ドル(その他表記)dollar

翻訳|dollar

改訂新版 世界大百科事典 「ドル」の意味・わかりやすい解説

ドル
dollar

通常,単にドルという場合はアメリカ合衆国の通貨,すなわち米ドルAmerican dollar(またはUS dollar)を指す。ドルはアメリカに所在する政府機関または金融機関が発行する短期債務のうち,通貨として通用するものをいう。これら短期債務とは,連邦準備銀行券(日本銀行券に相当),財務省証券,アメリカ国内の民間銀行における預金等のことである。ドルはアメリカ国内における国内通貨であり,また同時に世界において現在最も重要な国際通貨である。このほか国際通貨として重要な役割を果たしているものにユーロカレンシーとくにユーロダラーがあるが,ユーロダラーはアメリカの外に所在する銀行に預けられたドル(ドル預金)のことである。ユーロダラーはそれを発行する銀行がアメリカの外に所在しているという点で米ドルと異なる。また米ドルはニューヨーク市場を中心とするアメリカの金融機関が発行するものであるため,アメリカの財務省および連邦準備銀行の規制と監督のもとにあるのに対して,ユーロダラー市場は国外にあるため,これらの規制がないのが特徴である。さらにオイル・ダラーとかアラブ・ダラーがあるが,これらはそれぞれ石油産油国(OPEC諸国)やその中のアラブ諸国が石油の輸出代金をドルで受け取って保有しているものを指す。これの一部は米ドルで一部はユーロダラーでもたれるのが通例である。

 このほかカナダ・ドル,オーストラリア・ドル,香港ドルといったものもあるが,これらはいずれもカナダ,オーストラリア,香港の国内通貨の他国からの呼称であり,ドルの名を用いているが,いわゆるドルには含まれない。またパナマとリベリアのように,独立国であるが米ドルを自国の通貨としてそのまま用いている国もある。

ドルの特徴は同一通貨が同時に二つの通貨の役割を果たしていることである。すなわち一方では国内通貨として用いられ,他方では同時に国際通貨として広く通用している。

国内通貨としてのドルの役割はアメリカ国民が自国通貨としてこれを利用するというもので,日本国内で円が通貨として用いられる場合とまったく同じである。すなわちいわゆる通貨(貨幣)の三つの機能(価値尺度,支払手段,価値の蓄蔵)を果たす。この場合実際に用いられるドルは,円が日本国内でそうであるように,中央銀行券(連邦準備銀行券),種々の硬貨,銀行預金(当座預金,普通預金,定期預金)である。

市場経済体制あるいは資本主義体制をとる一つの経済内部において,その円滑な経済の発展にとって通貨は重要であるが,それと同様に国際経済社会においても,貿易や国際資本移動が円滑に行われるためには国際通貨が不可欠である。1995年末現在,国際通貨として世界的に用いられているものには米ドル,ユーロ,金,SDRIMF特別引出権),円,イギリス・ポンド等があるが,ドルはこのなかで5割を占め,支配的地位を占める通貨である。ドルの国際通貨としての具体的役割は価値尺度のほか,決済通貨,介入通貨,準備通貨等である。決済通貨とは商品,サービス,および資本の国際取引において支払手段として現実に売買を媒介する通貨である。介入通貨とは,各国の中央銀行が自国通貨の為替相場を安定化,あるいは固定化(釘付け)するため,為替市場に自国通貨と引換えに一定価格で売ったり,買ったりするときに用いる通貨である。準備通貨は主として各国の中央銀行や大蔵省が対外支払のための外貨準備として保有する通貨である。このほか現在のような変動相場制のもとでは,ドルまたはドル資産(ドル建ての金融資産)は国際取引に従事する民間部門(企業,個人)に広く保有され,使用されている。このように国際取引を媒介する支配的通貨を基軸通貨と呼び,その通貨を発行する国を基軸通貨国という。それ以外の国は非基軸通貨国である。

 現在の国際通貨体制は固定相場制ではなく〈変動相場制〉(フロートともいう)であるから,ドルの為替相場(たとえば1ドル=x円というときのx)は外国為替市場でドルの需要と供給が一致するように決定されるが,ドルの需要と供給は絶えず変動するので為替相場も変動する。この変動をならすため,とくに為替相場の乱高下が激しいとき,各国中央銀行はある限度内で,主としてドルで買い介入や売り介入を行う。ただし市場の実勢を反映して相場が大きく趨勢(すうせい)的に変動するときは介入を控えることが,IMFのガイドラインで決められている。このように為替相場の安定のため,ある程度の通貨介入を行う体制を管理フロートという。円の対ドル相場は,ドルを保有していて円を買いたがっている人のドルの供給と,円をもっていてドルを買いたがっている人々のドルの需要とが一致するように決まる。この場合これらのドルの需要(円の供給)と供給(円の需要)とを左右するのは,その(預金)通貨でもったとき得られる預金金利と,為替相場がその通貨の保有期間に,どれだけ値上がり(値下がり)するかについての人々の予想である。金利が高い通貨でも相場の下落が予想されれば需要は低いかもしれない。すなわちドル預金の金利からドル相場の低下率を差し引いたものと円預金の金利とを比較して,どちらの通貨を保有するかを人々は選択する。このほか輸出入や長期的海外投資の変動から生じる為替の需給の変動も,為替相場の日々の変動の原因となる。

