デジタル大辞泉 「コルドバ」の意味・読み・例文・類語
コルドバ(Córdoba)
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スペイン南部,アンダルシア地方中央部の同名県の県都。人口31万(2001)。グアダルキビル(古名バエティス)川北岸に立地し,同川にかかるローマ期の橋やイスラム期の壮大なモスク(スペイン語名メスキータ)で知られる。セビリャとマラガに次ぐアンダルシア第3の都市だが,近代産業と現代的な活気に乏しい。高級なめし革の代名詞〈コードバンcordovan〉は,イスラム期コルドバの特産であった皮革製品の名声に由来する。
コルドバの起源は前2世紀にさかのぼる。前1世紀の地理・歴史学者ストラボンによれば,コルドバはローマ人がイタリアからの入植者のためにヒスパニア--ローマ人はイベリア半島をこう呼んだ--に建てた最初の植民都市であった。また一説には,前169年か前152年に国務官M.クラウディウス・マルケルスの命令で創設されたともいわれる。いずれにしても,確証はなく詳細も不明である。グアダルキビル川流域の豊かな農耕地帯を周囲に控えるコルドバは,ローマ期を通じてイベリアの代表的都市の一つとして大いに栄え,ローマ文化の一中心地だった。そしてローマ最大の思想家と評され,皇帝ネロの師であったストア哲学者セネカ,その甥で詩人のルカヌスその他の優秀な人材の生地であることから,〈子らに秀でたコルドバCorduba praepotens alumnis〉ともたたえられた。
しかし,コルドバがその歴史の中で最も繁栄し,広く知られるようになるのはイスラム期に入ってからである。711年にイベリアに侵攻したイスラム教徒は,軍事征服が一段落すると,アル・アンダルスと命名したこの新しい領国の首都にコルドバを選んだ。そして756年にはダマスクスを追われたウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世が亡命政権を立てたことから,西方イスラム世界の首都となった。
後ウマイヤ朝期(756-1031)はアル・アンダルスの最盛期であり,コルドバは西ヨーロッパ随一の規模に発展した。10世紀には,その周囲の城壁は全長12km,人口は10万,城壁外居住地区は21を数え,東方のバグダードやコンスタンティノープルとその威容を競った。4回の拡張工事で収容人員2万5000に達したメスキータ,蔵書数40万冊と伝えられる王宮図書館,北アフリカやビザンティン帝国からも石材を運んで造営されたマディーナ・アッザハラ(メディーナ・アサハーラ)の王宮(現在は廃虚)等から,この時のコルドバは〈西方の宝石〉とまで呼ばれた。そしてこの繁栄のコルドバからはイブン・ハズム,イブン・ルシュド(アベロエス),モーシェ・ベン・マイモン(マイモニデス)らが輩出した。1236年のカスティリャ王フェルナンド3世による征服後,一地方都市に低落したコルドバは,しだいに繁栄の道から外れていき,人口も16世紀初めには3万3000に落ち込んだ。
執筆者:小林 一宏
古代ローマ時代の遺構としては,わずかにグアダルキビル川にかかる橋と城壁が残るにすぎない。現存する遺構中,最も重要な大モスク(メスキータ)は,アブド・アッラフマーン1世によって創設され,13世紀にキリスト教の大聖堂に転用されるまで,繰り返し増改築が行われた。コルドバの北西約8kmに,アブド・アッラフマーン3世により建造された,都城ともいえる広大な王宮址マディーナ・アッザハラ(936-981)がある。最上段に宮殿,中段にあずまやと庭園,下段にモスクと行政庁舎が設けられたが,1013年にベルベルによって破壊されて廃虚と化し,現在まで一部が発掘・修復されている。このほかイスラムの遺構にサン・フアンのミナレット(930)がある。ムデーハル建築の代表的な例としては,カサ・デ・ラス・カンパナス(14世紀),カサ・デ・ロス・カバレロス・デ・サンチアゴ(14~15世紀)がある。また,城砦兼宮殿アルカサルは,14世紀の建造。スペインに残る二つのシナゴーグのうちの一つ(14世紀)が,かつてのユダヤ人居住区に残っている。博物館には,先史時代からイスラム時代に至る各時代の出土品を所蔵する考古学博物館のほか,美術史美術館がある。
執筆者:杉村 棟
アルゼンチン中北部,コルドバ州の州都。人口126万7521(2001)。パンパの農牧地帯の北西端に位置し,有数の農牧産品の集散地。第2次大戦後は自動車産業の中心地となり,工業都市へと変貌を遂げつつある。近傍の山間地帯には景勝地,保養地が多く,コスキンCosquínは民俗音楽祭の開催地として知られる。市は1573年スペイン人のカブレラJ.L.de Cabreraによって建設された。1613年イエズス会がコルドバ大学を創立してからは,南米南部の文教の中心地となり,パラグアイのガスパール・フランシアをはじめ多くの人材を世に送った。教会の多い町で,なかでも1680年着工,1758年完成の大聖堂は,豪華な内部装飾をもち,植民地時代の代表的建造物である。内陸部最大の都市として国政にも少なからぬ影響力を有し,1918年に同国を席捲した大学改革運動の発祥地はコルドバ大学であったし,55年9月独裁者ペロンを退陣へと追いやった反対運動も,この町から始まった。さらに69年5月市内で起こった労働者と学生による流血の反政府騒動(コルドバッソ)は,翌年の大統領更迭の一因となり,70年代前半の政治的動揺の引金ともなった。
