( 1 )(イ)は、補助動詞「なさる」が変化した「やはる」が四段動詞の連用形に付いて、拗音化し(例、書きやはる→書きゃはる)、さらに直音化したもの(書きゃはる→書かはる)。
( 2 )(ロ)(ハ)(ニ)は、(イ)で成立した助動詞「はる」を「なさる」と同様に接続させて用いるようになったもの。
アメリカの物理学者、電気工学者。コネティカット州に生まれる。エール大学に学び、1914年ゼネラル・エレクトリック社(GE)に入る。1919年、真空管の雑音除去のため遮蔽格子管(しゃへいこうしかん)をショットキーWalter Schottky(1886―1976)とは独立に発明した。1921年に磁界を併用したマイクロ波管である磁電管(マグネトロン)、1932年に熱陰極グリッド制御放電管(サイラトロン)を発表するなど、電子管の発達に大きな役割を果たした。1930年代には真空管のガラス封入に関する基礎研究がある。またX線回折による結晶解析の仕事でも知られ、デバイ、シェラーとは独立に粉末法を考案した(1917)。
[常盤野和男]
アメリカの心理学者。ニュー・ヘブンに生まれる。ミシガン大学で心理学を修める。1929年来、エール大学教授として新行動主義の指導的役割を演じた。初期には催眠研究などにも関心を寄せたが、主として条件づけによる学習研究に業績を残した。生体の環境への適応という見地から要求低減を原理とする反応説を主張、トールマンの認知説と対立し、強化に基づく習慣強度habit strengthを仲介変数とした行動の数量的組織体系を目ざした。一連の定義と公準とから演繹(えんえき)される仮説を実験的に検証する仮説演繹法hypothetic-deductive methodの手法は、近年の行動理論の数理モデルに深い影響を残している。主著に『Principles of behavior』(1943年、邦訳名『行動の基本』)がある。
[小川 隆]
『河合伊六訳『行動の基本』(1980・ナカニシヤ出版)』
アメリカの政治家。10月2日テネシー州生まれ。カンバーランド大学卒業。弁護士、テネシー州下院議員、判事を経て、連邦下院議員(1907~1921、1923~1931)、連邦上院議員(1931~1933)を歴任。自由貿易主義者として知られ、F・D・ルーズベルト政権の国務長官に起用された(1933~1944)。1933年第7回汎(はん)アメリカ会議に出席、翌1934年互恵通商協定法を制定に導き、対ラテンアメリカ善隣外交を推進、第二次世界大戦勃発(ぼっぱつ)後パナマ、ハバナ両米州外相会議で中南米諸国との結束を強化した。太平洋戦争直前の対日交渉では「ハル・ノート」を提示(1941年11月26日、日本時間27日)して強硬方針を貫き、参戦後、国際連合憲章草案の作成など、その設立準備に指導的役割を演じ、1945年ノーベル平和賞を受賞。
[新川健三郎]
イギリス、イングランド北東部にあるユニタリー・オーソリティーUnitary Authority(一層制地方自治体)の都市。正称キングストン・アポン・ハル。人口24万3595(2001)。ロンドン、リバプールに次ぐイギリス第三の港湾都市。港はハンバー川の三角江の北岸、ハル川との合流点に位置する。ヨークシャー県やリンカーンシャー県の外港の役割を果たし、取扱い貨物量が多い。国内随一の遠洋漁業基地でもある。造船をはじめ食品加工、化学、製材、船舶修理などの工業が港周辺に立地する。12世紀後半シトー修道会が寺院領内産の羊毛の積出し港にこの地を選んだのが市の起源。さらに1293年エドワード1世が修道院から港を入手し、新しい町をつくってキングストン(キングス・タウン)とよんだのが地名の由来である。18世紀後半に港の拡張とともに発展した。14世紀のホーリー・トリニティ教会、旧港湾事務所であったドック博物館、奴隷解放論者W・ウィルバーフォースの生家、当地出身の先駆的女性飛行士エミー・ジョンソンの像などがある。