 アメリカの財政・金融政策がドルの総供給を決定し,この総供給が各国通貨に対するドルの供給を決定するため,各国通貨の対ドル相場はアメリカの財政・金融政策の変動とともに変動し,ふりまわされる傾向が生じる。たとえば1970年代のように,アメリカが失業を減らすために貨幣供給を拡大すれば,ドルの総供給が増大してドルの相場は下落する。アメリカのインフレの悪化とドル相場の下落は人々のドル需要をいっそう減少させるから,ドル相場の下落は大幅なものとなる。逆に80年代前半のように,アメリカが一方ではインフレ抑制のため貨幣供給を引き締め,他方では軍拡や減税によって財政赤字を拡大すると,アメリカの金利が上昇し,同時に生じるドル不足のためにドル相場も上昇する。いわゆるアメリカの高金利・ドル高(日本にとっては円安)問題がそれである。

以下,国内通貨としてのドルと国際通貨としてのドルとに区別して説明する。

1775年にアメリカにおいて,独立戦争の戦費調達のためスペインで鋳造されたドル貨が用いられたのが,歴史上ドルが現れた最初であるが,アメリカ合衆国の成立後,92年に金銀複本位制のもとで正式のアメリカ通貨となった。このとき1ドル=24.75グレーンの金または371.25グレーンの銀(1グレーンは0.064g)であった。1834年に1ドル=23.20グレーンに,さらに37年に1ドル=23.22グレーンに改訂された。61年の南北戦争勃発とともに正貨(金貨,銀貨)による支払が停止され,正貨の兌換(だかん)が行われない不換紙幣である〈グリーンバックス〉が発行された。戦争終結とともに金本位制への復帰が計画され,73年に銀貨の自由鋳造は廃止され,複本位制は消滅した。79年に金貨(正貨)と銀行券(紙幣)との兌換が開始された。

 20世紀に入って金本位制の全盛期を迎え,これは第1次大戦勃発期まで続く。1913年には連邦準備法が制定され,現在の連邦準備制度の初期の体制ができあがった。第1次大戦中の17年から19年までは金本位制が一時停止された。19年には第1次大戦間に過去の対外債務を返済したばかりでなく,逆にヨーロッパ諸国へ融資していたため,金解禁(金本位制への復帰)とともに大量の金がヨーロッパ諸国から流入した。金の流入は国内通貨を膨張させ,インフレを悪化させるので,いわゆる金不胎化政策をとった。すなわち財務省と連邦準備制度は金を民間から買い入れる際,通貨の代りに金証券を発行し,金の流入による連邦準備銀行券の増発を防いだ。29年にはニューヨーク株式市場の株価暴落に端を発する金融大恐慌(大恐慌)が発生し,33年には金輸出が禁止された。34年にはドルの金平価が40.94%切り下げられ,1ドル=13.71グレーンの金(あるいは金1トロイオンス=35ドル)となった。この金のドル価格は71年のニクソン・ショックまで存続した。そのときに紙幣の金との兌換および金の自由移動が停止された。これによって金本位制は廃止され,対外的には変動相場制へ移行した。

第1次大戦以前の世界では国際通貨は金と銀が主流であり,また19世紀後半から第1次大戦期にはイギリスの通貨ポンドが国際的金本位制のもとで金とならんで国際通貨として支配的であった。ドルはこの間アメリカの国内通貨,あるいはせいぜいアメリカと密接な関係をもつ一部の外国で通用する通貨にすぎなかった。しかし第1次大戦を境にドルは国際通貨としてその地位をしだいに高め,第2次大戦後はポンドが国際通貨として衰退するに伴い,金とならんで国際通貨の大宗を占めた。

 現在では金は価値尺度や支払手段として用いられることは少なく,主として準備通貨あるいは価値の蓄蔵形態として利用されるにすぎないため,ドルは先の国際通貨としての諸機能をほぼ完全に果たす,唯一の支配的国際通貨である。戦間期のドルの地位の向上の歴史は,戦争でヨーロッパの列強が疲弊したのを機に,第1次大戦後アメリカが世界貿易の強国となり,また資本輸出を行う大債権国となったこと,ニューヨークの金融・資本市場がアメリカの貿易や資本輸出をてこにして国際金融のセンターとして発展し,それまで国際金融の世界的センターであったロンドンを圧倒しつつあったこと等を反映している。しかし国際通貨としてのドルの地位が確立し,完全なものとなったのは,第2次大戦後である。

 第2次大戦後のブレトン・ウッズ体制のもとでの国際通貨体制はIMF体制(IMF)ともいわれ,固定相場制を維持する金・為替本位制(金・ドル本位制)であった。すなわち各国通貨はドルへ固定相場で釘付けし,ドルは金へ固定価格(金1トロイオンス=35ドル)で結びついていた。ドルは主としてアメリカの銀行の短期債務(預金または財務省証券)であるが,各国がドルを金に交換したいと望むときはいつでもアメリカは上記の価格で金をドルと引換えに渡すことになっていた。これをドルの金兌換という。これは戦前の国際的金本位の形態を継承するものであったが,このことによってブレトン・ウッズ体制の国際的信認を高めるのに役立った。また金兌換は同時にアメリカがドルを乱発するとき,各国はドルの金への兌換を要求し,このことによってアメリカの金保有が払底するため,ドルの乱発を中止せざるをえないことをねらいとしていた。各国はまた自国通貨の平価(公式の為替相場)をドルまたは金で表示し,この平価の上下1%以上現実の為替相場が乖離(かいり)するときは為替市場でドルを売ったり買ったりして自国通貨の為替相場の変動幅を2%以内に抑える義務をIMF体制のもとでは負わされていた。

