1642~1727年。イギリスの物理学者、数学者、天文学者。なぜ月や
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イギリスの物理学者、数学者、天文学者。いわゆる自然哲学者であるが、膨大な神学や錬金術の論稿・遺稿もあり、神学者とか最後の錬金術師とよばれることもある。
[井原 聰]
イングランド東部、リンカーンシャーのウールスソープに生まれ、12歳まで近隣の学校に学ぶ。母の知人の薬剤師クラーク家に寄宿してグランサムのグラマー・スクールに学び、1661年6月ケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学。1665年1月バチェラー・オブ・アーツの学位を得た。1667年マイナー・フェロー、1668年3月メジャー・フェローとなり、7月マスター・オブ・アーツの学位を取得した。ケンブリッジ時代のニュートンは「厭世(えんせい)的」と評される。それは、海外貿易や商業が盛んになり、大学の役割が変化し始めた時代に、旧態依然とした年功序列的な学内人事が横行し、退廃的生活に陥る教師や学生も少なくない大学に対するピューリタン的反動ともいえよう。
1669年、師のI・バローを継いでルカス教授となり、光学を講義。1668年、1671年に反射望遠鏡を製作し、1672年王立協会会員となる。1686年、国王が大学の規定を侵害して、ベネディクト派の神父アルバン・フランシスAlbin Francisに学位を授与させ、ケンブリッジ支配の突破口にしようとしたとき、これに抵抗する大学の全権委員の一人として活躍、結果は国王の敗北となった。1688年、フランシス事件での断固とした姿勢を買われ大学代表の国会議員に選出され、1年間ロンドンに滞在。この間、ロックやピープスら、また政府高官とも知り合った。その後、ケンブリッジからの転進を図って就職運動を行うが、トーリー党が盛んな時代にホイッグ党のニュートンに適当な職はなく失敗、また『プリンキピア』出版(1687)後の虚脱感や反三位(さんみ)一体説の論文執筆(1690)をめぐる緊張などから、1693年にはうつ状態に陥った。
1696年4月、大蔵大臣を務める教え子で友人のモンタギューCharles Montagu(1661―1715)の世話で造幣局監事に就任、1699年造幣局長官となる。贋(にせ)金作りを取り締まり、ハリーやロックらとともにモンタギューの貨幣改鋳事業を助けた。1700年には貨幣重量に厳しい正確さを求め、1717年には政府に助言して、1ギニー金貨が銀21シリングと決定され、これによってイギリスは実質的に金本位制となった。ニュートンはイギリス貨幣制度史上にも名を残した。1701年10月ルカス教授職、トリニティ・カレッジのフェロー職を辞任。同年ケンブリッジ大学選出国会議員。1703年王立協会会長に選出され、生涯その地位にあった。1705年ナイトに叙せられ、1710年グリニジ天文台監察委員長に就任。一生独身で、多くの栄誉に輝き、1727年、ロンドン郊外ケンジントンで病没。遺体はウェストミンスター寺院に葬られた。信仰のうえでは国教とは立場を異にし、ユニテリアンとしてひそかな信仰をもっていた。
[井原 聰]
科学上の業績は、三大発見といわれる、光のスペクトル、万有引力、微積分(流率法)のほか、グランサム時代に寄宿していた薬剤師やその仕事場などから化学や錬金術に興味をもち、この分野の実験を続け、種々の合金をつくったり、熱の冷却法則(1701)など広範な分野の研究を行った。
[井原 聰]
1663年ごろケプラーやデカルトの『屈折光学』を学び、レンズ、プリズム、鏡、望遠鏡、顕微鏡など光学研究用の器材を収集。1665~1666年にはレンズの研磨法、非球面ガラスの製作など光学実験の基礎的技術を習得したと思われる。1666年、最初のプリズム実験を行う。これは望遠鏡改良の基礎研究で、既知の球面収差の除去を目ざして非球面ガラスを自作し、さらに色収差が像のぼけの原因であることを発見し、その原因究明のため光の屈折によって生ずる光の分散を研究。その結果、白色光(太陽光)は屈折率が異なる単色光の複合からなると結論し、そのため色収差の除去は原理的に不可能という誤った断定をし、屈折式望遠鏡の改良には限界があるとした。