麵麭,麪包とも書く。日本語のパンはポルトガル語のpãoからきた名で,pãoはラテン語のpanisを語源とする。フランス語のpainも同じである。英語ではbread,ドイツ語ではBrotと呼ぶ。
パンという語は二通りの意味があり,一つは〈生命の糧〉というように,人間を養ってくれる食糧一般に対して,畏敬の念をこめて,象徴的な意味で用いられている。次に狭義のパンは,小麦,ライ麦などの穀物の粉に,水とイーストその他の材料を加え,こね上げたもの(ドウdoughという)を発酵させて焼いたものをいう。
世界のパン類
しかし,ヨーロッパ以外でも,世界のさまざまな小麦栽培地帯を中心に,パンに類似した多様な食物が存在する。それらを大別すると発酵したドウを加熱して作るものと,無発酵のまま料理するものとの2種がある。発酵のものでも,ヨーロッパのパンのようにイースト菌を加え人工的に発酵させるものはむしろ例外で,多くは,ドウを一夜ねかせて自然発酵させる。中尾佐助の《料理の起源》によると,ユーラシア大陸でのパン類の分布は次のようなものである。中国の麦作地帯である華北平野では,発酵蒸しパンのマントウと無発酵・発酵の両方が混在するピン(餅)類がある。ピンは,小麦粉をこねて,焼いたり,蒸したり,煮たり,油で揚げたりしたものの総称である。パンジャーブ地方を中心とするインド,パキスタンの麦作地帯では,全粒の小麦粉をねって無発酵のまま鉄板で焼いたチャパーティーをはじめ精白粉を発酵させてつくるナンなど(パン類を総称してローティーと呼ぶ)が食べられている。チャパーティー利用圏はアフガニスタン,イランにも及んでいるが,チャパーティーに類似したものも多く,油で焼くパラタ,油で揚げるプウリーなども無発酵のものである。ナーンはインド以西,中東,北アフリカの地中海岸にかけて広く普及している。ナーンは,発酵したいわば薄パンで,一晩置いたドウの薄板を,高熱のカマドの側壁に貼って焼く。二つ折り,四つ折りにして羊の串焼き(シシカバブ)や野菜を包んで食べるが,発酵性でかまどを用いるという点では,ヨーロッパのパンに近似している。中東の農村では,ナンをさらに薄く焼いたタンナワーを食べる。これと並んで中東には,かまどの底で高温で焼いたバラディーという丸く平らなパンもあり,西へいくほど,パン類の種類は豊富になる。そのほかでは,トウモロコシを材料としたメキシコのトルティリャは無発酵のパン類,テフという雑穀を材料としたエチオピアのインジェラは発酵性のパン類の一種ということもできよう。世界のパン類文化は自然,気候,材料から調理道具,食器などにいたるさまざまな条件によって多様だが,以下ここでは,狭義のパンの歴史を中心に記述する。
→竈(かまど)
歴史
ヨーロッパを中心にしたいわゆるパンの歴史は,粒食→粥食→平焼きパン(無発酵パン)→発酵パンという段階を経たと考えられている。熱い灰や焼石の上へこぼれた粥が焼けかたまって平焼きパン(Fladen,galette)が生まれ,平焼きパンのドウを焼くようになってから,放置しておいた残りもののドウが翌日には野生の酵母菌や乳酸菌などによって膨らんでおり,それを焼いたところ美味かつ消化のよい発酵パンができたというのが定説のようである。パンは,小麦栽培が最初に行われたメソポタミアにおいて今から6000年ほど前に発祥したといわれる。古代エジプトではメソポタミアの影響を受けて早くからパンの製造が行われ,中王国時代(前22~前18世紀)には発酵パンも作られていた。前16世紀ころからはとくに盛んだったようで,ラメセス3世(在位,前1198-前1166)はイシスとオシリスの神殿へ600万個ものパンを捧げたといわれる。この時代にはまだ石臼はなく,平らな石の上で穀粒をすりつぶして粉を作っていた。また,ドウをこねるには足で踏みつける方法で行っていたことを,ヘロドトスは記している。かまどは粘土製の釣鐘形のもので,たきぎを燃したあと,おき火をかき出し熱い床や灰の中で焼いた。のちにはかまどの内壁に,平らにのばしたドウを貼りつけて焼くといった方法もとられた。