 しかしIMF体制が1945年に法的に発足しても,初めは国際通貨体制は円滑に機能せず,したがって貿易の拡大も順調でなかった。各国は戦争の破壊から立ち直っておらず,国際収支は赤字であり,したがって外貨準備(主としてドル)が決定的に不足していた。このため,多くの国が為替管理や貿易制限を続けざるをえなかった。各国通貨間の交換性も戦争中に停止したままであった。アメリカはこのときマーシャル・プラン等の経済援助を先進諸国へ行い,それらの国々が必要としていたドル(外貨準備)を相当量供給した。またアメリカの(ドルを国内通貨とする)巨大な市場を自由主義諸国に開放した。ヨーロッパ諸国,および日本を中心とする諸外国はアメリカからのドルの供給によって,経済復興に必要な資材をアメリカ等から輸入することができ,しだいに世界貿易は拡大し,IMF体制も円滑に機能するようになった。

 しかしこの回復過程は決して急速なものではなかった。固定相場制のもとでは各国(アメリカを除く)の企業や個人はドルを直接もつことは禁じられ,輸出等でドルを入手したときは各国中央銀行へ必ず売却し,代りに国内通貨を受け取るという外貨集中制がとられていた。輸入等でドルが必要なときは逆に中央銀行から外国為替銀行(都市銀行)を仲介者としてドルを買うのである。各国の経済の復興と発展には輸入の拡大が必要であったが,外貨準備を増加させるには逆に輸入を抑えて輸出を伸ばし,貿易収支の黒字(より厳密にはこれに資本の輸出入によるドルの流出入を加えた国際収支の黒字)を出さなければならなかった。このように経済の拡大に必要な外貨が不足する〈ドル不足〉の時代が1950年代末まで十数年間続いた。

 1950年代末には各国の国際収支状況の改善が一定の水準に達して,1958年にはヨーロッパ工業国通貨間の交換性(お互いに通貨を自由に売買できること)を回復した。また,61年にイギリス,フランス,西ドイツ,イタリアが,64年に日本が,IMF8条国に移行することによって(発展途上国は例外として),工業諸国は資本取引を除く国際取引における為替管理を撤廃したので国際貿易と国際金融は世界経済とともにいっそう円滑に発展した。ドルを基軸通貨とするIMF体制のもとでは,各国が国際収支の黒字を出すことによってドルを蓄積すれば,それは(ドルはアメリカの対外債務にほかならないから)必然的にアメリカにとって国際収支の赤字をもたらす。すなわちアメリカを除く国々の国際収支の黒字の総和は,アメリカの赤字に等しくなる。逆にアメリカは国際通貨の発行国であるため,単にアメリカの借用証(預金)にすぎないドルをいわば無限に発行して,外国の商品や金融資産を購入し,そうして出た自国の赤字を埋めることが可能であった。このような通貨発行国の特権をセニョリッジseigniorage(通貨発行権とそれに伴う利益)と呼ぶ。

 ヨーロッパ諸国と日本が戦争の破壊から復興し,対外競争力でもアメリカに追いつくようになると,アメリカの国際収支の赤字が問題となり,ドルの相対的過剰が〈流動性のジレンマ〉という形で発生しはじめた。すなわち上記の復興によって各国の保有する外貨準備がアメリカの保有する金(1オンス=35ドルでドルに換算したもの)を上回るようになった。こうしてアメリカがドルの金兌換の公約を果たせないことがはっきりしたため,ドルの金兌換性に対する信認に動揺が生じ(ドル不安),金価格の上昇を見越したドルへの売り投機(金の投機買い)が急増した。このことはIMF体制の根底をおびやかした。すなわち国際貿易や国際金融の拡大のためにはドルの供給が増大せねばならず,ドル供給が増大すれば,アメリカの保有する金とのアンバランスが必然的に生じ,ドルへの信認が動揺するという金・ドル本位制のジレンマである。アメリカは国際収支の赤字問題に対処するため,第1の〈ドル防衛〉策を1960年に打ち出し,63年にこれをさらに強化した。この政策の中心は資本輸出の抑制で,そのなかで有名なものは自主規制と,アメリカ人が資本輸出から得る利子収入に課税する利子平衡税である。同時に63年にアメリカは主要工業国の中央銀行に要請して,ドルの金兌換を請求しないという合意に達した。また金プールをこれらの国々と創設して金の市場価格の安定を図った。しかし1960年代後半以後ベトナム戦争の出費と社会福祉支出等が増大したためインフレが進行し,アメリカの対外競争力はさらに低下した。国際収支(および貿易)の赤字も拡大しつづけた。この間アメリカは西ドイツや日本等の黒字国に,対ドル為替相場を切り上げるよう要求したが,諸外国はこれに応ぜず,ついにアメリカに金融・財政政策の引締めによる国内インフレの抑制を求めた。