そこでグレゴリーやカセグレンLaurent Cassegrain(1629ころ―1693)らの着想した反射望遠鏡を自作、1668年に長さ6インチ(約15センチメートル)、倍率約40倍の第1号を完成させた(現存せず)。1671年、さらに改良した口径2インチ(約5センチメートル)、38倍の第2号を完成して王立協会に提出した(同協会に現存)。さらに細隙(さいげき)による光の回折、薄膜による光の干渉現象の研究を展開。これらの研究は1672~1675年フックとの激しい論争をよんだ。ニュートン・リングとして知られる干渉縞(じま)実験では、明部と暗部の同心円状の環を精密に測定してフィッツ(発作)の理論を展開、図らずも光の周期性を反映した理論となった。また屈折率と物質の密度の研究から化学的組成を類推することも行った。
こうした光学的現象の解明や問題提起とともに、光学実験技術の確立という点でも評価される。代表的論文・著書として『光学講義』(1669~1672年ルカス講義、1728年刊)、「光と色の新理論」(1672)、「光と色の理論」(1675)、『光学』Opticks(1704)などがある。
18世紀末の光の粒子論、19世紀前半に確立する波動論の立場からニュートンを粒子論者とする見方もある。確かに光の直進性から波であることを否定しているが、ほかでは粒子論的説明に固執していない。むしろ光の本性を事実に基づき解明するため、定量的方法の手掛りをつかもうとしている。視線と光線を区別したデカルトの研究のうえに、幾何学から光を客観的な実在物としてその本性を解明する物理光学的段階に前進させたことに彼の研究の特徴がある。
[井原 聰]
数学研究は光学研究とほぼ同時代に開始され、1665年、無限小の概念に基づく微分法を発見、夏には流率法の概念を確立し、1666年流率法に関する「10月論文」を仕上げた。1669年「無限級数の方程式による解析について」をバローに示し、1671年「流率法と無限級数」を著した。この論文が発表されるのは、彼の最愛の弟子ともいえるファシオNicolas Fatio de Duillier(1664―1753)が1699年にライプニッツの微分法をニュートンからの剽窃(ひょうせつ)であると非難したのちの、1704年の『光学』の付録「求積論」に至ってのことである。1705年以後、ベルリン科学アカデミー初代会長ライプニッツと王立協会会長ニュートンとの優先権論争がその威信をかけた形で行われ、1716年ライプニッツの死で論争は終わった。ニュートンはケンブリッジの学生時代デカルトの『哲学原理』やスホーテンFrans van Schooten(1615―1660)の数学のテキスト、オートレッド、ウォリスさらにはフェルマーの数学書や論文集に数学を学び、二項定理の研究から無限級数の研究に進み、流率法を着想したとみられる。
[井原 聰]
この分野の基本的構想が生まれたのはロンドンにペストが流行した1665~1668年、通算約2年間故郷に避難した期間である。リンゴの実の落下を見て重力の法則を発見したという話は、故郷の農場でのこととされるが真偽はさだかでない。この話の出所はニュートンの伝記作家スチュクリーWilliam Stukeley(1687―1765)にニュートンが語ったことからといわれ、また一説には『プリンキピア』をフランスに紹介したボルテールともいわれる。
ニュートンの動力学研究は1664年ごろデカルトの『哲学原理』、ガリレイの『新科学対話』などの研究から開始された。1661年ぐらいまでにデカルト、ホイヘンス、レン、フックらによって確立された弾性衝突論の成果にたって、非弾性衝突の理論的研究を進め、ついで球に内接する多角形の各頂点で反発されていく運動の極限として円運動を取り上げ、遠心力の理解へと進み、これとケプラーの第三法則とを結合して逆二乗則の導出に成功したと考えられる。
ニュートンは力学研究の成果を発表しないでいたが、光学論争後にフックが王立協会書記として「とくに遊星の天体運動を、接線の方向に沿った直線運動と中心体に向かう吸引運動との複合とみる見解について、貴見をお漏らしくださるなら光栄の至りに存じます」と、投稿を求めた。1687年それまでの研究をまとめ、ハリーの尽力で有名な大著『プリンキピア』Philosophiae Naturalis Principia Mathematica(『自然哲学の数学的原理』)を出版した。
