の中央集権的社会主義体制がしかれ,外交面でも急進的傾向があった。1991年初の複数政党による総選挙が行なわれ,イスラム救国戦線 FISが大躍進したが,1992年1月,軍事クーデターが起こり実権は軍に移った。1999年大統領選挙を実施し民政復帰。住民はアルジェリア系アラブ人約 60%,ベルベル人(アラブ化したベルベル人を含む)約 25%,ベドウィン系アラブ人約 15%で,一時は 80万にも上ったヨーロッパ系住民は,独立後ほとんど姿を消した。人口の増加が著しく,大都市への流入が激しさを増し,住宅難,失業,社会不安が増大している。公用語はアラビア語で,2002年にベルベル語系のタマズィフト語が国語に定められている。経済面では輸出用のワインやコルクと,内需用の穀作に依存する農業国であったが,独立後はサハラの石油と天然ガスの産出を基盤に経済発展が著しく,石油化学工業,鉄工業の躍進を軸に,各種の重工業の育成が政府公営事業団によって行なわれ,民営化も進められている。また,遺跡も多く,自然の景観にも恵まれているが,政情の不安定のため,観光は伸び悩んでいる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「アルジェリア」の解説

アルジェリア
Algeria

アフリカ北西部に位置し,西地中海に面する共和国。首都アルジェ
【略史】原住民はベルベル人。前9世紀ころ,フェニキア人が植民市カルタゴを建設し,西地中海の貿易の拠点となる。前3世紀半ば〜前1世紀半ばまでの3回にわたるポエニ戦争でローマの属州となる。その後,5世紀前半から約1世紀間ゲルマン人の一派ヴァンダルの建てた王国に支配され,6世紀前半からは東ローマ(ビザンツ)帝国の支配下にはいる。7世紀後半アラブ人が進出し,8世紀初めウマイヤ朝の一部となり,イスラーム化が進む。15世紀にスペイン人とトルコ人が相次いで侵入したのち,16世紀にオスマン帝国の属領となる。オスマン帝国の衰退でその支配が低下したのち,1830年にフランスの出兵が始まると,32年からアラブ人首長アブドゥル=カーディルの率いる反仏闘争が展開されたが,42年に直轄地とされる。19世紀後半からはフランスの対アフリカ政策の拠点,また地中海制圧の軍事拠点として重要視される。沿岸部は農業・牧畜に適し,後背地の砂漠地帯は鉄・鉛・硫黄などの鉱物資源に恵まれ,フランス資本により開発され,その原料供給地・商品市場とされる。1919年原住民にもフランス市民権が認められたが,植民地支配のもとでの実権はヨーロッパ人入植者(コロン)が握っていた。
【独立とその後】第二次世界大戦後,1954年民族解放戦線(FLN)が結成され,武装闘争(アルジェリア戦争)を展開し,58年カイロに共和国臨時政府を樹立。アルジェリア戦争が泥沼化する中,フランスでは第四共和政が倒れ,1958年6月その解決を期待されてド=ゴール政権が成立。同年10月第五共和政が成立し,大統領となったド=ゴールとの間で交渉が開始され,1962年3月のエヴィアン協定後,7月に独立を達成した。FLNの指導者ベン=ベラが大統領になるが,1965年ブーメディエンが指揮する軍部の無血クーデタが成功し,全権を掌握した。1976年の総選挙で軍政を廃止したのち,1986年の新国民憲章で社会主義とイスラームが国家の2本柱と定められた。独立以来FLNの1党支配が続いたが,1989年に複数政党制を認める新憲法が採択された。1991年末,複数政党制による初の総選挙の第1回投票で,イスラーム原理主義のイスラーム救国戦線(FIS)が議席の8割以上を獲得して圧勝。これに対して翌92年1月軍部は,シャドリ大統領を解任,第2回投票の中止と第1回投票の事実上の無効を宣言し,最高国家評議会を創設するとともに,FISを非合法化して壊滅をはかった。これ以後テロが頻発する中,1993年6月最高国家評議会は民主化への移行を表明し,94年1月には国民和解会議を開催したが失敗。1995年11月初の複数政党制による大統領選挙を実施,軍人出身のゼルーアルが当選した。1996年11月の国民投票で憲法改正案(大統領権限の強化,イスラーム勢力排除などが内容)が承認され,97年6月の総選挙後,大統領派の民主国民連合とFLNなど3党連立政権が発足。1998年7月に公用語をアラビア語に限定すると,先住民ベルベル人の猛反発が起こる。この間,経済面では,豊富な石油・天然ガスをもとに社会主義経済を推進したが失敗し,1995年から国営企業の民営化計画を推進し,市場経済への移行を実施中である。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アルジェリア」の解説

アルジェリア
al-Jazā'ir[アラビア],Algérie[フランス]

マグリブの中央部に位置する国で,西はモロッコ,東はチュニジアと国境を接する。全人口のうちアラブ系が約80%,ベルベル系が約20%。ムスリムは99.5%。ローマ,ヴァンダルビザンツ帝国アラブオスマン帝国の支配を受けた。先住民はベルベル人であったが,7世紀にアラブがもたらしたアラビア語とイスラームはその後の国家と社会に決定的影響を与えた。1830年から132年間もフランスに植民地支配されたが,アルジェリア民族解放戦線(FLN)を主体とする勢力は1954年から7年半にわたる解放戦争を戦い,62年7月ついに独立(アルジェリア民主人民共和国)を達成した。独立後,社会主義的路線を選択したが,FLN体制は軍,政,官の癒着により腐敗し,80年代末にFIS(フィス)(イスラーム救済戦線)を中心とするイスラーム勢力による激しい批判を浴びた。92年以降,両者の間で弾圧とテロが繰り返される未曾有の混乱状況に陥った。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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