 71年8月に,アメリカのニクソン大統領はドルの金兌換の永久的廃止を宣言した(ニクソン・ショック)。同時に各国の対米為替相場の切上げを要求して,輸入品に特別税をかけた。このため外国為替市場ではドル売りの投機が大規模に起こり,いっそうの円高をドルの買い介入で阻止しようとした日本へは大量のドルが流入した。71年12月にはスミソニアン合意が成立し,ドルの約8%の切下げ,円の約17%の切上げ等が決定された。しかしアメリカの赤字はあまり縮小しなかったので,73年には再びドルの切下げを見越した売り投機が発生し,円,マルクをはじめ主要通貨がスミソニアン合意に反してフロートしはじめた。ドルはこのとき再び大幅に減価した。このときのフロートは当初各国通貨の新しい現実的為替相場を見きわめ,その水準で固定するまでの暫定的措置と考えられたが,73年末の第1次石油危機の勃発によって,多くの先進国や非産油途上国の国際収支(貿易収支)が赤字になり,固定相場制への復帰は見通しが立たなくなった。以後なし崩し的に主要国通貨の全面的フロート(変動相場制)へ移行して現在に至っている。ただし発展途上国の多くは主要工業国の通貨のどれかに相場を固定させている場合が多く,とくにドルの場合は,アメリカとの経済的結びつきの強い中南米諸国の大部分と東南アジアの数国がドルへ為替相場を釘付けしている。

 このようなフロートは固定相場制を前提とする当時のIMFの規約と矛盾していたので,75年ジャマイカにおけるIMF総会においてIMFの規約を改正して,現行の全面的フロートを事後承認した。第1次石油危機後のドルの相場の動きを円の対ドル相場でみると,第1次石油危機後は中東の石油への依存度が高く大幅貿易赤字を出した日本の円は売られて円安となり,石油の自給率の高いドルは一時高騰した。77-79年はカーター政権がアメリカ国内の失業を減らすため拡大的財政・金融政策をとった結果,アメリカのインフレが大幅に悪化し,ドルは円も含む大部分の主要通貨に対して大きく値下がりした。とくに対米黒字の大きかった日本の円相場の上昇(円高・ドル安)は顕著であった。アメリカが悪化したインフレの抑制に本腰を入れはじめた79年末にドルの下落は停止し,また同年の第2次石油危機の発生は円安・ドル高を一時ひき起こした。この後再び日本の貿易黒字の増大によって円は一時高くなるが,カーター政権を引き継いだレーガン政権がインフレ抑制政策を強化するため,貨幣供給を引締め,他方軍拡と減税によって財政赤字を拡大したため,アメリカ金利が高水準になり,ドルの相場は円を含む主要通貨に対して騰貴し,今日に至っている。

 このようにフロートのもとにおけるドルの相場は,当初の予想に反して安定的ではなく,アメリカの経済政策の大きな変動と,諸外国の景気政策との時間的ずれとを反映して,変動幅の大きい,激しいものであった。同じことがドルの対金相場,ドルの対マルク相場,対スイス・フランス相場についてもいえる。しかし,ドルの各国通貨に対する相場の加重平均値である実効レートの変動は,はるかに小さなものであった。これはポンドやフランのような弱い通貨が円やマルクとは逆にドルに対して減価したが,このような通貨の相場の変動も平均値の計算には含まれるからである。なおこのような国際通貨としてのドルの相場の変動や先に述べた〈流動性のジレンマ〉は,一つの国民通貨にすぎないドルを国際通貨として広く利用することから生じる矛盾であった。そのため国際通貨制度の改革が1960年代から討議され,各国の合意(1969)によってSDRというIMFの発行する人工国際準備通貨が創出され,70年にはSDRの第1回の各国への配分が行われた。SDRの目的は国際通貨供給の不足を補い,国際通貨の供給のドルへの依存を減らすことであったが,アメリカの赤字の拡大とドルの供給過剰は70年代を通じて解消しなかったため,SDRの発行はきわめて限定されたものとなった。また1SDRは当初1/35オンスの金,すなわち1アメリカドルに等しい価値と定められたが,フロートへの移行とともにドルの価値の変動の影響を弱めるため,ドルを含む16の主要通貨の価値を加重平均した価値に等しいこととなった(1974年,1980年より5ヵ国通貨となる)。またアメリカの国際経済における相対的地位の低下とドルの二国間相場の激しい変動と過去数回にわたる大幅下落は,ドル保有の為替リスクを高め,ドルへの信認を低めた。この結果マルクや円の国際通貨としての地位が向上し,ドルの地位は徐々に低下しつつあるが,現在なおドルはその支配的地位(諸国の外貨準備の6,7割)を保っている。すなわち現在は1971年まで存続した金=ドル本位制からドル本位制ともいうべきもの(1972-73)を経て複数基軸通貨制への移行期であると考えられている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドル」の意味・わかりやすい解説

ドル
どる
dollar

通貨の呼称単位で、2008年末現在アメリカ合衆国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドシンガポールなど合計29か国が自国通貨にこの呼称を使っているが、単にドルといえば、通常アメリカ合衆国ドルすなわち米ドルをさす。

 ドルという名称は、ドイツのターレルThaler、スカンジナビアのリグスダーレルrigsdalerなどに由来し、スペインの通貨ペソも、スペイン・ドルとよばれていた。アメリカがドルを自国通貨の呼称としたのは、1775年、大陸会議の決定により、独立戦争の戦費調達のために発行した債務証書をスペイン・ドル貨で償還することになってからであるが、正式には1785年の大陸会議で、ドルを貨幣単位とし、十進法を採用することが決められた。