マニュファクチュアの全時代を通じて技術上の主要な課題は機械的課題であった。たとえば水上輸送の領域では、船舶の積載量、速度、安定航行、操舵(そうだ)性能、運河網・水門の整備などの課題は、浮力をはじめ抵抗媒質中での物体の運動法則や潮汐(ちょうせき)現象の解明を必要とし、流体の流出、水の圧力と流出速度との関係など流体静力学・動力学的研究を促した。鉱山業の領域では深い坑底からの揚水、巻き揚げ、換気、鉱石粉砕機械などでは各種滑車、輪軸、てこ、くさび、螺旋(らせん)など単純な力学的機械の解明が求められ、ふいごやポンプは流体動力学上の課題を提起していた。水車や風車など自然力の利用は力学的現象を対象化し、人間の筋肉力と等価の関係を、つまり人間労働を仕事の量で定量し、自然の諸力と比較しうる可能性を開くものであった。軍事的領域では砲弾や火器が、物体の自由落下、放物体の運動、作用・反作用、衝突問題を、機械や土木建築用資材は材料力学上の問題を提起しており、レオナルド・ダ・ビンチの時代以後、こうした課題に対する研究成果が蓄積されていた。これらを総集するものとして天体と地上の力学の統一的体系化が可能となった時代、それがニュートンの力学の出現を準備したのである。とはいえニュートンは神の一撃を許し教会との妥協を図ることで彼の拠(よ)ってたつ社会を擁護する立場も鮮明である。この時代の支配的なイデオロギーに深く影響されていることも見落としてはならない。
[井原 聰]
『河辺六男編『世界の名著31 ニュートン』(1979・中央公論社)』▽『吉仲正和著『ニュートン力学の誕生』(1982・サイエンス社)』▽『S・I・ヴァヴィロフ著、三田博雄訳『アイザク・ニュートン』新装版(1985・東京図書)』▽『ゲッセン著、秋間実他訳『ニュートン力学の形成』(1986・法政大学出版局)』▽『島尾永康著『ニュートン』(岩波新書)』
ドイツの写真家。ベルリンに生まれる。裕福なボタン製造業者の家に育ち、ファシズム体制下のドイツで「水泳と女の子と写真にばかり関心をもつ」自堕落な青春時代を過ごす。1936年ドイツの女性写真家イーバYva(本名エルス・ジーモンElse Simon。1900―1942)のアシスタントとなり、本格的に写真を学ぶ。1938年シンガポールで新聞社の専属カメラマンとなるがすぐに解雇され、オーストラリアに移る。1940年から5年間兵役についたあと、メルボルンに写真スタジオを開き、1948年にジューン・ブラウンJune Brawne(1923―2021)と結婚(結婚後はジューン・ニュートンJune Newton)。ジューンはのちにアリス・スプリングズAlice Springsと名のって写真家となり、彼に大きな影響を与えるミューズの一人となった。
1958年にパリに移り、ファッション写真を中心に活動するようになる。以後、『ボーグ』『エル』『ジャルダン・デ・モード』Jardin des Modesをはじめとして、多くのファッション雑誌に作品を提供し、時代のテイストをつくりだす重要な写真家の一人となった。
彼が自らの性的な嗜好(しこう)を写真に強く投影するようになったのは、1977年の写真集『ホワイト・ウィメン』White Womenからである。この写真集には、その後のニュートンの写真集にもたびたび登場するボンデージ(身体の束縛、拘束)のようなSM的行為、男女の性の倒錯、窃視症的な視線、暴力と死のにおいなどの要素がたっぷりとちりばめられていた。同時に、その倒錯的なエロティシズムと、長身で肩幅の広い、北欧の女神を思わせる堂々たる肉体をもつ女性への執着が表現されたヌードやポートレートは、ファッション写真の枠組みを越えて注目され、1980年代以降は世界各地の美術館やギャラリーで数多くの個展が開催された。それまでの着せ替え人形的なファッション写真の世界に、生々しく、直接的なエロティシズムを持ち込んだニュートンの仕事は、多くの模倣者を生むほどの反響をよんだ。
