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アルジェリア アルジェリアAlgeria

翻訳|Algeria

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アルジェリア
Algeria

正式名称 アルジェリア民主人民共和国 Al-Jumhūrīyah al-Jazā'irīyah al-Dīmuqrāṭīyah ash-Sha`bīyah。
面積 238万1741km2
人口 3906万(2014推計)。
首都 アルジェ

アフリカ北西部,マグレブ三国(→マグレブ)中央部の国。断続的に連なる海岸丘陵の南に比較的低いテルアトラス山脈サハラアトラス山脈がほぼ平行して東西に延び,さらにその南側に国土の大半を占める広大なサハラ砂漠が広がる。降水量は北と東に行くほど多く,テルアトラス山脈と沿岸部を含むテル地方は,温帯冬雨気候(地中海式気候)でしのぎやすい。植生もこの地域は豊かで,オリーブ,コルクガシなどが生え,肥沃な農業地帯となっているが,古代には豊かな森林地帯であった南部の高原とサハラアトラス山脈地方は,今日では乾燥したステップ地域。大型野獣もほとんど姿を消した。かつてフェニキア人が植民地を建設し,ローマ時代にはヌミディアと呼ばれてローマの文化が栄え,先住民族ベルベル人の国もあったが,430年にはバンダル族に,531年にはビザンチン帝国に,7世紀にはアラブ人に,16世紀にはオスマン帝国によって支配され,1830年にはフランスの植民地とされた。1962年7月3日,アルジェリア民族解放戦線 FLNによる 7年半の独立戦争ののち独立達成(→アルジェリア問題)。国土は 15県(のち 48県),91郡に分けられ,郡は自治性の強いコミューンに分けられたが,全体的には FLNによる一党独裁の中央集権的社会主義体制がしかれ,外交面でも急進的傾向があった。1991年初の複数政党による総選挙が行なわれ,イスラム救国戦線 FISが大躍進したが,1992年1月,軍事クーデターが起こり実権は軍に移った。1999年大統領選挙を実施し民政復帰。住民はアルジェリア系アラブ人約 60%,ベルベル人(アラブ化したベルベル人を含む)約 25%,ベドウィン系アラブ人約 15%で,一時は 80万にも上ったヨーロッパ系住民は,独立後ほとんど姿を消した。人口の増加が著しく,大都市への流入が激しさを増し,住宅難,失業,社会不安が増大している。公用語はアラビア語で,2002年にベルベル語系のタマズィフト語が国語に定められている。経済面では輸出用のワインやコルクと,内需用の穀作に依存する農業国であったが,独立後はサハラの石油と天然ガスの産出を基盤に経済発展が著しく,石油化学工業,鉄工業の躍進を軸に,各種の重工業の育成が政府公営事業団によって行なわれ,民営化も進められている。また,遺跡も多く,自然の景観にも恵まれているが,政情の不安定のため,観光は伸び悩んでいる。

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百科事典マイペディアの解説

アルジェリア

◎正式名称−アルジェリア民主人民共和国al-Jumhuriya al-Jazairiya al-Dimuqratiya wal-Sha biya/Democratic and Popular Republic of Algeria。
→関連項目マグリブ

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世界大百科事典 第2版の解説

アルジェリア【Algeria】

正式名称=アルジェリア民主人民共和国al‐Jumhūrīya al‐Jazā’irīya al‐Dimuqratīya wal‐Sha‘bīya∥Democratic and Popular Republic of Algeria面積=238万1741km2人口(1996)=2856万人首都=アルジェAlgier(日本との時差=-9時間)主要言語=アラビア語,フランス語,ベルベル語通貨=アルジェリア・ディーナールAlgerian Dinar北アフリカ(マグリブ)の中央を占める共和国。

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大辞林 第三版の解説

アルジェリア【Algeria】

アフリカ北部、地中海南岸に臨む民主人民共和国。1830年以降フランスの植民地。1962年フランスから独立。石油・天然ガス・ブドウ・オリーブ・羊毛などを産出する。住民はアラブ人・ベルベル人。大部分がイスラム教徒。主要言語はアラビア語・フランス語。首都アルジェ。面積238万2千平方キロメートル。人口3290万( 2005)。正称、アルジェリア民主人民共和国。 〔「阿爾及」とも当てた〕

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アルジェリア
あるじぇりあ
People's Democratic Republic of Algeria英語
Jumhrya jaz'irya dimoqratya wa shbyaアラビア語