[原 信]

金銀複本位制下のドル

1792年、財務長官A・ハミルトンのもとで貨幣鋳造法が制定され、1ドル=純銀24.75グレインとし、金銀の比価を1対15とする金銀複本位制度が確立された。しかし、その後銀価が世界的に下落し、この金銀比価は金にとって割安なものとなり、金貨は流通から姿を消し、海外に流出した。1834年に同法は改定され、純金量目は23.20グレインとなり(さらに1837年には23.22となる)、金銀比価はほぼ1対16となった。だが今度は金が割高となり、金が流入し、正貨としての銀貨は流通から姿を消してしまった。

 以上のような鋳貨のほか、独立後、各州の法律に準拠して設立された多くの州法銀行が鋳貨を準備として銀行券を発行した。中央銀行制度の発達が遅れたため、これらの銀行券がしばしば過剰に流通した。さらに1861年の南北戦争勃発(ぼっぱつ)とともに、政府はグリーンバックとよばれる不換紙幣を発行、戦費にあてたが、これが増発され、インフレーションを巻き起こした。

 しかし、1863年、全国に共通の通貨を供給することを目的の一つとして、連邦法に基づく国法銀行法が制定され、国法銀行が発行する銀行券が州法銀行発行の銀行券にかわってしだいに流通するようになり、また増発されたグリーンバックの吸収にも役だった。

 南北戦争後、通貨制度の安定が図られた。すなわち、1873年貨幣鋳造法で、正貨としての銀貨の鋳造が中止され、金の単独本位制を志向して1879年から金貨の兌換(だかん)を再開した。

[原 信]

金本位制下のドル

農民や銀生産者は金銀複本位制への復帰を主張したが、世界的な金本位確立の流れのなかで、結局1900年に金本位制が名実ともに確立した。金平価は1ドル=25.8グレインであった。さらに、1913年に成立した連邦準備法は、中央銀行としての連邦準備制度を確立したもので、アメリカの通貨制度の大きな礎(いしずえ)となった。

 第一次世界大戦中の1917年、金本位制が停止されたが、戦後の1919年にはいち早く復帰した。第一次世界大戦を経て、強大に発展したアメリカ経済を背景とし、ドルは英ポンドや仏フランと並んで国際通貨としての役割をしだいに拡大していった。

[原 信]

管理通貨制への移行

1929年に始まった世界恐慌のあと、国際金本位ないし金為替(かわせ)本位制は崩壊し、アメリカも1933年の金融恐慌を経て、同年3月金本位制を停止した。翌1934年金準備法を制定、ドルの金平価を約41%切り下げて、1ドル=13.71グレイン(1オンス=35ドル)とした。また、国内での金兌換・保有および輸出を禁止し、ただ外国通貨当局の保有ドルについては、前記平価で金を売却することとした。かくして対外的には局限された金本位制、かつ対内的には実質的な管理通貨制が採用されることとなった。

[原 信]

第二次世界大戦後の動き

IMF体制下のドル

第二次世界大戦後、ドルは、国際通貨基金(IMF)の設立を軸とする国際通貨体制のなかで中心的地位を占めた。すなわち、1オンス=35ドルで外国当局に対し金兌換に応ずる米ドルが価値の基準となって、通貨間の為替平価体系がつくりあげられた。

 第二次世界大戦後アメリカは、大きな戦災を受けたヨーロッパ諸国や日本と対照的に、強力な経済力を誇り、政治・軍事に優越し、ドルは約240億ドルの金準備を擁した世界の最強通貨であり、各国は経済復興のためドル獲得に苦心した。これが「ドル不足時代」であり、アメリカはこれを緩和しようとしてマーシャル・プランをはじめ、各種の対外援助や貸付を行った。

 復興が進み、ヨーロッパ諸国や日本が国際競争力を高めてくるにしたがい、情勢は変わった。アメリカの国際収支は、貿易収支黒字の縮小、対外援助・貸付の増加、海外軍事支出の増加、および米企業の海外投資の増加により、赤字に転換、それがしだいに増大し、海外に保有されるドル残高が増大した。その残高の一部は金に兌換され、金準備がしだいに減少し、一方で国際収支の赤字が減少せずドル残高がさらに増大すると、ドルの金兌換能力に疑念がもたれるようになり、「ドル不安」の時代が始まった。1968年末の金準備は約100億ドルにまで減少し、一方外国の保有するドル残高はその3倍にも達した。このドル不安は1960年および1968年のゴールド・ラッシュとなり、市場の金価格が公定価格を上回って急上昇した。

 アメリカ政府は、1963年以降、資本取引面の規制を中心としたドル防衛政策を打ち出し、金利平衡税などを導入したが、効果はあまりなく、ベトナム戦争の出費増大も加わって、アメリカの対外ポジションはさらに悪化していった。ドル不安は国際通貨不安を生み、他の主要通貨を巻き込んで、為替市場をしばしば混乱に陥れた。

