ハンガリー出身のアメリカの数学者。量子力学の数学的基礎づけ、作用素論およびエルゴード理論に重要な業績を残し、ゲームの理論、計算機理論を創始した。12月28日ブダペストの富裕な家庭に生まれる。父は銀行家で、1913年にハンガリーの爵位を受けた。1911~1921年ブダペストのルーテル教会系のギムナジウムに学び、彼の個人教師であったハンガリーの数学者フェケテMichael Fekete(1886―1957)と共著の論文を1922年に発表した。1921年ブダペスト大学に入学したが、1921~1923年をベルリン大学で過ごし、ついでチューリヒ工科大学に移り、1925年化学工学の学位、翌1926年ブダペストで数学の学位を得た。この時期ゲッティンゲン大学に通い、大数学者ヒルベルトのもとで研究。1927年ベルリン大学、1929年ハンブルク大学の講師となり、1930年プリンストン大学に招かれてアメリカに渡り、1933年にプリンストン高等研究所の教授となり、終生この地位にいた。
1920年代から1930年代にかけて、数学基礎論、集合論などで重要な成果をあげ、同時に量子力学の数学的基礎づけに取り組み、ヒルベルト空間論に入って作用素論を展開、その成果のうえに有名な書『量子力学の数学的基礎』Mathematische Grundlagen der Quantenmechanik(1932)を著した。作用素環の理論と関連して連続幾何学をつくりあげ、またエルゴード理論や位相群論を研究したのもこの時期である。1928年の「戦略ゲームの理論」は、のちにモルゲンシュテルンとの共著『ゲーム理論と経済行動』The Theory of Games and Economic Behavior(1944)に応用され、数理経済学その他に影響を与えた。また流体力学に強い関心をもち、乱流と衝撃波を研究した。流体力学の現象は非線形偏微分方程式によって表現されるが、その研究は数学的に大きな困難を伴う。第二次世界大戦中、軍事技術上重要な衝撃波や複雑な流体力学の問題にかかわり、その膨大な計算は彼の目を高速度計算機に向かわせた。当時彼はアバディーンの弾道研究所、海軍兵器局、およびロス・アラモス研究所の顧問であり、原子爆弾の開発(マンハッタン計画)に重要な役割を演じた。戦時中にここで世界最初の電子計算機の開発に加わり、そして戦後プリンストン高等研究所における電子計算機計画を指導、プログラム内蔵方式による計算機の論理設計を行い、今日の電子計算機の原型となったいわゆる「ノイマン型」計算機を試作した(1952)。計算機理論、オートマトン理論の研究に力を注いだが、研究なかばにして病に倒れ、1957年2月28日その生涯を閉じた。ノイマンの業績は彼の全集『Collected Works of John von Neumann』全6巻(1961~1963)に収録されている。
[常盤野和男]
『井上健他訳『量子力学の数学的基礎』(1957・みすず書房)』▽『H・H・ゴールドスタイン著、末包良太・米口肇・犬伏茂之訳『計算機の歴史――パスカルからノイマンまで』(1979・共立出版)』
ドイツの数学者、物理学者。ケーニヒスベルク生まれ。父は著名な物理学者F・E・ノイマン。1855年に博士号を取得、1858年ハレ大学の私講師、バーゼル、チュービンゲンの大学を経て、1868年ライプツィヒ大学教授となり、終生ここにとどまった。ベルリン・アカデミー会員となり、『数学年報』Mathematische Annalenの編集を担当した。
科学的業績ではポテンシャル論を完成したことで知られる。また父フランツとW・ウェーバーとがニュートンの遠隔作用力に基づいて発展させた電気力学を継承し、1863年には論文「光の偏光面の磁気回転」で、ファラデー効果の理論的説明を行った。1881年から1887年まで、父ノイマンの『数理物理学講義』全5巻の編集に携わった。
[河村 豊]
ドイツの物理学者。鉱物学者ワイスChristian Samuel Weiss(1780―1856)に影響を受けて自然科学を学ぶ。1831年、固体比熱に関するノイマン‐コップの法則を定式化。ついで光の媒質(エーテル)が弾性変化することを仮定して結晶体内での複屈折現象を説明した。非結晶質中の人工的な複屈折現象の開拓的な研究もした。さらに電磁気学研究では、レンツの法則をもとに数学的理論の展開を試み、1845年ノイマンの法則を定式化した。