アフリカ大陸北西部、地中海に面する国。正称はアルジェリア民主人民共和国Jumhrya jaz'irya dimoqratya wa shbya。公用語である正則アラビア語ではアル・ジャザイルal-Jaz'ir、El Djazarといい、首都アルジェ(人口335万。2007年)と同名である。アラブ世界の西の果てマグレブ三国の真ん中に位置し、東のチュニジア、西のモロッコに挟まれている。国土は南のサハラ砂漠に巨大なくさびを打ち込んだような形で大きく広がり、南東から南西にかけてリビア、ニジェール、マリ、モーリタニア、西サハラと国境を接している。面積は238万1741平方キロメートルで、アフリカ大陸ではスーダンに次ぎ二番目に広い国である。人口は3445万9729(2008年センサス暫定値)、3348万1000(2006年推計)、3489万5000(2009年推計)で、その95%は地中海沿岸から250~350キロメートル幅の地域(国土の14%)に集中している。フランス植民地時代はぶどう酒など農産物の輸出国であったが、1962年の独立後は、サハラの石油、天然ガスをもとに重化学工業化を進め、「地中海の日本」を目ざし、地中海沿岸諸都市には最新設備の工場がみられる。[藤井宏志]

自然


地形
地形は大きくアトラス山脈地域とサハラ地域とに分けられる。山脈地域は古第三紀(6500万年前)に北上するアフリカプレート(岩盤)がユーラシアプレートに衝突し褶曲(しゅうきょく)が生じたものである。アトラス山脈地域は、狭い沿岸平野、標高1000~2000メートルの急峻(きゅうしゅん)な山地列よりなるテル・アトラス山脈、標高500メートルのアトラス高原、標高1000~2000メートルの比較的なだらかなサハラ・アトラス山脈の四つが北から順に並んでいる。テル・アトラス山脈には欧亜地震帯が走り、1980年にエル・アスナム(現、エシュ・シェリフ)でマグニチュード7.5の地震があり大きな被害を生じた。さらに、2003年5月にもブメルデス県でマグニチュード6.7の地震があり、2000人以上の死者がでた。サハラ地域は全体として平均標高500メートルの高原である。例外的に標高3000メートルに及ぶ南部のアハガル山地は、隆起楯状(たてじょう)地で風蝕(ふうしょく)により奇観を呈する岩山がある。エルグとよばれる砂丘群は、東部大砂丘群など4か所にある。北東端にあるメルリル塩湖の標高は海面以下である。[藤井宏志]
気候
降雨は冬季に集中しており、地中海沿岸に多く、南下するにつれ極端に少なくなる。気候区分は地形によく対応し、沿岸平野とテル・アトラス地域が地中海式気候、アトラス高原からサハラ・アトラス山脈までがステップ気候、年降水量200ミリメートルの線が走るサハラ・アトラス山脈南縁より南が砂漠気候である。いずれの地域も夏は乾燥し、気温も高く厳しい暑さとなる。このため建物の壁は厚い。地中海沿岸は冬は温和であるが、アトラス山脈では気温が下がり、高山では積雪をみる。カビリー山地など東部のテル・アトラス山脈では年降水量1000ミリメートルを超す所もあるが、全体に降水量は少なく、大河はなく、農業・工業・都市用水をいかにして確保するかがつねに問題となる。サハラ・アトラス山脈からアトラス高原にかけ、砂漠化が進行しており、政府はこれを食い止めるため「緑の長城計画」(バラージュ・ベールBarrage Vert)とよぶ大規模植林計画を実施している。また幹線道路への砂の堆積を防ぐため、道路の両側に植林している。季節風として、春から初夏にかけサハラから吹き出す、砂混じりの熱風「シロッコ」は有名である。[藤井宏志]