古代ギリシアでは前6世紀前後から発酵パンが焼かれていた。最初は大麦によるものが主であったが,のちには大麦パンは奴隷や兵士の食物となった。ギリシアではドウの発酵を,ブドウのしぼり汁を加えることによって行っていた。ワイン酵母を利用したのである。前5世紀になるとパン屋という職業が生まれ,果実やはちみつを混ぜた菓子パンも作られるようになった。ギリシアのパンは形も豊富であり,動物や半月の形を模した〈形象パン〉も作られ,神々への供物とされた。古代のローマ人たちは大麦の粥を主食としていたが,前3世紀に至って,ようやくギリシアからパン職人をつれてきてパンを作らせるようになり,前2世紀にはローマにパン屋があらわれた。初期には大麦による発酵パンが好んで食べられていたが,しだいに小麦パンへと移行していった。ポンペイの遺跡からは当時のパン屋のあとがそっくり出土しており,当時のベーカリーがどのようであったか如実にわかるが,すでにこの時代には牛馬を使っての大がかりな製粉用石臼やドウの混捏(こんねつ)機も使われていた。かまども長足の進歩をとげ,燃焼炉を別に設けた石造りの大規模なものになっている。このローマ式のかまどは,以後19世紀になり近代的オーブンが出現するまで,ほとんど変化することなくヨーロッパ中世,近世を通じて使用されていた。4世紀のローマには300軒ものパン屋があって,同業組合を結成し,消費者の階層別に質を異にするさまざまなパンを作っていた。
ヨーロッパ中世における発酵パンについての最古の資料は10世紀のものである。もっとも,それ以前にもゴート人は発酵パンを知っていたともいわれるし,6世紀にはライ麦パンも作られていた。10世紀になり,都市の成立とともにパン屋の同業組合が生まれ,量目や品質について厳密な規定が設けられ,徒弟制度も始まることになった(中世のパンについては次章[ヨーロッパのパン屋]を参照されたい)。
ヨーロッパでは古代・中世を通じて,パンは必ずしも庶民の日常的な食べ物とはいいがたいものであった。たいていは小麦以外の雑穀を粥にして食べていたのであり,とくに小麦による白パンは民衆レベルではめったに口にできないものであった。しかし時代とともにパンは広い層へと浸透し,人々もパンを食べるのを渇望するようになった。1789年10月,パリ市民は女性を中心として,いわゆる〈ベルサイユ行進〉を行ってパンを要求し,フランス大革命の口火となった。18世紀以後,パンの発酵用にビールの醸造業者が酵母菌を供給するようになり,それまでなん世代にもわたって野生酵母を培養,利用していた手間が省けるようになった。また1890年代に入ると近代的なスチーム・オーブンが開発され,ローマ時代以来不変だったかまどにも大きな変革が起こって,その能力は飛躍的に向上した。製粉技術も,蒸気を利用したロール式製粉法が生まれ,粉自体の品質が大きく改善されることになった。
執筆者:熊崎 賢三
ヨーロッパのパン屋
犂(すき)起しと種まき,収穫の祭りのときなどにパンは力と恵みのシンボルとして大きな役割を果たしていたが,同時に魔よけとしても用いられていた。このようなパンをめぐる多彩な生活習俗は,本来家庭の主婦が焼く自家製のパンをめぐる伝統に基づくものであった。
かまどには2種類あり,発酵させない平形パンを焼く半球形の粘土製のかまどは,ケルトとローマからドイツに伝えられたといわれている。他方でスラブからドイツに伝えられたかまどは石でできており,パン焼き専用ではなく料理もできた。後者のかまどが普及するようになるとかまどはどこの家でもつくられるようになった。しかし,中世においては領主の水車を使用して粉をひかなければならない強制権と並んで,パンを焼くときにも領主のかまどを使用することが農民に義務づけられており,農民にとっては大きな負担となっていた。中世後期になると大荘園は姿を消すが,パン焼専用のかまどの設置には費用がかかったから,領主は隷属民に荘園内のかまどを使用させるか,あるいは村落内にかまどを作り,パン屋に賃貸したのである。
