ジョージア(読み)じょーじあ

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ジョージア(旧グルジア)
じょーじあ
Georgia英語
Sakartveloジョージア語
Грузия Gruziya ロシア語

西南アジア、黒海に面する共和制国家。かつてはソビエト連邦(ソ連)の構成共和国であったが、1991年4月9日ソ連からの独立を宣言した。面積6万9700平方キロメートル、人口439万8000(2006年推計)、430万(2014年国連人口基金)。首都トビリシ。国内にアブハジアアジャーリアの2自治共和国と南オセチア自治州(1991年12月のソ連崩壊後、ジョージア政府は自治権を認めていない)がある。国内に50余の都市があり、山岳国のため都市人口の比率が6割近くを占める。
 昔はカルトリア人、カヘチア人などいくつかの人種学上の集団に分かれていたが、今日その差異はほとんどなくなっている。ジョージア人のほかにオセット人(オセチア人)、アブハズ人、アルメニア人、ロシア人、クルド人などが住む。[木村英亮]
 日本政府は国名の呼称を「グルジア」としていたが、2015年(平成27)4月から「ジョージア」に変更した。[編集部]

自然

国土は、大カフカス山脈の分水嶺(ぶんすいれい)から南麓(なんろく)の広い高原、黒海の東岸からカスピ海西岸に続く構造低地、その南の小カフカス山脈の火山性の山地を含み、きわめて複雑である。最高点は大カフカス山脈分水嶺のシハラ山(5068メートル)で、ほかに名峰カズベク山(5033メートル)も5000メートルを超す高峰である。低地は、黒海に流入するリオニ川流域のコルヒダ低地、カスピ海に向かって東流するクラ川上流の丘陵(首都トビリシがある)、面積は小さいが保養地が並ぶ黒海北東岸の沿岸平野などである。気候はきわめて多様で、低地は暖帯が広い面積を占め、低地部の平均気温は1月が零下2~3℃、8月が23~26℃であるが、年降水量は黒海沿岸低地で2800ミリメートル(山腹で4000ミリメートルに達する)なのに対し、カスピ海に近い低地ではわずか300ミリメートル(山地でも800ミリメートル)に激減する。丘陵地帯に位置するトビリシの年平均気温は13.0℃、1月は1.6℃、7月は24.4℃で、年降水量は495.8ミリメートルである。国土のなかば近くを森林が占め、低山帯のシデ、カシワ、ブナなどから、高地のマツ、モミ、亜高山帯の草原、氷河のある高山の裸地まで、植生も多様である。自然保護区は15地区が設けられている。[渡辺一夫・木村英亮]