地誌

アルジェリアは地中海沿岸地域、ステップ地域、サハラ地域の三つに地域区分される。地中海沿岸地域は沿岸平野とテル・アトラス地域からなり、地中海式気候を示し、自然条件ではもっとも恵まれた地域である。植民地時代、ヨーロッパ人植民者はこの地域にもっとも多く入植し、ブドウ、柑橘(かんきつ)類などを栽培する農園を経営し、各町にヨーロッパ人市街地をつくった。1962年の独立後ヨーロッパ人農園を再編成した自主管理農場の多くは、この地域に分布し近代的機械化農業を展開した。また独立後の重化学工業化政策により、アンナバ、ビジャーヤ、スキクダ、アルジェ、アルズー、オランなどの沿岸工業都市が発展している。首都アルジェは国の政治、経済、文化の中心として人口の集中が続いており、背後のミチジャ平野は農業地域から住宅都市地域や近郊工業都市地域に変貌(へんぼう)した。内陸部のコンスタンティーヌ、セティフ、メデア、エシュ・シェリフなどの県都では地方工業化政策により工場、住宅が建設されている。一方カビリー山地など伝統的農業が行われている地域では、都市部やフランスへ労働者が多く流出している。
 ステップ地域はアトラス高原とサハラ・アトラス山脈を含む地域で、年降水量は200~400ミリメートルと少なく、小麦など穀物栽培とヒツジなどの牧畜を組み合わせた農業が行われる。雨のない年には草を求めて移動する半遊牧的牧畜もある。一部の近代的農場を除き、技術は伝統的であり、貧困な地域である。灌漑(かんがい)農業を進めるためホドナ湖の開発が考えられている。ジェルファ、バトナなどの県都では工業化が進められている。
 サハラ地域はサハラ・アトラス山脈南縁より南のサハラ砂漠であり、住民は水の得られる山麓(さんろく)、高原麓や谷底のオアシスに住む。オアシスでは湧水(わきみず)やフォガラとよばれる地下水路からの水でナツメヤシや野菜、果実などを栽培する。農民は南からかつて奴隷として連れてこられたブラック・アフリカ系の人々が多く、高い水代をとられるためきわめて貧しい。オアシス周辺を根拠地とする遊牧民は、夏は家畜を連れて収穫の終わった北の農耕地域に行き、冬は少雨で草の生えるオアシスに帰ってくる。交通の拠点であり市場の機能をもつオアシスには、市街地があり人口も多い。第二次世界大戦後、石油、天然ガスが開発され、ハシ(ハッシ)・メサウドやハシ(ハッシ)・ルメルには分離・送出工場ができ、技術者、労働者が定住している。風光明媚(めいび)で知られるガルダーヤ・オアシスやゴレアでも都市化・工業化が進められている。中部のレガヌにはフランスのサハラ核爆発実験場が置かれ、1960年にはフランス初の核実験がここで行われた。1962年の独立後もレガヌだけはフランス直轄地として1967年まで核実験は続けられた。その後フランス軍の撤退に伴い実験場はアルジェリアに移管され立入禁止地域となったが、放射能汚染問題は残っている。[藤井宏志]