農村のパン屋は耕地をもつ半農半工の手工業者であって,農民はあらかじめ自宅で粉をこねてからパン屋を呼ぶ。パン屋は馬車でそれをパン焼小屋に運んでパンを焼いてから客に届けた。一定量の穀粉からつくられるパンの数は定められており,パン焼き賃はつねに一定数のパンで支払われた。村のパン屋は領主の特権を行使していたから,村内でやや特殊な地位を占めていた。農民は1年間の労働の結晶である粉をパン屋にゆだねるにあたって警戒を怠らなかった。ところによってはパン屋が練粉を小屋に運ぶとき客の前を歩かなければならないとされている。パン屋が練粉をくすねないよう監視するためである。またパン屋が大きさの不ぞろいなパンを焼き,いちばん大きなパンを焼賃としてとらないように,パン屋は焼き上がったパンをすべて客の家に運び,そこで焼賃のパンを受け取ることになっていたところもある。
12~13世紀に成立した都市のパン屋は,農村のパン屋と違って都市の食糧供給の要の地位にあったから,早くから肉屋と並んで市内で有力な地位を占めていた。都市の成立とともにパンは市場向けに生産,販売された。市民がみずから粉を練り,パン屋が焼くという農村と同様な形式も,長い間商品生産としてのパン焼きと並んでのこっていた。このような賃しごととしてのパン焼業者は,ツンフトを結成したパン屋の手工業者から蔑視(べつし)されていた。
パン屋がツンフトを結成し,食糧供給の要の位置を占めていたから,市当局は早くからパン屋が独占価格を恣意(しい)的に設定しないよう公定価格の上限を定めていた。原則としてパンの公定価格は変えず,穀物価格が変動するにつれて,パンの大きさを変えていったのである。しかし,一定限度以上に穀物価格が上がった場合,パンの目方が減らないように消費者保護の政策がとられていた。19世紀にオーストリアの俳優J.ネストロイは舞台の衣裳にウィーンのパンの形をしたボタンをつけて登場し,観客の喝采(かつさい)をあびた。当時のウィーンのパンが小さくなり,人々の不満の的だったからである。しかし,ウィーンのパン屋組合が訴えを起こしたために,ネストロイはパン屋を侮辱したかどで逮捕され,留置された。釈放されたとき,おおぜいの人々が迎えに出た。友人が〈ネストロイ,獄中でおなかがすかなかったかね〉とたずねると,ネストロイは〈いやいや獄吏の娘が私にほれてね,ウィーンのパンを鍵穴からこっそり差し入れてくれたから,ひもじくはなかったよ〉といってまたもや大喝采をあびたのである。この話にみられるようにパン屋の独占はかなり強力であったから市当局は規制措置も講じていた。市民は余裕があれば,みずからかまどを設置しえたし,市当局はパンが不足になると農村のパン屋に自由市場を開かせた。肉屋の場合と同様にパンの品質についても厳しい規定があった。白パン作りは大麦を買うことすら禁じられていた。白パンに大麦を混ぜることは禁じられていたためである。1786年のビュルテンベルクでは,ミョウバン,しっくい,白亜,灰,そら豆などを混ぜることも禁じられている。この規定からこれらのものがときどき混ぜられていたことを推察しうるのである。
執筆者:阿部 謹也
日本のパン事始め
日本人がはじめてパンを知ったのは天文年間(1532-55)に来航したポルトガル人によってであったが,パンの名が文献に見られるのは18世紀に入ってからのことになる。《和漢三才図会》(1715)は,蒸餅(じようべい)というのはあんなしのまんじゅうで,オランダ人は常食として食事ごとに1個ずつ食べており,それを〈波牟〉,つまりパンと呼んでいると書いている。パンというのは中国式の〈饅頭(マントウ)〉だという認識だったわけで,たしかに江戸参府のオランダ使節にはそうした蒸しパンが供されていた。ただし,オランダ人が長崎の居留地で食べていたのも蒸しパンだったかどうか,彼らが自国語のブロートbroodではなく,ポルトガル語でパンと呼んでいたかどうかは別問題である。