歴史

ジョージアは古くは奴隷制国家で、紀元前6世紀のコルヒダ、前4~後3世紀のイベリアは奴隷制の国であった。4世紀後半東ジョージアのカルトリで、6世紀西ジョージアのラジカでキリスト教が国教となった。6世紀初めから10世紀にかけて、この地域はササン朝ペルシア、ビザンティン、アラブに征服された。この時期にジョージア民族体の基礎がつくられた。8世紀末から9世紀初めにかけてカヘチ、タオ・クラルジェチ、アブハジアなどの公国が生まれ、11~12世紀にはダビデ4世、タマラ女帝が現れ、封建制ジョージアは最盛期を迎えた。13~14世紀、モンゴル、ティームールに支配されたが、15~17世紀にはカルトリ、カヘチ、イメレチア、サムツヘ・サアタバゴ、メグレリア、グリア、アブハジアなどの王国・公国が盛衰した。16~18世紀はイランとトルコとの争奪地であったが、1801年東ジョージアが、1803~1810年西ジョージアがロシアに併合された。
 1864年農奴解放が行われ、工業も発展し始めた。1890年代には社会民主党が組織され、急速に勢力を広げた。その指導者のなかには、ロシア革命期に活躍するニコライ・チヘイゼNikolay Chkheidze(1864―1926)、ノイ・ジョルダニアNoi N.Zhordaniya(1870―1953)らが含まれており、スターリンも1898年この組織に加わった。1917年帝政崩壊後メンシェビキが支持を集め、十月革命後アゼルバイジャンのムサバチスト、アルメニアのダシナキとともにザカフカス委員部を組織して指導権を握り、ソビエト・ロシアとトルコに対抗しようとし、1918年4月にはザカフカス共和国を発足させたが、内部対立のため1か月で解体した。ジョージアではこの後2年半にわたってノイ・ジョルダニアのメンシェビキ政権が支配することになる。この政府は、1920年、クリミアを占領していた白軍ウラーンゲリ軍と穀物取引交渉を進めたり、南オセチア政府を弾圧したりしてソビエト・ロシアとの対立を深めたが、ザカフカジェからのイギリス軍など干渉軍の撤退、アゼルバイジャン、アルメニアにおけるソビエト政権の成立によって孤立し、1921年二月蜂起(ほうき)に呼応した赤軍の進入によってソビエト政権が勝利した。成立したジョージア共和国は1922年ザカフカス共和国の一部となってソビエト連邦に加わることになるが、このときジョージア共産党にスターリンらの強引なやり方に反対する動きがあったことはよく知られている。1936年、直接ソ連を構成するジョージア・ソビエト社会主義共和国となる。
 1989年3月にアブハジア自治共和国でジョージアからの分離を求める集会が開かれたのに触発され、トビリシのジョージア人の間でも民族主義的な動きが起こった。これ以降ソ連からの分離独立を求める集会などがもたれたが、1989年4月9日ソ連の正規軍と内務省治安軍が出動して弾圧し、多数の死傷者が出た。1990年秋に行われた初めての複数政党選挙でズビアド・ガムサフルディアZviad Gamsakhurdia(1939―1993)の自由ジョージア円卓会議が圧勝した。1991年3月の国民投票で独立が支持され、4月9日に独立を宣言、国名をジョージア共和国とした。5月26日に行われた大統領の選挙ではガムサフルディアが86.5%を得た。ジョージアにソビエト政権が成立したのは1921年2月であるが、ガムサフルディアは、その直後の5月にレーニンに中央集権化政策批判の公開状を発表した作家コンスタンチネ・ガムサフルディアKonstantine Gamsakhurdia(1893―1975)の息子である。
 しかし野党は、共和国防衛隊司令官を中心に、ちょうどソ連解体のころの1991年12月22日に政府庁舎を攻撃し、1992年1月2日軍事評議会樹立を発表、ガムサフルディアは同月6日に国外に脱出した。同年3月10日に元ソ連外相のシェワルナゼが軍事評議会を改称した国家評議会の議長に就任し、10月11日に最高会議議長に選出された。その後、1995年8月新憲法が採択され、そこで復活した大統領選挙が11月5日に行われシェワルナゼが選出された。新憲法の制定とともに正式国名から「共和国」をとった。シェワルナゼは、2000年4月の大統領選挙で再選を果たしている。しかし、2003年11月議会選挙の結果から政局が混乱、シェワルナゼは大統領を辞任した。2004年1月大統領選挙が行われ、野党の統一候補ミハイル・サアカシビリMikhail Saakashvili(1967― )が当選、就任し、2008年再選された。2013年10月の大統領選では与党連合の候補ギオルギ・マルグベラシビリGiorgi Margvelashvili(1969― )が当選し、同年11月に就任した。
 大統領は国民の直接選挙で選ばれ任期は5年。議会は一院制で議員定数は150、直接選挙で選ばれ任期は4年である。
 ジョージアは国内の混乱から、独立国家共同体(CIS)への加盟が遅れたが、1993年10月22日にようやく加盟し、ロシアとの関係を外交の基本とするという方針に沿って1994年2月ロシアと友好善隣協力条約に、1995年10月ロシア軍基地条約に署名した。1994年3月には北大西洋条約機構(NATO)と「平和のためのパートナーシップ」(PfP)協定枠組み文書に調印した。サアカシビリ大統領就任以降、アブハジア、南オセチア問題に介入するロシアとの関係が悪化、2009年にCISを脱退した。
 総兵力数(2014)は2万0650(陸軍1万7750、空軍1300、国家警備隊1600)。[木村英亮]

民族問題――アブハジア紛争と南オセチア紛争

北西部のアブハジア自治共和国はジョージア人45.7%、イスラムのアブハズ人17.8%であった。1989年7月アブハジアのスフーミで両民族の衝突事件発生後紛争が続き、アブハジアは1992年7月に主権を宣言した。ジョージア政府はただちにその無効を表明して8月にスフーミに軍を送ったが、アブハジア側はこれに抵抗し、その多くが難民となった。1994年ジョージアはロシアと友好善隣協力条約を結び、アブハジアの法的地位を認め、ロシアは3000人の平和維持軍を派遣した(アブハジア紛争)。
 オセット人はイラン系で、ジョージア内の南オセチアと、隣接するロシア内の北オセチア共和国に多い。この南オセチアではジョージアから分離し、ロシアへ帰属することを要求する運動が高まり、1990年12月に州都ツヒンバリ周辺で武力衝突が起こった。1992年1月19日に行われた南オセチア自治州の州民投票でロシアへの帰属替えが圧倒的な支持を得た。その後ロシアの北オセチア共和国への住民の避難など混乱が始まったが、同年6月にシェワルナゼとロシア大統領エリツィンとの間で紛争解決への合意が成立し、7月にロシア、ジョージア、南オセチアの平和維持部隊が展開した(南オセチア紛争)。
 2008年8月、南オセチアにジョージア軍が進攻し南オセチア軍と戦闘に入った。そこにロシアが軍事介入し、南オセチア以外のジョージア領にも戦闘が拡大した。その後停戦合意がなされたが、ロシアはアブハジア、南オセチアを共和国として独立を承認。ジョージアは反発して独立国家共同体(CIS)の脱退を通告、2009年8月には正式にCISから脱退した。[木村英亮]