歴史

旧石器時代や、タッシリ・ナジェールの岩絵のような先史時代の遺跡を残した先住民とは異なり、直接現在とつながるマグレブ地方の古代の住民は、地中海人種に属するベルベル人であり、農耕、牧畜を営んでいた。古代のマグレブ地方は、航海技術の発達により地中海の北岸や東岸からきたフェニキア、バンダルなどの異民族に順次支配された。しかし支配者は沿岸の諸都市や内陸部の交通の要所を抑えただけで、ベルベル人各部族の政治、経済組織は維持された。
 中世はアラブ人の侵攻によるアラブ化、イスラム(イスラーム)化の時代である。7世紀なかばイスラム地域拡大のためマグレブ地方に侵入したアラブ軍は8世紀にはモロッコに達した。ベルベル人はこれに抵抗したが、アラブ軍は改宗した者を同等に扱ったのでイスラム教(イスラーム)への改宗者が相次ぎ、アラビア語、イスラム文化も浸透し、混血も進んだ。イスラム教を受容しても、ベルベル語、ベルベル文化を守った部族もあり、今日もそれをカビリー、オーレス(アウレス)、ムザブ(ガルダーヤ)、アハガルの各地方にみることができる。
 16世紀初頭、アルジェリア沿岸からスペイン軍を駆逐したトルコ軍はそのまま現地に残り、この地をオスマン帝国の属領とした。この時代の各トルコ総督の支配領域から、沿岸部における現在の国境がほぼ定まり、アルジェリア国家の枠組みが形成された。総督府が置かれたアルジェは首都としての地位が定まった。オスマン帝国の支配下でも諸部族の組織は維持され、一方、属領政治支配の実権は駐在するトルコ陸軍、海軍(海賊)の士官が握った。
 1830年、シャルル10世治下のフランスは、地中海を荒らしまわるトルコの海軍(海賊)を抑えるためとマルセイユ大商人の利益を図るために、この地に遠征軍を上陸させ、トルコ総督を降伏させてアルジェを占領した。これがフランスによるアルジェリアの植民地支配の第一歩となった。以後132年間の植民地時代に、フランス支配への抵抗と伝統的部族社会の解体のなかで、初めてアルジェリア人の国民意識が形成された。トルコ総督の降伏後もアルジェリア人の抵抗は強く、アブデル・カーディル(カーデル)やモクタールの挙兵はよく知られている。フランス植民地下のアルジェリアでは、1870年代のブドウ栽培成功をきっかけに、柑橘(かんきつ)類、野菜などヨーロッパ市場向けの商品作物を栽培する農園が発展した。このほか鉄や亜鉛の鉱山も開発された。このようにして一次産品を輸出し、工業製品を輸入するという植民地経済が形成された。土地を奪われ、伝統的な社会を解体されたアルジェリア農民は、都市へ出るか農園の労働者として働くかしかなかった。植民地時代末期、アルジェリア人700万人に対しヨーロッパ人植民者は100万人であった。フランス政府は「同化政策」と称しながら両者の間には身分、所得のうえで大きな差別があった。
 第二次世界大戦中、フランスの敗戦により一時ビシー政権下に入ったが、連合軍の北アフリカ占領によって、ドゴールの対独レジスタンスの根拠地となった。
 第二次世界大戦後、他のフランス植民地は次々に独立したが、アルジェリア独立の要求は認められず、1945年の「セティフの虐殺」のような弾圧が続いた。独立運動家たちはアルジェリア民族解放戦線(FLN)を結成し、国民解放軍(ALN)への参加を呼びかけた。1954年11月1日、FLNは全国各地で一斉に武力蜂起(ほうき)し、7年4か月に及ぶ独立戦争が始まった。フランス政府は50万の軍隊を投入して過酷な弾圧を加えたが、かえって民衆をFLNへ結集させた。泥沼状態から脱却するため、フランスでは1958年ドゴールが再登場して、アルジェリアの民族自決権の承認を原則とする方針のもとで、アルジェリア共和国臨時政府(1958年9月FLNが樹立)との交渉が進められた。そして1962年3月、停戦と独立を内容とするエビアン協定が成立した。
 1962年7月3日アルジェリアは独立を達成した。同年9月制憲議会の選挙が行われ、議会は民主人民共和国の成立を宣言した。1963年9月憲法草案を採択し、初代大統領としてベンベラ(ベン・ベラ)を選出した。翌1964年4月のFLN大会で社会主義を志向する新綱領「アルジェ憲章」を採択した。しかし1965年6月19日、副首相・国防相のブーメディエン大佐によるクーデターが起こり、ベンベラは失脚して幽閉された。ブーメディエンは憲法を停止し、革命評議会を最高機関として自ら議長に就任した。ベンベラはヨーロッパ人所有農地を国有化したが、ブーメディエンも社会主義路線を継承し、外国系企業を次々に国有化し、大学・専門学校出身の行政官を重用して、国営会社による重化学工業化を推進した。
 また1971年にはアルジェリア人所有農地を再配分する「農業革命」を開始した。1976年新憲法の採択、大統領選挙などの民主化が行われ、翌1977年には国会議員選挙が実施された。独立戦争とフランス人の引き揚げによって経済が破綻(はたん)に瀕(ひん)していたこの国を「中進国」に成長させたブーメディエンは、国民の圧倒的な支持を得て大統領に選出されたが、1978年病死し、参謀総長のシャーズィリー(シャドリ)大佐al-Shdhili Benjadid(1929― )が後継者となった。
 1980年代に入り石油価格が低落し、国営化、重化学工業化路線は挫折(ざせつ)して膨大な累積債務に悩むこととなった。失業とインフレ、生活物資の不足を生じ、この路線を主導したFLNの一党独裁に国民の不満は高まった。この不満の高まりにこたえたのがイスラム(イスラーム)主義運動組織で、1990年初頭に行われた各種の選挙で7割以上の票を獲得した。これに危機感をもった政府と軍が強硬な弾圧策をとったため、イスラム主義運動組織は1992年以降テロ活動に転じた。このテロにより外国人を含め数万人が犠牲となり、一時は「第二次アルジェリア戦争」とよばれるような状況になった。[藤井宏志]