[久保田武]
カナダ、ケベック州南西部の都市。オタワ川の北岸に位置し、対岸に首都オタワがある。人口6万6246(2001)。住民の約90%をフランス系が占める。1800年の建設はオタワより早く、北米でも有名な木材工業地となった。パルプ、製紙、製材などの軽工業が発達し、ほかにセメント、印刷機械、鋳物などの工業がある。近くに長石、雲母(うんも)、鉄などの有用地下資源があり、鉱業も活発で、ケベック州有数の工業都市である。
[山下脩二]
イギリス,イングランド北東部,ハンバーサイド州中部(旧ヨークシャーのイースト・ライディング地区)にある港湾・工業都市で州都。正式にはキングストン・アポン・ハルKingston upon Hull(〈ハル河畔の王室荘園〉の意)と呼ぶ。人口24万7900(2003)。ハンバー川のエスチュアリー(三角江)にハル川が流入する地点に位置し,古くから北海のトロール漁業や捕鯨の基地として重要であったが,産業革命以後はヨークシャー工業地域を後背地とする貿易港として発展した。ハル自体も造船,油脂をはじめ,化学,精油,製材などの工業を有する。1160年ごろにはワイク・アポン・ハルという市場町であったが,エドワード1世が13世紀末に新しい都市を建設し,現地名に改めた。大規模な埠頭は18世紀後半から開設され,ハンバー川沿いに拡張されていった。市街はビクトリア女王広場からのびる放射状道路を中心に発達し,イングランド最大級の教区教会であるホーリー・トリニティ教会や,奴隷解放論者のW.ウィルバーフォースが学んだグラマー・スクール,1954年に総合大学となったハル大学などがある。
執筆者:長谷川 孝治
日本音楽の用語。〈張〉とも書く。音高が高くなることに関連して用いられるほか,音量の増大を意味する場合もある。まず謡(うたい)では,中音から上音に上行することをいう。ただし,謡本によっては〈ハル〉ではなく〈上〉と記すものがあり,〈ハル〉を用いる謡本でも,冒頭だけは〈上〉と書く。サシ上音から下行した中音が,普通の上音に上行するときは,とくに本バリと称する。また,クリ音や中音に移行せず,上音を中心に推移する旋律をハリ節と称する立場がある。
三味線音楽では,音高がやや高めである,あるいは高めにすることをハルという。能楽囃子や歌舞伎・長唄囃子の鼓や太鼓でも,空気が乾燥して音が高くなった結果,深味のない音色として感じとられたときに,ハッているという。これらの楽器のハルはメルに対する。三味線音楽でも浄瑠璃には,それとは別にフシの名称としてのハルがある。その概念はかならずしも明確ではないが,三味線の第3弦の開放弦から始まるフシをしばしばハルというほか,ハルウ,ハルフシ,フシハルなどが区別されている。
雅楽では,音高を高くすることをカルといい,ハルの語を音量の増加に対して用いている。
執筆者:蒲生 郷昭
アメリカの政治家。テネシー州オーバートン生れ。1891年カンバーランド大学卒業と同時に弁護士の資格を取得。州議会議員を経て,1907年から連邦下院議員,31年からは連邦上院議員の職にあった。とくに税制問題に手腕を発揮し,1913年に所得税法を立案。33年F.D.ローズベルト大統領から国務長官に任命され,44年病気で辞任するまでその職を務めた。1933年から40年にかけてモンテビデオ,ハバナなどで開催された米州会議に臨み,ラテン・アメリカ諸国との善隣友好政策(善隣政策)を実施し,また関税引下げや互恵通商関係の確立に努力した。日本軍部のアジア侵略に厳しい態度を示したが,日米開戦直前には両国の衝突回避のため野村吉三郎大使と交渉を重ね,ハル・ノートと呼ばれる提案を行った。第2次大戦中は国際連合の実現に尽力し,44年のダンバートン・オークス会議などに出席。〈国際連合の父〉と呼ばれ,45年ノーベル平和賞を受賞した。
執筆者:藤本 博
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1871~1955