1980年代以降になると、ニュートンは彼好みの大きな女性たちを撮影した『ビッグ・ヌード』Big Nudes(1981)、有名女優やモデルたちをスキャンダラスなイメージに封じ込めた『ポートレーツ』Portraits(1986)、使用済みのポラロイド写真をコレクションした『ポラ・ウーマン』Pola Woman(1992)などの問題作を次々に刊行し、美術館などでも大きな展覧会を開催できる写真家としての評価を高めていく。『夜のアルシーブ』Archives de Nuits(1992)に代表されるように、その作品は1990年代以降さらに冷笑的で暴力的な傾向を強めた。
なお、1993年(平成5)に女優石田えり(1960― )をモデルに写真集『罪』を撮り下ろすなど日本との関係も深く、「ヘルムート・ニュートン写真展」(2002、大丸ミュージアム、東京)など展覧会もたびたび開催された。
[飯沢耕太郎]
『『ヘルムート・ニュートン写真集――Big Nudes』(1991・リブロポート)』▽『『罪』(1993・講談社)』▽『『ヘルムート・ニュートン写真集――ポラ・ウーマン』『夜のアルシーヴ』(ともに1994・リブロポート)』▽『『ヘルムート・ニュートン写真集』(2002・タッシェン・ジャパン)』▽『Portraits; Photographies Prises en Europe et Amérique (1986, Nathan, Paris)』▽『飯沢耕太郎著『写真とフェティシズム』(1992・トレヴィル)』
イギリスの科学者。リンカンシャーのウールスソープの自作農の家に生まれた。ウールスソープで初等教育を終えたのち,グランサムのキングズ・スクールに学び,1661年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学した。当時のヨーロッパの大学では自然科学はほとんど教えられていなかったが,ニュートンはこの時期にデカルトの《幾何学》やケプラーの《屈折光学》を読んだ。さらに幸いなことには,ケンブリッジ大学にはルーカスHenry Lucas(?-1663)によって〈ルーカス講座〉が創設されており,その初代教授としてバローIsaac Barrow(1630-77)が就任し,数学や光学の講義がなされていた。ニュートンは,この師のもとで数学,光学,そして力学を学び,その才能を認められて,69年には彼のあとを継ぎ,ルーカス講座の教授となった。72年には,のちにニュートン式反射望遠鏡と呼ばれることになる望遠鏡の発明を評価されて,ローヤル・ソサエティの会員となり,89年にはケンブリッジ大学選出の国会議員となった。96年に造幣局監事に任命されたため,ロンドンに転居し,その後造幣局長官となった。さらに1703年には,ローヤル・ソサエティの総裁に就任し,生涯その地位にあった。
ニュートンの主要な業績は力学,数学,光学の三つの分野で打ち立てられたが,これらの研究はいずれも,1665年から66年のペスト流行期に大学が閉鎖され,ウールスソープに疎開していたときに大きく進展したことがわかっている。有名なリンゴのエピソードがあるように,万有引力の法則の着想はこのウールスソープで得られたのであり,彼は地上の重力が月の軌道にまで及んでいると確信した。そして,その後の彼の研究によって,万有引力の法則と力学の3法則を使えば,地上の物体の運動だけではなく,潮の満干や惑星の運動すら説明できることが示された。この力学研究は87年の《プリンキピア》にまとめられたのであるが,この結果,以前には独立して取り扱われていた天上の世界と地上の世界が同一の法則によって支配されており,単一の世界を構成しているということが明らかになった。彼の二項定理の発見,流率法,つまり,今日の微積分法の発見も1665年にはすでになされており,彼の力学研究に大きく貢献した。
彼は光学についても,66年にプリズム実験を行い,同じ屈折率の光には同じ色が属しているということを発見した。この発見は屈折望遠鏡の改良を彼に断念させ,反射望遠鏡の発明へと向かわせることになった。また,この発見をめぐってその後に生じたわずらわしい論争の中でも,ニュートンは光学の研究を続け,それらの成果が1704年に《光学》として発表されるのであるが,この書物には光や色についてだけではなく,彼の自然観も表明されている。つまり,ニュートンが光学研究を通じて意図していたのは,微視的な領域においても,巨視的な領域と同じような力学法則が支配しているということを示すことだったのである。このような意図は完全には成功しなかったとはいえ,彼の力学理論とともに,18世紀の科学者に受け入れられた。