政治

イスラム主義運動組織「イスラム救済戦線(FIS)」は、1990年6月の複数政党制移行後初めての地方選挙で圧勝した。1991年12月の国民議会選挙の第1回投票でもFISが多数を獲得したため、軍は大統領のシャーズィリー(シャドリ)を退陣させて権力を握り、第1回投票の無効を宣言し、1992年1月の第2回投票を中止した。
 1992年1月、軍は国家高等委員会を最高権力機関とし、ブーディヤーフMohamed Boudiaf(1919―1992)を議長として、全土に非常事態宣言を布告した。同年6月ブーディヤーフは暗殺され、アリー・カーフィが新議長となった。しかし軍はこうした軍政は移行措置であるとし、1994年1月、委員会を解散して元将軍ゼルワールLiamine Zeroual(1941― )を大統領に指名した。その後1995年11月、4名が立候補した大統領選挙でゼルワールは61%の票を得て当選し、合法的に信任(任期5年)された。1999年ゼルワールが大統領を辞任、同年4月大統領選挙で元外相ブーテフリカAbdelaziz Bouteflika(1937― )が当選した。2004年4月にブーテフリカが大統領に再選。さらに2008年11月の憲法改正により、大統領の任期制限が撤廃されたため、ブーテフリカの多選が可能となった。そして2009年4月にブーテフリカは3選を果たし、長期政権を維持している。
 一方、1992年以来続いているテロ活動はますます激しさを加え、1996年にはFISの武装組織イスラム救国軍(AIS)と武装イスラム集団(GIA)との対立が表面化、フランス人修道士7人の誘拐・殺害をはじめ爆破事件などが繰り返された。1997年には村落襲撃・虐殺事件が続発するなど、テロの犠牲者は数万人に達するといわれる事態に至った。2003年にもイスラム主義過激派による観光客人質事件が発生している。ブーテフリカ大統領は、武装解除をしたテロ組織に恩赦を与える融和策など、テロ対策に積極的に取り組んでいるが、テロ活動を抑えるに至っていない。
 議会は1996年11月の憲法改正で、国民評議会(上院)と国民議会(下院)からなる二院制が採用された。国民議会選挙は1997年6月行われ、大統領支持派の民主国民連合(RND)とFLNが全380議席のうち過半数を得た。同年12月には上院選挙も実施された。2002年5月と2007年5月の2回の国民議会選挙でも、FLN、RNDなどの与党連合が圧勝している。首相は大統領により任命され、内閣を組織する。政府には26省5庁がある。軍は陸海空で総兵力14万7000人。予備役15万人。[藤井宏志]