 1971年8月、ニクソン大統領はドルの金兌換停止を発表、ここに、金の裏づけをもつドルによって支えられていたIMF体制は、その支柱を失うこととなった。また、ドルの金兌換停止は、1オンス=35ドルというドルの平価を放棄したことになり、事実上フロート(変動相場制)状態となった。しかし、為替の安定のためには為替相場の固定が必要であるという主張が各国から出され、また、ドルの切下げによってアメリカの国際収支を均衡させることが必要であるとの認識も深まった。かくて、1972年12月にはスミソニアン協定が成立し、同協定に基づいて、ドルの金平価を1オンス=38ドルと約7.9%の切下げを行うとともに、円16.88%、ドイツ・マルク13.5%をはじめとする主要通貨の切上げを行ったが、ドル不安は収まらず、1973年2月にはドルをさらに10%切り下げ、1オンス=42.22ドルとなった。だがこれも長続きせず、海外のドル資産保有者は、ドイツ・マルク、スイス・フラン、円などの強い通貨への転換を急いだため、これらの通貨がドルに対してフロートし始め、同年3月には主要通貨はすべて全面的フロートへ移行するに至り、スミソニアン体制も崩壊した。

[原 信]

変動相場制下のドル

変動相場制下でもドル不安は収束せず、第一次オイル・ショック(石油危機)を経て、インフレが高まり、国際収支の赤字が増大し、1978年秋には、米ドルは主要通貨に対し第二次世界大戦後最低の為替相場を示した。1979年のインフレ率は13.3%という数字を示し、金利も2桁(けた)を超えて上昇するに至った。

 1979年10月、連邦準備制度は、インフレ抑制策を強化するため、金融市場操作の目標を金利からマネーサプライ(通貨供給量。すなわち金融機関以外で民間に保有される現金通貨および各種流動性預金の合計)に移し、その成長率を長期的に抑制する方針をとった。それ以後、金利は急変動を示しながら、歴史的高水準にまで上昇したが、一方インフレ率はしだいに低落して5~6%にまで戻り、したがって実質金利はきわめて高い水準を示し、海外からドルへの資金流入を促進した。それに加えて、対外経常収支も改善され、1981~1982年にかけてドル相場は著しく回復し、主要通貨に対し、変動相場制移行時の水準にまで戻った。そして中近東や東欧などの政情不安を背景にドルへの資産選択が高まり、かつてのドル不安とはまったく逆の状態を示した。

 レーガン政権のもとでアメリカは財政赤字が増大し、それが金利を高め、ドル高を招き、さらに経常収支の赤字を継続させることになり、「双子の赤字」が生まれた。そしてアメリカ経済は高金利のために第二次世界大戦後最大の不況となり、失業率も2桁に達し、ひいては世界全体に不況が波及した。この状況を改善すべく、アメリカが主唱して開かれた1985年9月の先進5か国の会議の決定(プラザ合意)による各国の為替(かわせ)市場への協調介入を契機として、今度はドル安が急速に進み、ドルの為替相場は不安定となり、とくに円やマルクに対して乱高下した。

 このように国際通貨としての米ドルの地位はけっして安定とはいえないが、1990年以降、東西ドイツの統合(1990年)、社会主義圏の崩壊(1991年)、ヨーロッパ通貨統合の進展そして中南米や東アジアのいわゆる新興市場の発展と通貨波乱(1994年メキシコ危機、1997年東アジア危機)などを経て、米ドルは中心的な国際準備通貨、決済通貨としての地位を維持してきた。

 すなわちアメリカが当事者である国際取引はもとより、アメリカに関係のない第三国間の取引にも、仕切り通貨、決済通貨および金融通貨として依然として広く利用されている。また為替市場での媒介通貨として他の通貨どうしの取引の媒介役を果たしている。すべての為替取引の約9割は、米ドルがかかわっているという状況は大きく変わっていない。

 また各国政府や企業の対外支払準備として米ドルはなお中心的な地位を占めている。ただユーロの出現、および世界経済におけるアメリカの地位の変化などにより米ドルの比率は徐々に減少し、2000年代後半時点では65%程度とみられる。

 さらに米ドルは、国際的な価値の尺度として、自国通貨と米ドルの交換比率すなわち為替相場をもっとも重要な相場とし、それを制度的にあるいは実質的に安定させようとする国が多かった。このように自国通貨を米ドルに結び付けようとする国は、1972年米ドルと金の結び付きがなくなって以来少なくとも制度的には大きく減少したが、実質的にはなおかなり残っている。アメリカとの貿易額が多い中東の石油輸出国や中国、そして南米の数国はその例である。したがって、他通貨に対する米ドルの相場は、ユーロや英ポンド、円など主要先進国通貨に対しては、大きく変動するが、アメリカとの貿易額などにより加重平均した実効相場でみると長期的にみれば比較的安定していたといわれる(図A)。

 このような国際通貨としての米ドルの背景には、国際経済上世界がアメリカの経済成長に依存するという状態がなお存続し、その限りでアメリカも通貨発行者の利益によってきた。

 しかし事態は動いている。同国の経常収支は1980年代なかばからおおむね継続的に赤字を拡大、1990年代初めに一時均衡したあと、よりいっそう大きくなり、2000年代後半は国内総生産(GDP)の5~6%に達し、当面大きく改善する可能性は少ない。そのため世界全体の経常赤字の大部分をアメリカが占めている現状である。そしてその赤字は外国の保有する米ドル建て公社債や預金でまかなわれている。アメリカの対外純債務残高は2006年末で2兆5396億ドル、2007年末は約3兆ドルに達し、GDPの20%を超え、世界最大の債務国である。このような状況にかかわらず他の諸国が米ドルを保有し、その赤字をまかなっている(図B)。