ところで,《プリンキピア》の巻末につけられた〈一般注〉や《光学》の最後に提出されている〈疑問〉からもうかがえるが,ニュートンは神学や錬金術にも強い関心をもっていた。実際,20世紀になって競売に付された彼の膨大な手稿や蔵書目録から,錬金術の実験,神学の研究,キリスト教的年代学の研究は余技ではなく,力学や光学に劣らないほど彼の学問の本質的部分を占めていたことがわかる。もちろん,これらの研究は彼の自然科学の研究と無関係ではなかった。彼は重力の原因を神の存在に求めようとしていたし,《光学》においては,自然哲学,つまり自然科学の主たる任務を〈仮説を捏造(ねつぞう)することなく,……結果から原因を導き出して〉,第1原因,つまり神に到達することだと明言していたのである。逆に,キリスト教によって示された歴史的事件を研究する年代学にも,彼の天文学的知識が駆使されていた。そして,このような歴史への興味は,それだけにとどまらず,自然界ばかりか歴史においても一定の秩序を見いだそうとする彼の努力を示しており,神の被造物である自然と神の預言の成就としての歴史のいずれにおいても同一の普遍的な統一性が存在するという確信の結果であった。このように,ニュートン手稿の再収集に努力した経済学者のJ.M.ケインズの〈ニュートンは理性の時代の最初の人〉ではなく,〈最後の魔術師〉であったという発言もなるほどと思われる。いずれにせよ,今日の科学は近代的合理主義の所産であると考えられているが,その合理主義は宗教的情熱と無関係ではなかったということをニュートンは端的に示している。
執筆者:田中 一郎
力の単位で,記号はN。1N=1kg・m/s2と定義される。すなわち,1Nは質量1kgの物体に1m/s2の加速度を生じさせる力である。例えば,質量50kgの荷物を地球の重力に抗して持っているときの力は,地球の重力の加速度が約9.8m/s2であるから,50kg×9.8m/s2=490Nとなる。国際単位系(SI)の中の固有の名称をもつ組立単位であり,イギリスの科学者I.ニュートンにちなんで単位名がつけられた。CGS単位系のダイン(dyn)とは1N=105dynの関係にある。
執筆者:大井 みさほ
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1642~1727
イギリスの物理学者,数学者,天文学者。ケンブリッジ大学に在学中の1665年,ペスト流行のため帰郷し,そこで光のスペクトル,万有引力の法則,微積分法のいわゆる彼の三大発見をしたという。その後同大学の数学教授に就任,光学,天文学においても優れた業績をあげ,主著『自然哲学の数学的基礎(プリンキピア)』(1687年)などによって,17世紀科学革命の中心人物と目された。名誉革命体制のもとで,下院議員,造幣局長官を務め,ロイヤル・ソサエティ会長(在任1703~27)として独裁者的な地位にあった。
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イギリスの科学者.当時のイギリスの暦(ユリウス暦)では生没年は1642.12.25-1727.3.20.物理学(万有引力の法則,運動法則)と数学(微積分)の業績で有名だが,深い情熱と膨大な時間を錬金術(当時,化学との区別はない)の探求にも割いた.6巻本の“化学の劇場”(1602~1661年)を皮切りに,入手できる限りの錬金術(化学)の文献を収集し,テキストの内容を体系的に照合して化学用語集を作成した.“光についての仮説”(1675年),“ボイル宛の書簡”(1679年),“酸の本性について”(1710年)などの論考,“プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)”(1687年)への注釈や結論,“光学”(1704年)への疑問などにおいて,物質を構成する微小粒子間の反発力-けん引力の仮説により,化学現象を含む物体の多様な現象を説明する図式を提示した.この粒子間力による反応機構の説明と選択的親和性の理論は,18世紀の化学に多大なインパクトを与えた.