科学の重要性が十分認められていなかった当時のドイツに、数理物理学の手法をフランスから移入してその育成に努め、ウェーバーとともに、ドイツの電気力学学派の創始者の一人となった。
[高橋智子]
アメリカの政治学者。ポーランド南部カトビーツェでユダヤ系ドイツ人職人の子に生まれる。ライプツィヒ大学などで学び、1927年よりベルリンの労働問題担当弁護士となり、その後ドイツ社会民主党法律顧問。1933年5月ナチス政府によってドイツ国籍を剥奪(はくだつ)され、ロンドンに亡命。1936年ロンドン大学でラスキの下で政治学の学位を取得後、同年アメリカに移り、市民権取得。社会調査研究所でまとめた『ビヒモス――ナチズムの構造と実際』(1942)はファシズムの優れた研究書として国際的な評価を得る。アメリカ政府のドイツ問題顧問を経て、1950年からコロンビア大学公法・政治学教授のかたわらベルリン自由大学創立に参画、旧西ドイツにおける「批判的政治学」の確立に貢献する。スイスで自動車事故により死去。
[安 世舟]
『岡本友孝・小野英祐・加藤栄一訳『ビヒモス――ナチズムの構造と実際』(1963・みすず書房)』▽『ノイマン著、内山秀夫・三辺博之他訳『民主主義と権威主義国家』(1971・河出書房新社)』
アメリカの政治学者。ドイツのライプツィヒに生まれる。1928年ライプツィヒ大学で『プロイセン保守主義の段階』(1930)で学位取得。ベルリンのドイツ政治大学講師(1929~1930)。1933年ロンドンに亡命。1934年アメリカ移住。ウェスレヤン大学に勤務し、1944年教授となる。彼は『ドイツ政党論』(1932)で多元的民主主義の機能条件を探ると同時に、その主要な条件の政党の構造分析を行い、ドイツにおける政党研究の開拓者の評価を得る。アメリカ移住後は多元的民主主義の敵である現代独裁問題に関心が移り、1942年に『大衆国家と独裁――恒久の革命』を著し、その後の全体主義研究を方向づけた。戦後、西ドイツの政治学の再建に協力し、ベルリン自由大学とミュンヘン大学より名誉学位を授与される。
[安 世舟]
『岩永健吉郎・岡義達・高木誠訳『大衆国家と独裁』(1960/新装版・1998・みすず書房)』
ドイツの建築家。ボヘミアのエーゲルに生まれる。軍事土木技術家として活躍したのち、ウュルツブルクの領主司教シェーンボルンの宮廷建築家となる。独自の動的で華麗な空間を創造したドイツ後期バロックの代表的建築家であると同時に、後年には優美なロココ趣味をも示した。世俗建築では、ウュルツブルク宮中央広間の大階段(1720着工)がティエポロの天井画とともにとくに名高い。そのほかブルックザール宮(1731)の大階段やブリュール宮の大広間(1743)など。教会建築ではフィアツェーンハイリゲン聖堂(1743)が代表作。ウュルツブルクで没。
[篠塚二三男]
チェコスロバキアの指揮者。生地プラハの音楽院を出て、チェコ・フィルハーモニーのビオラ奏者となる。1948年同楽団を指揮、指揮者としてデビューした。チェコ各地で活動ののち、64年ライプツィヒ歌劇場音楽監督ならびにゲバントハウス管弦楽団常任指揮者となった。68年チェコ・フィル首席指揮者となり、翌69年(昭和44)同楽団の日本演奏旅行に同行して初来日。端正な造型を重んじ、明快な表現のなかに詩情を漂わせ、滋味にあふれた演奏を身上とする。チェコの音楽のほか、マーラーを得意にしていた。
[岩井宏之]
オーストリア生まれのユダヤ系小説家。1934年イギリスに亡命、38年市民権取得。デビュー作『他人の筆を借りて』(1927)は、著名作家を痛烈に風刺した文学的パロディー集。しかし彼の本領は時代批判にあり、長編『ノアの洪水』(1929)、『ビビアーナ・サンティス』(1950、部分的には1944)、『犯罪事実』(1965)は、それぞれナチズム、抵抗運動、過去の罪過などアクチュアルな問題と真正面から対決している。
[丸山 匠]
チェコスロバキアの詩人。プラハの良家に生まれたが早く父を失い、20歳前から社会主義労働運動に参加。当初のアナキスト的立場からしだいに共産党のプロレタリア芸術運動に移り、第二次世界大戦中の地下党活動を経て、解放後は党文化面での代表的存在となった。代表的詩集は『森と水と山中の書』(1914)、『新しき歌』(1918)、『赤い歌』(1922)、『愛』(1933)など。