 もとよりこのような状態がいつまでも続くとは思われず、いずれ米ドルの大幅下落が起こるという予想がなされ、事実、経常赤字が急増し始めた2002年なかばから前記実効相場で米ドルは下落基調となった。しかし為替市場では大量の浮動的な短期資金が景気予想、金利そして内外政治動向などを材料として、短期的な差益を求めて投機的に動き、少なくも米ドルに関する限り赤字=相場下落という単純な予想はつねに裏切られた。前記の下落も赤字はその一因にすぎなかった。すなわち赤字と「強い米ドル」が両立し得たのである。

[原 信]

金融危機と米ドル

2007年8月アメリカで起こったサブプライムローン問題は世界の金融市場に巨大な影響をもたらし、未曾有(みぞう)の金融危機となり、金融界のみならず実体経済にも深刻な影響を及ぼしつつある。2008年9月アメリカ投資銀行の大手リーマン・ブラザーズが破綻(はたん)、事態は急激に悪化し、世界中の株価が大きく下落して企業や投資家の資産価値を下げた。そうでなくとも停滞ぎみであった経済景況の見通しがさらに悲観的となり、かつての世界恐慌の再来が懸念される状況となった。

 その元凶は、アメリカの巨大投資銀行、その周辺の金融機関、ヘッジファンドや投機的投資家による世界大のマネーゲームである。金融市場の世界的同質化(グローバリゼーション)の波に乗って、本来内容不透明なドル建て証券や、デリバティブといわれる派生的金融商品がアメリカのみならずヨーロッパやアジアの金融機関や投資家にばらまかれ、それが不良資産となって、先進国だけでなく新興国でも破綻の懸念のある金融機関が増えた。各国政府は国際協調をベースとして、資本注入や不良資産買取り、IMFの援助要請などにより金融システムの崩壊を防ごうと努力している。

 このような危機のなかで、国際通貨としての米ドルはどのような状況にあるのか。もとよりアメリカの金融体制が動乱の中心にあり、またアメリカ全体が巨額の対外債務を負っている。かつ国内の景況も悲観的な見方が増えている現状では、当然海外で米ドル建て金融資産をもつものは政府、民間を問わず、それを他のより安全な通貨、たとえばユーロ建て資産に切り替えるだろうし、それによって米ドル相場は大きく下落することになる。事実2007年夏以降、米ドルの実効相場は下落の道をたどった。

 2008年4月にはユーロに対し最安値となった。しかしヨーロッパやアジアでも事態は深刻になっているということで、ユーロのほかヨーロッパやアジアの通貨が米ドルに対して下落し、米ドル実効相場は上昇に転じた。すなわち、アメリカの危機とはいえ、まだアメリカへの本格的な取付けは起こっていない。それは国際的な政府や中央銀行間の協調が進められていることにもよるが、今回の危機は単なる米ドルだけの危機ではないことを示している。

 かつての世界恐慌に伴う金融危機のなかで、中心的国際通貨であった英ポンドは、その地位を米ドルに明け渡した。第二次世界大戦後の米ドルを基礎としたブレトン・ウッズ体制はニクソン・ショックで崩壊したが、それ以後、米ドルにかわる強力な通貨が存在せず、現在まで金との交換性のないまま米ドル本位制ともいうべき状態が続いている。米ドルへの信頼は下落の道をたどってはいるが、体制の本質は変わっていない。アメリカだけでなく、他の主要国の協力を得て危機を乗り切ることが必要である。金融の危機を最終的に救う「最後の貸し手」は当然アメリカの政府当局や連邦準備制度であり、現に金融安定法により事態収拾の努力はしているがその影響力は限界があるからだ。

 いまや米ドル本位制という不安定な仕組みを改める時期と思われる。ユーロがすこしずつ米ドルの役割を補うとしても、市場の不安定は容易には収まらないだろう。

 IMFを含めた主要国の協調で、なんとか主要通貨間の相場安定を図るか、あるいは主要通貨で構成する通貨バスケット(SDR=IMFの特別引出権はその一例)をつくり、各国通貨とそのバスケットとの関係を安定させるのが究極の形と考えたい。

[原 信]

『R・F・ハロッド著、東京銀行調査部訳『ドル』(1955・実業之日本社)』『R・トリフィン著、小島清・村野孝訳『金とドルの危機』(1961・頸草書房)』『塩谷安夫著『アメリカ・ドルの歴史』(1975・学文社)』『山本栄治著『国際通貨システム』(1997・岩波書店)』


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百科事典マイペディア 「ドル」の意味・わかりやすい解説

ドル

米国の通貨の基本単位。1ドル=100セント(cent)。カナダ,香港,オーストラリア,シンガポール,バルバドス等の通貨単位もドルであるが,普通は米ドルをさす。米国のドル呼称はスペイン・ドル(銀貨)の流通で定着,1792年公式に採用。1900年金本位制が確立。第1次大戦後ドルはポンドの地盤を侵食し国際通貨に発展した。1934年に約41%切り下げて1ドル=金1/35オンスとし,豊富な金準備を裏付けに各国通貨をドルを通じて金に結びつけ,外国政府・中央銀行に対してのみ金兌換(だかん)を実施。しかし1950年代に対外援助費の増大等により金・ドルの流出が続き,1960年代に入ると米国の金準備が対外ドル債務を下回り,国際通貨としてのドルの地位が動揺し,いわゆるドル危機を迎えたため,国際収支改善を図るドル防衛策がとられてきた。1971年8月には金交換を停止(ニクソン・ショック)。同年12月の10ヵ国蔵相会議で切下げが決定,1ドル=金1/38オンスとし,さらに米国はドル防衛のため,1973年に10%切り下げて金1オンス=42.22ドルとした。しかしこの年,EC諸国は域外通貨に対する変動為替相場制(フロート制)を採用し,以後固定為替相場制は崩壊した。ドルはその後の変動が大きいが,依然として世界第一の基軸通貨である。→IMF平価
→関連項目アメリカ合衆国円高・円安為替相場基軸通貨セント単一為替レートドル地域補整ドル