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(長門谷洋治)
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(谷口義明 愛媛大学宇宙進化研究センターセンター長 / 2007年)
(今井秀孝 独立行政法人産業技術総合研究所研究顧問 / 2008年)
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…宇宙空間自体のもつ価値性,意味性はそれを出発点として急速に失われていった。I.ニュートンの空間概念は,絶対空間のごとき抽象性を主張しているとはいえ,その実,神の感覚のみなぎる作用圏のごときものであって,決して均質な中立的空間ではないが,そうした宇宙空間の〈意味〉性の主張は,おそらくはニュートンをもって最後と考えるべきであろう。
【地球中心説と太陽中心説】
コペルニクスの太陽中心説は,基本的にはプトレマイオスの周転円を利用した地球中心説の座標変換であるといえる。…
…これらは今日の宇宙飛行をある程度予言したものではあるが,根本的に不満足な点は宇宙飛行の原理がうち立てられていないことであった。
[実現への懸橋]
宇宙飛行の原理は,ケプラーの死後I.ニュートンが発見した万有引力の法則の中にあった。ニュートンはこの法則をもとに,宇宙飛行について,高い山の上においた大砲から十分大きな速度でうち出された弾は落下せず地球のまわりを回るであろうことを説明している。…
…とくにホイヘンスが〈光の波動説〉を説くにいたって,波動を支える媒質としてのエーテルという概念が浮かび上がる。例えばホイヘンスの波動説に対してまっこうから反対して〈光の粒子説〉を唱えたと言われるニュートンでさえ,屈折現象に関しては,エーテルに頼っている。他方,ガリレイ以降,運動の相対性は当然のこととして受け入れられつつも,なお,ニュートンの絶対空間の提案にも見られるように,力学において,すべての運動を定義するための〈絶対静止系〉を,宇宙空間そのものの上に重ねて理解しようとする傾向は根強く存在し,光波動の媒体として実体化されたエーテル系(光エーテル系と呼ばれる)を,絶対静止空間とみなす暗黙の了解が生まれた。…
…微小振幅の音波については,媒質の種類にはよらず,媒質の密度をρ0,その体積弾性率をκとして,音速はで与えられる。これはI.ニュートンが理論的に求めたもので,彼は気体について等温変化を仮定し,κ=P0(P0は気体の静圧)とした。これから求められる空気中の音速は280m/s(0℃)となる。…
…ブルーノ以降,宇宙の無限性や世界の複数性を論ずる可能性が開かれたのも,コペルニクス説がきっかけだったといえよう。 さて,近代初期に,ガリレイ,デカルト,ニュートンらの手で,運動の問題について,新しい理論体系が誕生するに伴って,その運動の生起する空間そのものに関しても,新しい展開が生じた。とりわけ空間解釈で重要なのはニュートンの〈絶対空間absolute space〉であろう。…
…自然法則によって世界のできごとが決定されている,という決定論的主張は,デモクリトスの原子論にもすでに胚胎されていたが,それが具体的な意味をもったのは近代後期である。一般にはニュートン力学(古典力学)的自然像の確立が,物理学的な決定論の成立に重なると考えられている。それはまちがいないが,ニュートン自身がそうした自然像の持主であったとするのは誤解である。…
…さらに,ホイヘンスは発光体を中心とする波面の各点から二次的な波が球状に広がるとする〈ホイヘンスの原理〉を提出し,光の反射,屈折の法則を説明することに成功したのである。他方,ニュートンは太陽の光をプリズムによってスペクトルに分解し,それぞれの色の光は固有の屈折率をもつという重大な発見をした。彼はこの事実を光の粒子説によって説明したが,〈ニュートンリング〉の実験が示していた光の周期性には満足すべき解答を与えることができなかった。…