[飯島 周]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ドイツの後期バロック(ロココ)の建築家で,その頂点に立つ。鋳造職人から出発し,軍事技術家を経,ビュルツブルク司教館の建設(1720-44)に際して,L.vonヒルデブラントら著名な建築家と協同し,本格的な建築家に成長。土木・構造技術にもたけ,かつ彫刻家,画家と協同して制作にあたる総合的建築家であった。ビュルツブルク司教館では皇帝広間,サラ,テレナの両楕円形広間,大階段ホール,および礼拝堂に迫力ある造形が見られる。ほかにブルッフザール宮殿(1733),ブリュール宮殿(1748)などの宮殿建築に関与。教会建築では名作フィアツェーンハイリゲン(十四聖人)巡礼教会(1772),ネレスハイム修道院教会(1745以降)などを手がけ,複数の楕円形を組み合わせた平面(プラン)を基に波うつ天井面や壁面,変化に富む柱配置を見せる。特に光と色彩による内部空間の造形で傑出していた。
執筆者:杉本 俊多
ドイツの鉱物学者,物理学者,数学者。ボヘミアの鉱山町ヨアヒムシュタールの生れ。ベルリン大学で神学を学ぶが,1818年にイェーナに移って後,鉱物学の研究を始め,さらに鉱物学と結晶学とを学ぶために,19年にベルリンに戻った。29年にケーニヒスベルクの大学で鉱物学と物理学の教授となり,鉱物の比熱の研究や,結晶中や非晶質中での複屈折の研究を行った。31年,コップHermann Franz Moritz Kopp(1817-92)とともに固体のモル比熱が近似的に成分元素の原子熱(1グラム原子に対する熱容量)の和に等しいというノイマン=コップの法則を見いだした。45年には,レンツの法則に基づいて誘導電流の法則を数学的に定式化し,ノイマンの法則を導出した。W.ウェーバーとならんで,遠隔作用論の立場に立つ電磁気理論の開拓者となった。
執筆者:日野川 静枝
イスラエルの心理学者。ベルリンのユダヤ系の家庭に生まれ,エルランゲン,ベルリン両大学に学び,哲学博士号と医師資格を取得した後,1934年チューリヒに赴きC.G.ユングの教えを受ける。同年イスラエルのテルアビブに移住,臨床に携わるかたわらユング派心理学の普及に努めた。神話学,宗教学,美術史などを援用した人類史における意識の起源,女性原理の諸相の探求の試みは,主著《意識の起源史》(1949),《グレート・マザー》(1955)に結実している。その構想の壮大さ,視野の広さは師の仕事の実り多い継承というにふさわしい。
執筆者:荒俣 宏
ドイツの数学者,理論物理学者。F.E.ノイマンの子。ケーニヒスベルクに生まれ,1868年秋から1911年の退職時までライプチヒ大学に在職し,基礎数学を教えた。ポテンシャル論の分野で活躍し,とくに境界値問題の研究では,70年に等差中項の解法を開発するなど,先駆的業績をあげた。また,対数的ポテンシャルの項をもつくり出した。ベルリン・アカデミーや,ゲッティンゲン,ミュンヘン,ライプチヒの学会の会員であり,《数学年報Mathematische Annalen》の編集にも携わった。
執筆者:日野川 静枝
チェコの社会主義詩人,言論人,文芸および美術評論家,出版人。政治面でも創作面でも複雑な過程を経て,個人的なアナーキズムから共産主義に転じ,チェコスロバキア共産党創立メンバーの一人となる。党の文化政策の推進者。代表作は詩集《森と水と傾斜地の書》(1914)。ほかに《思い出》(1931)。
執筆者:千野 栄一
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…ドイツの化学者。チューリヒとビュルツブルクで医学を修め,ハイデルベルクでR.W.ブンゼンに化学を,ケーニヒスベルクでノイマンF.E.Neumann(1798‐1895)に数理物理学を学んだ。ブレスラウ,カールスルーエなどで教えた後,1876年より死ぬまでチュービンゲン大学に勤めた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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