産業・経済

農業部門が優勢で、工業も農産物加工部門が多いが、いくつかの大都市では重工業も発達してきた。電力生産では、山がちな国土を反映して水力発電が多いが、火力発電はクタイシ北東方のツキブリなどに産する石炭のほか、パイプラインによって移入した石油や天然ガスにも依存する。チアツラに産するマンガンはソ連の全生産量の約20%を占めていた。重工業は、ルスタビの製鋼、トビリシの電気機関車、工作機、食品加工機械、農業用機械、電気機器、クタイシの貨物自動車、ポンプ、バトゥーミの石油化学製品、食品加工機械などが知られる。軽工業は地方都市にも分散し、絹・毛・綿加工、たばこ、紅茶、ワイン、ブランデー、ミネラルウォーター(とくにボルジョミ)などがあり、食品加工部門が盛んである。
 農業部門では、黒海沿岸部に産する柑橘(かんきつ)類、茶、桐(きり)の実(桐油(とうゆ)を採取)などが知られ、コルヒダ低地に続く中央部の丘陵では、ブドウ、果実類、野菜類、トウモロコシ、ヒマワリ、小麦などを多く産する。畜産部門は農業総生産の約30%を占め、乳・肉生産地帯となっている。雌ウシ、ヒツジ、ヤギが広く飼育されているほか、養蚕もみられる。
 交通網は発達している。地下資源としてマンガン、石炭などがあり、水力資源も豊かである。アゼルバイジャンのバクーの石油も一部、ジョージアを通るパイプラインで黒海沿岸に輸送されることになったが、政治が不安定であったため、工業生産は1994年には1990年の5分の1に落ちるという危機的状況となった。そのため1994年9月以降緊縮財政と金融政策によってインフレを抑え、国際通貨基金(IMF)やロシアの援助を得て再建をはかった。その結果、1995年の経済成長率はプラスに転じ、1998年も2.8%を記録した。1992年のインフレ率(物価上昇率)が1500%という超インフレも1998年には11.0%と収束してきた。1995年9月25日ロシアのルーブルにかえ、独自通貨ラリを発行した。
 その後、アゼルバイジャンの石油・天然ガス輸送パイプライン建設による景気浮揚、サービス部門等の成長、海外からの投資増大などを受けて経済成長が続いたが、南オセチアをめぐるロシアとの武力衝突の影響や世界的な金融危機による景気後退に大きな影響を受け経済は停滞している。
 2013年の国内総生産(GDP)は161.4億ドル、1人当りGDPは3600ドル(推定)となっている。貿易額は輸出29.09億ドル、輸入78.74億ドル(2013)と大幅な輸入超過である。おもな輸出品目はくず鉄、金属、輸送用機器、食料品(ワイン、果物・ナッツ類などの農産物、ミネラルウォーターなど)、おもな輸入品目は石油・天然ガスなどの燃料、石油製品、輸送用機器、医薬品などである。[渡辺一夫・木村英亮]

教育・文化

ジョージアの初等・中等教育(小・中・高等学校)は12年制あるいは11年制で行われ、義務教育は11年生修了時までとなっている。高等教育の大学は4年または5年制でトビリシ国立大学、トビリシ医科大学などがある。公用語はジョージア語で、ロシア語も広く使われている。地域によってはアルメニア語、アゼルバイジャン語も通用し、学校の授業でも使われている。
 新聞にはレゾナンシ、24Hours、ジョージア・トゥデイ、ジョージア・タイムズなど、通信社にはイプリンダ通信などがある。放送にはジョージア公共放送(GPB:Georgian Public Broadcasting)のテレビ、ラジオ、民放テレビのルスタビ2などがある。[木村英亮]
『小松久男・梅村坦他編『中央ユーラシアを知る事典』(2005・平凡社) ▽前田弘毅著、ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会企画・編集『グルジア現代史』(2009・東洋書店) ▽前田弘毅編著『多様性と可能性のコーカサス――民族紛争を超えて』(2009・北海道大学出版会) ▽大野正美著、ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会企画・編集『グルジア戦争とは何だったのか』(2009・東洋書店)』

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