…トマス・アクイナスは,世界の創造は〈時間とともにcum tempore〉行われたと考えており,〈時間においてin tempore〉創造が行われたものでないことを強調して,神の超時間性を強く主張した。 自然科学的な時間概念はニュートンの〈絶対時間〉と〈相対時間〉の区別(これは空間にも並行的に適用される)から始まったと言われる。確かにニュートンはこうした概念を立てて区別したが,それは,必ずしも,現在われわれが〈科学的〉文脈で論ずるような概念と同じではなかった。…
…オランダ通詞志筑家の養子となり,1776年(安永5)稽古通詞となったが,翌年病身を理由に辞職し,本木良永を師として蘭学研究に没頭した。イギリス人ケイルが著したニュートン自然哲学体系入門書の蘭訳本《奇児(ケイル)全書》の翻訳に終生取り組み,主著《暦象新書》上中下編(1798‐1802成立)では,ニュートン,ケプラーの諸法則,地動説などの紹介だけでなく,自己の見解をも加え,太陽系の起源を論じた〈混沌分判図説〉で独創的な星雲説を唱えた。彼は東洋最初のニュートニアンである。…
…同じすい星を約650km離れたプラハで観測したものと比較して,周囲の恒星との関係位置にまったく差がないことから,すい星は月よりも遠いことが知られ,天体であることがわかった。I.ニュートンは,すい星も万有引力の法則に従って運動し,その軌道は太陽を焦点とする放物線であると考え,その軌道計算法を発表した。E.ハリーはこの方法によって,それまで観測記録の残っているすい星の軌道を計算し,その結果,1531年,1607年,82年に出現した三つのすい星の軌道が非常によく似ていて,出現の間隔がほぼ76年であることから,これらは同一のすい星が繰り返し出現したものであると考え,次は1758年末か59年初めに再び現れるはずであると予言した。…
…パスカルは晩年書き残した宗教的断章によって知られる思想家でもあった。 しかしこの世紀の数学史,科学史上のもっとも大きな人物としては,R.デカルト,I.ニュートンおよびG.W.ライプニッツを挙げるべきであろう。 デカルトは,近世合理主義の基礎を定めた哲学者である。…
…それは救済と同じではないが,悪が猛威をふるうこの世にも救済は準備されていると信ずるもので,十字架の逆説を支える類比的な神認識の一つである。近代の哲学では自然法や進歩の観念が神の摂理の代用品のようになり,ニュートンによれば神は有能な時計師で,世界はこれによってつくられた自動巻き時計であるとされる。ドイツ・ロマン派の歴史主義やマルクスの唯物史観では,摂理は歴史と実践の中におかれるが,これに対しサルトルやメルロー・ポンティは,摂理といわないまでも歴史の両義性を説き,実践に関する素朴なオプティミズムを排している。…
…古代中国でも《周易参同契》など錬金(丹)術文献に同様の着想が登場することからもわかるように,こうした物質どうしの選択的な〈親和性〉もしくは〈親和力(引力)〉という概念は,その逆も含めて,錬金術的な自然学の中で永く生き続ける。ヨーロッパのルネサンス期以降,新プラトン主義やヘルメス思想に受け継がれたこの概念は,物質間の選択的な作用の説明に欠かせないものとなり,ニュートンも〈sociability〉という語でこの概念を利用している。ジョフロアÉtienne François Geoffroy(1672‐1731)は〈親和力表Table des differents rapports〉を作って(1718),そうした関係を具体化した。…
…I.ニュートンの万有引力の法則と運動の法則とに基づいて,主として太陽系内天体の運動を論ずる天文学の分野である。二体問題,三体問題,惑星運動論,月・衛星運動論,人工衛星運動論,軌道論,そして地球の歳差と章動,月や惑星の自転運動,平衡形状論などを研究の対象とする。…
…天文学が古くから高い段階の学問として成長したのは,それが民衆の生活に必要な知識を提供したばかりでなく,天体の運動にみられる整然さの中に人々が法則性をつかみとることができたからである。 近世における天文学はコペルニクスの地動説に始まり,ケプラー,ガリレイを経てニュートンに至って大きく進歩した。彼が発見した一般の力学法則および万有引力則に基づいて,18世紀には天体力学が著しく発達した。…