アメリカの政治家。民主党員。連邦下院・上院議員をへて,1933年F.D.ローズヴェルト政権の国務長官に就任。同年ロンドン世界経済会議のアメリカ代表,モンテビデオ汎米会議で内政干渉権を否認して中南米に対し善隣外交を推進,互恵通商協定の実現に努めた。第二次世界大戦に際し国際連合の設立に尽力,「国際連合の父」と呼ばれる。45年ノーベル平和賞受賞。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…細断片は溶解槽(加熱用のスチームジャケットを備えたステンレス鋼製の容器)へ入れられ,硝酸を加えて沸騰させる。燃料酸化物は硝酸と反応して硝酸溶液となり,一方,燃料を被覆しているジルカロイ(ジルコニウム合金)は硝酸と反応しないために不溶性残渣(ハルと呼ばれる)となって溶解槽の中に残るので,この槽から取り出され高レベル固体廃棄物として処理される。溶解に伴って発生したガス(溶解オフガス)はヨウ素,クリプトンなどの揮発性の核分裂生成物や窒素酸化物などを含むので,廃気処理工程で処理したのち工場の排気筒から大気中へ放出される。…
…彼は40歳のとき,2度目のイタリア旅行でイタリア・ルネサンスの建築家A.パラディオの作品に感激し,イギリスにおけるパラディオ主義の最初の大建築家となった。18世紀前半に,イギリス有数のパトロンで同時に建築家でもあったバーリントン伯が出るに及んで,パラディオ風の古典様式はイギリスに完全に根を下ろした。1666年のロンドン大火は,ジョーンズの晩年に生まれたC.レンの才能を発揮するうえでの大きなチャンスとなり,このとき新築されたセント・ポール大聖堂は彼の代表作となった。…
…グランド・ツアーは,イギリスにおいて,パラディオ主義の流行を促し,また16~18世紀イタリア美術のコレクションの形成に寄与した。たとえば,第3代バーリントン伯爵は,1710年代のグランド・ツアーからの帰国後,建築家のパトロンとして,また自らも設計者としてパラディオ風建築の普及につとめたことが知られる。【鈴木 杜幾子】。…
…イギリスの古典主義建築家,画家,家具デザイナー,造園家。ローマで絵画の修業中出会ったパラディオ主義者バーリントン伯に連れられ,1719年帰国,以後協同して室内装飾と建築設計を始める。対称と比例,重厚な装飾を追求した独自の作風をホーカム・ホール(ノーフォーク,1734着工)やホース・ガーズ(ロンドン,1758)で展開。…
…すなわち古代ローマ建築の構造を重視する簡素なパラディオ主義が復活し,その信奉者イニゴ・ジョーンズへの回帰が企てられた。バーリントン伯の庇護下にコリン・キャンベルは《ウィトルウィウス・ブリタニクス》(1715)第1巻を,W.ケントは《イニゴ・ジョーンズのデザイン》(1727)と銘打った室内デザイン図集を刊行し,これらはイギリスにおけるパラディオ主義の住宅様式の指針となった。しかしこの間,壮麗なイギリス・バロックの頂点ともいうべきブレニム宮殿が完成し,ここに,フランス風の幾何学的庭園術に対して自然の景観を生かしたイギリス式造園法が確立された(庭園)。…
…なかでも,パラディオ没後ベネト地方の建築界に君臨したスカモッツィ,イギリス近世建築の祖イニゴ・ジョーンズらは有名。特殊な例として,1720‐60年ころにかけて,イギリスのバーリントン伯爵の企てた建築界全体のパラディオ化があり,この結果,有産階級がこぞってパラディオ風のカントリー・ハウスを建てた。新古典主義期以後,パラディオ主義はロシアや新大陸にも及び,アメリカ大統領ジェファソン(みずからバージニア大学を設計)のような例もみられる。…
※「ハル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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