経済・産業

独立以後の経済の課題は、植民地時代に形成されたブドウ、柑橘(かんきつ)類、鉱産物の輸出に依存する経済、近代的部門と伝統的部門および内陸部と沿岸部との著しい格差、多数の失業者と海外出稼ぎ者などの解消にあった。ブーメディエン時代、石油・天然ガスの輸出収入を基礎に、先進国の融資と技術を導入し、二度の五か年計画で工業化を図った。この結果、沿岸や地方に工場が建設され、「中進国」となったが、一方で農工間格差は拡大し、失業者、労働移住者は減少しなかった。
 1980年以後、石油・天然ガス価格は下落し、建設した工場の操業率も低く、重化学工業化路線は破綻(はたん)した。生活物資も不足し、1988年10月には全土に暴動が起きた。1994年には累積債務が返済不能となり、民営化と通貨切下げ、補助金削減を中心としたIMF(国際通貨基金)および世界銀行の構造調整計画を受け入れた。豊富な石油・天然ガスを生かすため、49%を外国企業に開放して開発を進め、1996年末完成したスペインへの海底ガスパイプラインを使って、ヨーロッパ各国への供給を高めた。1998年にはIMF構造調整計画を予定通り終了し、国営企業の再編・民営化、市場経済化、外国資本の誘致など経済の再建中である。EU(ヨーロッパ連合)加盟の可否も経済発展の鍵(かぎ)であり、2002年にはEUとの連合協定を締結した。[藤井宏志]
資源
工業化の基礎である石油の埋蔵量は11億4000キロリットル(2007)、年生産量は6387万トン(2007)で、このうち85%を輸出している。油田はハシ(ハッシ)・メサウド、エジェレなどで、地中海沿岸まで500キロメートル以上のパイプラインが必要だが、軽質油であり、ヨーロッパに近接している点で有利である。天然ガス埋蔵量は4兆5000億立方メートルと世界有数である。ハシ(ハッシ)・ルメルに大ガス田があり、海岸へ送って液化したうえで輸出している。1983年イタリアへ、1996年にはスペインへの海底ガスパイプラインが完成。生産は政府が51%資本参加した外国企業が、輸送と販売は国営会社ソナトラックが行い、1991年以降外国企業と協力して開発が進んでいる。このほか地下資源として鉄鉱石(ウェンザなど)、燐(りん)鉱石(ジュベルオンク)、亜鉛、鉛などがある。[藤井宏志]
農業
独立後、農地の所有形態は、社会主義セクター、農業革命セクター、私的セクターに分類された。前二者は、ヨーロッパ人所有の農園や大地主の農地を国有化し、国営農場(自主管理農場)や協同組合農場に再編したもので、全耕地面積の40%を占めた。私的セクターはアルジェリア人の大農、中農、小農の所有地である。国営農場、協同組合農場では、給与が一定で、政府が販売を管理したため、農民の労働意欲が低下し、農産物の質・量ともに低下した。工業化の過程で農場員の都市流出も起きた。食糧自給率も落ち、食糧輸入は増加した。1987年、社会主義セクターと農業革命セクターは解体され、3万以上の個人経営農場(EAI)と集団経営農場(EAC)に分割された。社会主義セクターもほとんど民営化している。1戸当り10ヘクタールが生活限度のこの国で、私的セクターは平均7ヘクタールと零細農が多いが、50ヘクタール以上の中農、100ヘクタール以上の大農は近代化し収入も多い。
 主要栽培作物は小麦、大麦、ブドウ、柑橘類、野菜、工芸作物、ナツメヤシであるが、国内需要のないブドウは小麦への転換が行われており、2007年の農業人口は300万となっている。遊牧民の伝統があり畜産・酪農にも力を入れている。2007年の家畜統計ではヒツジ1985万頭、ヤギ337万頭、ウシ166万頭、ロバ23万頭、ラクダ29万頭などとなっている。[藤井宏志]
工業
国内総生産(GDP)に占める石油、天然ガス生産の割合は高く、工業生産は10%程度である。主要な工業は重化学工業では鉄鋼、機械、電機、石油化学で、沿岸諸都市に立地する。最新設備を有するが、低い操業率が問題である。地方の工業化によって各県都の周辺に、繊維、プラスチック、セメント、建材、皮革、食品など比較的雇用数の高い工場を設置している。ほとんどの企業は一業種一国営会社の方式で経営されていたが、民営化が進められている。[藤井宏志]
貿易
石油、天然ガスの輸出にもかかわらず、工業化による設備投資、食糧輸入のため、貿易収支は大幅な赤字が続いてきた。石油、天然ガスの輸出は、総輸出額の97.9%(2006)を占める。主要輸入相手国はフランス(20.8%)、イタリア、中国、ドイツ、アメリカであり、輸出相手国はアメリカ(27.2%)、イタリア、スペイン、フランス、カナダである。旧宗主国フランスとの関係は強い。[藤井宏志]
財政
外国からの借入金に依存してきたため債務の元利返済が増加したが構造調整策を実施、石油価格も上昇したので2007年の累積債務総額は40億ドルに減少している。[藤井宏志]
交通
全長4017キロメートルの鉄道はほとんど植民地時代に敷設されたもので、国営鉄道会社が運営している。道路の建設は独立後も続けられており、とくにサハラ縦断道路の建設に力を入れ、1978年に完成した。2010年時点で、モロッコとチュニジアを結ぶ東西横断高速道路が日本企業により建設されている。航空では20以上の空港があり、主要な国際空港はアルジェのウアリ・ブーメディエン空港とオラン、アンナバ、コンスタンティーヌの各空港で、フランス各都市との路線が多い。国営会社のアルジェリア航空は国内路線を独占している。港湾ではアルジェ、アルズー、オラン、アンナバが主要港である。各港からマルセイユとの間に定期旅客航路がある。[藤井宏志]

