翻訳|Singapore
基本情報
正式名称=シンガポール共和国Republic of Singapore
面積=712km2
人口(2010)=508万人
首都=シンガポール(日本との時差=-1時間)
主要言語=中国語,英語,マレー語,タミル語
通貨=シンガポール・ドルSingapore Dollar
マレー半島の南端,赤道の近くに位置する共和国。国土は合計54の島からなり,主島シンガポール島は東西42km,南北23kmの菱形をしている。このほか面積1km2以上の島は9島で,他の多くは無人島である。
熱帯雨林気候に属し,一年中高温多湿である。年平均気温約27℃で,暑い時でも日中30℃を超えることは少なく,やや雨が多くなる11~1月には涼しい朝が訪れる。年降水量は約2400mmで比較的安定した降雨がある。しかし都市用水の自給自足は困難なため,マレーシアに水源を求めている。主島の大部分は堆積岩質の低い丘陵と沖積地からなり,ところどころに火成岩質の残丘が突き出すだけの低平な地形である。最高点はブキ・ティマの175m。島の中央にわずかに残る原生林と海岸のマングローブのほかは,自然植生はほとんどない。1960年代以降,工業用地や宅地,都市・港湾施設造成によって丘陵は削られ,海岸は埋め立てられ,人工的な地形と植生が目だつようになった。今日,主島海岸線のほぼ70%は自然の姿を変えてしまった。
多人種国であるが,国民の77.4%は華人(中国系)で,残りはマレー系14.2%,インド系7.2%,その他1.2%と少ない(1995)。国民の大部分はシンガポールに生まれ,移民一世たちも出身国との関係が薄くなっているので,もはや華僑,印僑の名にふさわしい人はほとんどいない。今日,全住民の70%が公営住宅団地に住む。そこでは政府が同一人種,同一言語の集団形成を排除したため,かつての同郷者の地域的集中や,人種別の居住区は崩壊し,新しいシンガポール人の地域社会が出現しつつある。公用語は国語のマレー語のほか,標準華語(北京語),タミル語,英語の四つであるが,行政用語は英語と定められ,国語は名目上の存在と化している。1970年代末から強化された2言語政策は,全シンガポール人に共通語としての英語の修得を義務づけ,同時にアジア民族の特質を明示するため,各人種に対応する公用語をもそれぞれ使うよう要求している。87年に英語が学校教育用語に定められた。他方,タミル語の小学校は消滅し,マレー語の学校も生徒数がきわめて少なくなった。75年に華語教育から英語教育へ移行した南洋大学は80年に閉鎖され,大学は国立シンガポール大学1校のみになった。
宗教はキリスト教を除くと人種または言語集団に深く結びついている。華人と仏教や道教,マレー系とイスラム,インド系とヒンドゥー教がそれぞれ強い関係をもち,各寺院の集会では現在なお華語方言やインド各地の言語が使われ,異なった地方の祭事が行われることもある。多様な文化的特色は人々の服装や食習慣にもよく表れており,観光名所となった野外飲食店街(華語名では食物中心)へ行けば,中国,インド,ヨーロッパの伝統的な味,それらを混合して現地化した食事を楽しむことができる。しかしこの多様性は,シンガポール独自の文化的特色不在論につながり,中国人でもマレー人でもないシンガポール人とは何か,新しい民族の価値観はいかにあるべきか,の議論を生んでいる。
執筆者:太田 勇
シンガポールとはシンガプラ(サンスクリットで〈獅子の町〉の意)の転訛した呼称で,このシンガポール島には古くから貿易港があったらしいが,その歴史はイギリス東インド会社のラッフルズに始まるといってよい。1819年,ラッフルズは当時わずかの住民しか住んでいなかったこの島に到着し,島の支配者から植民地と商館建設の許可を得た。イギリスはラッフルズの活躍によりこの地域にペナン,マラッカ,シンガポールの3植民地を保有することになり,のちのイギリスのマラヤ支配の出発点となった。イギリスはシンガポールで商品作物を生産して,それを輸出するために獲得したのであるが,商品作物の生産は成功せず,自由港として発展することになった。シンガポールなど3植民地の地位は24年の英蘭協約によって確認され,32年には海峡植民地としてまとめられた。イギリスは海峡植民地を基地としてマレー半島の諸国に徐々に政治的支配を及ぼし,95年にはマレー連合州を組織した(正式発足は翌年)。海峡植民地は連合州とは別個に存続し,その知事は1909年以降高等弁務官として連合州をも含めたイギリス領マラヤ全体の統治の責任者となった。
シンガポールは自由港であったため,ヨーロッパ人,インド人,マレー人のほかに多数の華僑が来住し,また華僑の東南アジア移住への中継基地ともなった。明治以降は日本人移民も多数来住した。
第1次世界大戦に際してシンガポールは軍港として使用され,軍事面での重要性が認識された。第2次世界大戦ではシンガポール軍港は日本に対抗する拠点で,1941年7月に日本軍がフランス領インドシナ南部に進駐すると,陸海空軍が増強された。しかし同年12月10日にはシンガポールを出港したイギリス東洋艦隊の主力艦2隻が日本軍に撃沈され,ついに42年2月15日シンガポールは降伏した。この間華僑義勇軍部隊は最後まで勇敢に戦った。このため日本軍は占領直後,抗日分子粛清を名目として多数の華僑を虐殺したほか,憲兵隊を通じて弾圧,強制献金の賦課を行った。