執筆者:松下 洋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
スペイン南西部、アンダルシア地方コルドバ県の県都。グアダルキビル川中流右岸、標高106メートルに位置する。人口30万8072(2001)。平均気温は1月9.1℃、7月27.9℃、年降水量664.3ミリメートルと、気候は比較的温和で乾燥しているが夏は暑い。付近の平野は肥沃(ひよく)な農業地帯で、灌漑(かんがい)施設が整備され、穀物、ブドウ、オリーブなどの畑が広がり、町はこれら農産物の集散地となっている。伝統工業としてコルドバ革の製造、宝石や金銀銅細工などがある。また、近年はグアダルキビル川とその支流の水力を利用した発電や、付近の石炭、銅、鉛などの鉱産資源の開発により、郊外に近代工業も立地し始めている。
[田辺 裕・滝沢由美子]
ローマ軍によるイベリア征服の過程で、紀元前169年ごろに創設された。やがてイベリア南部におけるローマ文化の中核都市となった。住民は学芸愛好で知られ、そのなかから紀元後1世紀には哲学者セネカが世に出た。8世紀初頭、イベリアを征服したイスラム教徒はその首都をコルドバに定め、ついでダマスカスを追われたウマイヤ朝がここに亡命政権をたてた。10世紀、コルドバは東のバグダードとコンスタンティノープルに比肩する西方随一の都市に発展し、「西方の珠玉」とまで評された。だが、11世紀前半には内戦の場と化し、さらにその200年後にキリスト教徒の支配下に入ってからは西のセビーリャに繁栄を奪われていった。
[小林一宏]
イスラム中世の大都市としてのコルドバのおもかげを伝えるものに、8世紀から10世紀に建造された大モスクがある。785年アブドゥル・ラフマーン1世によって建造が開始され、833年および961年の拡張工事を経て、987年に完成された際にはイスラム世界でメッカのモスクとともに最大の規模を誇り、もっとも美しいイスラム教モスクとなった。総面積は2万3000平方メートルにも及び、植物文様と幾何学文様を組み合わせたイスラム美術独特の美しい装飾をもつ23個の扉口、内部の南側に並ぶ列柱など、ウマイヤ朝およびアッバース朝時代のイスラム美術の傑作である。しかしイスラムの支配時代が終わると同時に、1236年にはカトリック教会となり、1523年にはゴシック式の祭室をもつ大聖堂へと改築されてしまった。この大モスクのある歴史地区は1984年および1994年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[名取四郎]
アルゼンチン中部、コルドバ州の州都。大平原パンパの北西部、プリメロ川沿岸に位置する。都市圏人口127万1435(2001)、同国第二の大都市である。1573年ヘロニモ・ルイス・デ・カブレラによって建設され、周辺地区の穀物や畜産物の集散地として発達した。古くからの交通の要地で、1870年パラナ川沿岸のロサリオ港との間の鉄道が開通、1870年代には国内の主要都市と結ぶ鉄道網の中心地となった。第二次世界大戦後の工業化の過程で自動車工業が発達。ほかに皮革、繊維、食品加工、陶器製造、航空機、セメントなどの工業が盛んで、アルゼンチン有数の工業都市となっている。工業の発展にはプリメロ川の水力発電所の建設が重要な役割を果たした。またスペイン植民地時代の文化の中心地で、市の中心サン・マルティン広場前にある大寺院、総督府の建物は16世紀に建設されたものである。ほかに1613年に設立されたコルドバ大学や国立天文台もある。
[今井圭子]
メキシコ南東部、ベラクルス州西部の都市。東シエラ・マドレ山脈東麓(とうろく)の標高852メートルに位置する。人口13万3807(2000)。周辺はミカン、コーヒー、サトウキビの栽培が盛んで、とくにコーヒーの集散地として知られる。国道150号線が通じ、東152キロメートルにメキシコの玄関ベラクルス、西6キロメートルに花園の町フォルテン、その西17キロメートルに紡績の町オリサバがある。北西のオリサバ火山(5675メートル)は万年雪に覆われ、山麓はこの雪解け水に恵まれる。
[高木秀樹]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
スペイン南部の古都。カルタゴ人の創設といわれ,ローマ期から繁栄し,8世紀初めイスラーム勢力に占領され,ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)期にはその首都となり,宗教・文化の中心地となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報