社会

先住民はベルベル人であり、7世紀以後アラブ人が入ってきた。混血とイスラム化、アラビア語化が進み、現在ベルベル人を区別するのは、ベルベル系言語を話せるということのみである。ベルベル人の人口の割合は19%で、主としてカビリー、オーレス(アウレス)、ガルダーヤ、アハガルの諸地方に分布しているが、大都市にも多く住む。近年のアラビア語化運動に危機感をもっている。サハラのオアシスには農民としてアフリカ系の人々が住む。公用語は正則アラビア語であるが、植民地時代にフランス語教育を強制され、アラビア語使用を禁じられたので、大部分の人が両国語を使い分ける。独立後は正則アラビア語教育に力を入れている。近年、英語教育とアラビア語アルジェリア方言の国語化の要望が高まっている。
 1995年央の推計人口は2855万であったが、1998年の国勢調査(センサス)では2910万、2008年の国勢調査では3346万となっている。これに加えて、外国にいる労働移民が95万、遊牧民が41万5000いる。出生率2.8%、死亡率0.5%、自然増加率は2.3%と高い。年齢階層別人口では、0~24歳が59%を占め、教育、雇用、食糧、住宅などの需要増大が大きな問題となっている。1990年代以降の石油価格の高騰で財政が豊かになり、大都市や地方都市では戸建てや高層アパートの建設が進み、住宅事情は好転しつつある。
 独立後義務教育の普及に努力し、識字率はかつての20%から67%(1999)、75%(2007)に上昇している。中等・高等教育では、工業化と関連して技術教育に力点を置いている。イスラム教(スンニー派)が国教である。独立後、民族主義との結び付きから、戒律を守ることが強化されてきた。
 医療は無料化され、他の社会保障制度も進んでいる。とくに労働者総同盟(UGTA)の組織が強く、労働者保護は高い水準にある。[藤井宏志]

文化

基調をなす文化として、ベルベル文化、アラブ・イスラム文化、フランス文化があるが、思想、言語の両面で7世紀以来のアラブ・イスラム文化がアルジェリア人の基盤をなしている。しかし、フランス文化が近代化の中心となり、政治、経済、教育などの諸制度を支えていることから、現在、日常生活ではフランス文化の影響が大きい。独立後の文学、映画もフランス語で発表されてきた。言語の面では、ベルベル語を民族語を構成する一言語としたうえで、アラビア語化運動を進めているが、ベルベル文化を守る者の反発を買っている。文学、映画では独立戦争や、ベルベル人の風土のなかでの粘り強い生き方を題材にしたものが多い。誇り高く、意志強く自己を主張する国民性をもっている。
 社会主義体制とテロのため閉鎖的であったが外国人観光客の誘致に力を入れ始めた。観光資源としてすばらしいものがあり、ユネスコの世界遺産にも「ベニ・ハンマド要塞」「ムザブの谷」「ジェミラ」「ティパサ」「ティムガッド」「アルジェのカスバ」(以上文化遺産)「タッシリ・ナジェール」(複合遺産)の七つが登録されている。[藤井宏志]

日本との関係

独立戦争中、日本の有志がFLNに医療援助などを行ったことから両国の友好関係は密接で、独立後すぐ大使を交換した。経済関係では日本から工業製品を輸入し、天然ガス、原油を輸出している。日本の技術への信頼から日本のプラント輸出が多く、アルジェリアは日本の1977年度(昭和52)プラント輸出相手国の第1位であった。そのほか、世界遺産に登録されたタッシリ岩絵の保存計画など幅広い協力を行っている。大統領ブーテフリカは2000年(平成12)、2004年、2008年に来日している。[藤井宏志]
『淡徳三郎著『アルジェリア革命』(1972・刀江書院) ▽宮治一雄著『アルジェリア社会主義と自主管理農場』(1978・アジア経済研究所) ▽宮治一雄著『アフリカ現代史5 北アフリカ』(1978・山川出版社) ▽藤井宏志著『アルジェリア非植民地化の地理学的研究』(1982・熊本商大海外事情研究所) ▽日本貿易振興会編『ジェトロ貿易市場シリーズ・アルジェリア』(1987・日本貿易振興会刊) ▽フアン・ゴイティソーロ著、山道佳子訳『嵐の中のアルジェリア』(1999・みすず書房) ▽私市正年編著『アルジェリアを知るための62章』(2009・明石書店) ▽シャルル=ロベール・アージュロン著、私市正年、中島節子訳『アルジェリア近現代史』(白水社文庫クセジュ)』

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