シンガポールの住民の大部分は華僑で,彼らの間では戦前から共産主義運動,労働運動が盛んであった。戦後,海峡植民地は解体され,ペナン,マラッカはマラヤ連合に含められる一方,シンガポールは単一のイギリス植民地となった。そして住民の政治運動,政治結社の結成が認められ,共産党も合法化された。しかし共産党のゲリラ活動が半島部で盛んになったため,48年6月マラヤ全土,シンガポールに非常事態が宣言されるとともに,共産党が非合法化され,住民の政治運動,労働組合運動も制限された。その一方で植民地体制から独立への移行も着々と進められ,55年の総選挙後D.マーシャルが首席大臣となり(のちリム・ユウ・ホックと交代),イギリスとの間に独立交渉がもたれた。59年の総選挙でリー・クワン・ユーの率いる人民行動党が圧勝し,シンガポールは彼を首相とする自治国となった。そして63年8月31日,完全独立を宣言し,同年9月16日,マレーシア連邦の結成に一州として参加した。しかしマレー系と中国系との間の人種対立の激化,シンガポールの財政負担の強化など,マレーシア中央政府とシンガポール双方にとって不利な事態が生じたため,65年8月9日,シンガポールは連邦を脱退して独立国となった。
シンガポールは大統領を元首とする議会制民主主義国家である。大統領は1991年の憲法改正以降,直接選挙で選出されるが,名誉職に近い存在で,実権は首相が握っている。リー・クワン・ユー首相は1959年以来首相の地位にあったが,90年に辞職し,ゴー・チョクトンGoh Choktong(1941~ )が後継首相に選出された。しかしリーは上級相として閣内にとどまり,にらみをきかせている。またその息子リー・シェンロンLee Hsienloong(1952~ )は後継者の本命と目され,97年現在副首相の地位にある。
立法府は一院制の議会(任期5年)で,直接選挙で選ばれる議員83名と任命議員6名とから成っている。与党人民行動党(PAP)が建国以来議席のほとんどを占めてきたが,1991年の選挙では77議席にとどまり,二つの野党が4議席を占めて,〈敗北〉を喫した。92年リーがPAP書記長を辞任,ゴーがこれに代わり,ゴー体制が確立して現在に至っている。ゴーは初めリー・シェンロンが首相となるまでの中継ぎと見られていたが,集団指導体制をとって独自の政治スタイルを確立しつつある。97年に行われた総選挙ではPAPは得票率65%で81議席を獲得,野党は2議席にとどまった。
シンガポールは自由港として出発し,つねに東南アジアの国際貿易の中心地であった。シンガポールは文字通りの島国で,自給自足できるものは豚,鶏,あひる,卵くらいのものである。しかしその一方で均質で教育水準の高い労働力があり,原料輸入,製品輸出の高度工業国家となるのに適した条件をそなえている。自由港の伝統は外資の導入,合弁企業の運営に違和感がなく,中国,香港,台湾,それに東南アジアの華僑との間のいわゆる華人ネットワークの存在が有利に働いている。
政府は建国以来工業化政策を積極的に推進してきた。それは造船,船舶修理といった労働集約的産業から始まり,やがて原料を輸入する石油精製,石油化学工業がこれに続いた。そして電気・電子工業へと拡大していった。政府は投資環境の整備,工業団地の造成,港湾設備の拡充,チャンギ国際空港の開設などを行ったほか,政治運動,労働運動に対しては規制を加えた。その一方で大規模な住宅団地,ショッピングセンターの建設,都市再開発,地下鉄の建設などを行い,国民に対して物質的な満足を与えることに努力している。1990年代に入り,周辺諸国で工業化が進むと,労働集約的産業や石油精製業は競争力を失い,それに代わって情報産業,金融センターとしての機能が充実してきた。このほか観光,小売業,病院などサービス産業の充実も見逃せない。
こうした急激な経済発展は人材不足を招き,閣僚が民間企業に移るなど,さまざまな問題が起こった。政府は中国語で教育を行っていた南洋大学をシンガポール大学に吸収させ,英語による教育を充実させるとともに,いくつかの高等工業専門学校を設立して,企業ミドルの人材の養成を行っている。
執筆者:生田 滋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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マレー半島の南に位置するシンガポール島を領土とする東南アジアの国家。1819年イギリス人ラッフルズが,ジョホール・リアウ王国の王位継承紛争に介入して獲得した。その後,イギリスが自由港として開港し,急速に東南アジア交易の中心地へと発展した。1824年のイギリス‐オランダ協定でイギリス領として国際的に認知され,1826~1946年には海峡植民地の一つを形成した。昭南島と改称されていた第二次世界大戦中の日本占領期(42年2月~45年8月)には,日本軍による華人の虐殺事件も発生した。戦後の59年イギリスの自治州となり,63年マレーシアの一つの州として独立したが,65年8月にマレーシアから分離独立して共和国となった。国民のほとんどが19世紀以降の移民の子孫で,70%以上を占める華人のほか,マレー系,インド系などからなる多民族国家で,公用語も国語のマレー語,中国語,タミル語,英語の四つである。人民行動党が54年の結党以来一貫して政権を維持し続けている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
マレー半島南端に位置し,シンガポール島などの島々からなる国家。または同名の港市。19世紀初頭以来,イギリスの東洋支配の拠点となる。第2次大戦中は日本軍が占領,昭南と改称して軍政下にあった。1942年には反日分子として華僑5000人以上が殺害される事件がおきた。63年8月イギリスから完全独立,翌月マレーシア連邦の一員となるが,65年8月分離独立した。全人口のうち中国系約74%,マレー系約13%,インド系約9%という多民族・多言語状況で,公用語は英語・中国語・マレー語・タミル語だが,英語が中心に使われている。東南アジアの交通・戦略的要地を占め,経済的発展もめざましい。正式国名はシンガポール共和国。首都シンガポール市。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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