…場の概念は,必ずしも〈場〉と呼ばれない場合も含めて,今日,科学の諸領域で重要な役割を果たしつつある。それは,一つにはニュートン力学的な遠隔作用を前提とする力の概念に対抗して,またもう一つには原子論的発想に対抗して,とりあえずは19世紀に生まれた。したがって,出発点は物理学にあるといってよい。…
…
【波動としての光】
光学の歴史は古く,古代ギリシアのユークリッド(エウクレイデス)は光が直進することや反射の法則について記述を残しているが,光学が近代的学問としての装いを整えるようになるのはさまざまな光学器械が登場する16世紀以降のことであり,また,これに伴って,光の本性をめぐっての論争も活発化する。光学
[波動説の確立]
ニュートンはプリズムを使った観察から,白色光が多数の色の異なる光に分けられることを見いだし,光の微粒子とこれに刺激されて振動する媒質(エーテル)というモデルを考えて光学現象を説明しようとした。ただしニュートンは光の粒子説をかならずしも積極的に主張したわけではない。…
…微積分学は微分学(微分法)と積分学(積分法)とを合わせた名称であるが,この二つは別々に考えるべきではなく,いっしょに考えるべき数学の体系であるから,両方を合わせて微積分学,あるいは略して微積分という。微積分は1670年ころにI.ニュートンとG.W.ライプニッツによってほとんど同時に発見された。発見の当初には,2人のうちどちらの発見が早かったか,またどちらかが他方の発見を知っていたのではないかということについて,激しい論争があった。…
…起源については明らかでないが,多くの稜をもつガラスに光を入射させるとスペクトルが得られることは古くから知られていたようで,1世紀にL.A.セネカが書いた《自然の研究》にもこのことが述べられている。プリズムに関してはニュートンが行った太陽光によるスペクトルの実験が有名で,彼は第1のプリズムによって得られたスペクトルを第2のプリズムを通すと再び白色光となることから,それぞれのスペクトルはもともと太陽光に含まれており,これらが集まって白色光となることを明らかにした。(1)分散プリズム 分散,すなわち透明体の屈折率が波長によって異なることを利用して光とスペクトルに分けるもの。…
…ニュートンの主著の一つ。1687年刊。…
…運動している物体につねに運動力が働いているのではなく,物体は,静止しているものは静止の状態を,運動しているものはその運動の状態を保持し続けようとする傾向をもつという慣性概念は,デカルトによって最終的に定式化された。そしてこの二つの線の交わるところにニュートンがいた。ニュートンはケプラーのように,天体の運動を力学的観点からとらえ,惑星にもデカルト的慣性をあてはめて,惑星が慣性運動をしないのは,太陽に向かってつねに引力によって引かれているからであると考えた。…
… ドイツ,さらにフランス,イギリス,オランダなどに浸透した錬金術思想は,宗教,哲学,文学,化学技術その他のさらに大きなるつぼとなり,M.マイヤー,J.ベーメ,N.フラメル,ノートンThomas Norton,リプリーGeorge Ripley,E.アシュモール,J.B.vanヘルモントなど多くの逸材が輩出した。そればかりか,その後に近代化学や近代力学を確立したイギリスのR.ボイルやニュートンらの精神も,錬金術思想が内蔵する深い知恵で養い育てられた。しかし錬金術思想は,方法論においてはるかに明確な近代物理化学の現実的・技術的な力には抗しきれず,その後は人間精神の深層に退き,むしろ芸術の分野に霊感を与えることになった。…
※「ニュートン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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