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドル」の意味・わかりやすい解説

ドル
dollar

通常はアメリカ合衆国の法定貨幣をいい,略号は$。その 100分の1をセント centとしている。国民通貨にドルの名称を付した国はアメリカだけではないが,その起源は南ドイツの産銀で鋳造された銀貨につけられたターレル thalerで,新大陸アメリカに流入したスペインのターレル銀貨,すなわちスパニッシュ・ダラー spanish dollarが前身である。 1792年に独立し通貨主権を取得したアメリカは,金銀比価を 15対1とする金銀複本位制を制定し,ドルを法定貨幣単位としたが,銀貨は鋳造されず実質は金本位制であった。金銀比価の不安定性に悩んだアメリカは,1900年金の公定価格を1オンスにつき 20.67ドルとする金本位制を公式に制定し,同時に従来はナショナル銀行 National Bankがもっていた銀行券発行権を新設の連邦準備制度に移譲させた。この制度の確立によりドルの国民通貨としての地位が確立した。第1次世界大戦は国民通貨ドルの国際通貨への発展の契機となった。それは世界無比の強大な生産力と大量の金流入のための豊富な金準備とを基調とすることになったからで,ポンドとともに制度上,事実上の国際通貨の地位を占めた。 33年アメリカはドルの平価切下げを余儀なくされ1オンス=35ドルとしたが,第2次世界大戦後,ドルは国際通貨史上かつてなかった強大,安定の国際通貨の地位を占めた。 50年末にいたって高額かつ持続的な国際収支の赤字,その結果としての金準備の激減のためにドル危機が表面化し,71年8月 15日ニクソン政権による金・ドル交換停止措置により,ドルを基軸通貨とする金為替本位制度も崩壊した。

ドル
Dor

イスラエル北西部,地中海に面した古代の港町で,現代は入植地。ハイファの南に位置する。古代のドルはエジプトとメソポタミアを結ぶ「海岸道」 Via Marisの要地で,前 11世紀のエジプトの記録にもあり,旧約聖書にもソロモン王が女婿ベン・アビナダブをドルに封じたことが記されている。その後,アッシリア,ペルシアの支配を経たのち,町はローマの将軍ポンペイウスに占領され,自治を与えられた。ヘロデ王時代に同地の近くにあった港町カエサレアが拡張されてから衰退。港は十字軍によって再建された。ドルの主要産業は,フェニキア名物の深紅色の染料をとるための巻貝の採集であった。現在,古代の港,劇場,ビザンチン風の聖堂,十字軍の砦などが発掘され,海岸の美しさや鉱泉などとともに,観光地として開発されている。人口 206 (1989推計) 。

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世界大百科事典(旧版)内のドルの言及

【円】より

… 明治政府の鋳貨が円形に統一されているという特徴をもつため,〈円〉という単位名が生まれたというのは俗説である。18世紀から19世紀にかけて中国に流入したドル銀貨=洋銀とよばれるスペイン,メキシコの銀貨は,銀塊としての中国固有の銀貨に対し,その形態的特徴から中国では銀円とよばれた。これが,イギリス香港(ホンコン)造幣局鋳造(1866‐68)の香港ドル銀貨の中国人用極印が〈香港一円〉となった理由である。…

【貨幣】より

…貨幣の決済手段としての機能とは,広く社会で行われるさまざまの経済取引に際し,その取引の決済が貨幣の移転を通じてなされることを意味している。また,価値尺度としての貨幣の機能とは,取引される多様な財・サービスの価格を貨幣の単位,たとえば円やドルで表示することによって,それらの財・サービスの交換比率を統一的に表現することを可能としていることを示している。さらに,価値貯蔵手段としての貨幣の機能とは,人々が保有する財・サービスに対する購買力を将来へ持ち越すための手段として貨幣が役立つことを示している。…

【金】より

…ヨーロッパ諸国がもっていた金はアメリカへ流出し,そこへ集積していったからである。すなわち大戦前の1914年に20億ドルに満たなかったアメリカの金保有高が,戦後30億ドルを突破し,35年には100億ドル,40年には200億ドル台に乗せた。こうした情勢下,アメリカ以外の各国は金兌換を停止せざるをえなくなった。…

【国際通貨制度】より


[金為替本位制]
 この国際通貨制度はもう一つの重要な取決めをもっていた。そこでは各国通貨の為替相場は,一定量の金またはそれと同等の価値をもつドルに対して固定されている。すなわちドルは金1オンス=35ドルの交換比率(法定平価)で金に結びつけられ,ドル以外の各国通貨は一定の交換比率(IMF平価)でドルに結びつけられている。…

※「ドル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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