しかし,一部にはエジプト以来の発酵パンの焼き方も伝わっていた。1718年(享保3)刊の《御前菓子秘伝抄》という本にそれが書かれている。まず,小麦粉を甘酒でこね一晩ねかせて〈ふるめんと〉を作る。〈ふるめんと〉はポルトガル語のfermentoで発酵した物の意で,このふるめんとを小麦粉に加えて水でこね,適宜の形にして数時間置くとふくれてくる。それをかまどで焼くというのであるが,かまどは土を厚く塗りたてた釣鐘形のもので,その中でたきぎをたいて,おきや灰をかき出し,そこへ並べて余熱で焼くというものであった。まさにヨーロッパのパンのつくり方がほぼそのまま伝えられていたのであるが,残念ながら江戸時代にはこの方式でパンを焼いた記録は見られないようである。
執筆者:鈴木 晋一
パンの種類と製法
パンは長い歴史の中で,それぞれの地域独自の発展をとげており,“地方のパン”がそれぞれ特色のある“民族のパン”,または“ナショナルなパン”を形成している。しかも,ドイツだけでも300種類ものパンがあるといったぐあいで,分類も一様には行いがたいが,通常は以下のように区分している。
パンは大別すると,無発酵パンと発酵パン,および化学的膨張剤--例えばベーキング・パウダーやソーダで膨らますものとに分かれる。無発酵パンというのは,インドのチャパーティーのように,うすく焼くものであって,化学的膨張剤によるものとしては,中国の饅頭,イギリスのスコーンといったものがある。ここでは発酵パンを中心にみていくことにする。
発酵パンはそこに使用される穀粉によって,小麦パン(白パン)とライ麦パン(黒パン),および両者の粉を混ぜた混合パンに分けうる。フランスのバゲット,ドイツ圏のゼンメル,米英の食パンといったものが,白パンの代表的なものである。黒パンはドイツのロッゲンブロートやプンパーニッケル,混合パンには百姓パンと呼ばれるバウエルブロートやミッシュブロートなどがある。配合材料からは,リッチなパンとリーンなパンとに分けることもできる。上にあげたような,穀粉,水,イースト,塩のほかには何も加えないようなパンはリーン(貧しい)なパンと呼ぶ。これに対して,バターや鶏卵をたっぷり加えたブリオシュやクロワッサンなどはリッチなパンという。また,乾果をたっぷり混ぜるイタリアのパネトーネやドイツ系のシュトレンといったものは,菓子パンといったほうがよいが,やはりリッチなパンに属する。英米のものではローフパン(食パン)はリーン,バターロールはリッチに分類される。このほか,折り込みパイと同じように,イースト入りのパン生地(ドウ)で油脂を包み,なん回か折りたたんで作る,いわゆるデーニッシュペーストリーも,パンの一つとして欠かせない分野である。
パンの製造工程は,種類や材料の配合によってドウの仕立て方に若干の相違があるが,材料を混捏したあとは,第1次発酵,ガス抜き,分割とまるめ,第2次発酵,整形,ほいろ,焼成,冷却といった順序で行われる。材料の混捏はイーストを小麦粉その他にまぜ合わせてこねる操作で,直捏(じかこね)法,中種(なかだね)法,水種(みずだね)法などがある。直捏法は,ドウを作る際,水でといたイーストをそのまま他の材料へ混ぜてこねあげる方法で,混捏工程が一度ですみ,発酵に要する時間も少なくてすむ。中種法は,小麦粉の一部にイーストと水分を加え,この発酵を待って,残りの材料を混ぜ合わせる方法で,時間と手数はかかるが,香味のすぐれたパンを作ることができる。水種法は,液種法ともいい,水に少量の砂糖をとかし,イーストを加えてドロドロの液体を作り,それを発酵させたのち,小麦粉や他の材料を加えてこねあげるやり方で,製品の質を均一化するのに便宜である。以上,いずれかの方法で混捏したひと塊のドウを発酵器などに入れ,温度27~28℃,湿度75%程度にたもつ。これが第1次発酵で,1~1.5時間するとドウは2~3倍のかさに膨れ上がる。これを手で押しつぶし,端から中心に向けて折りたたむようにして,発酵によって生じた炭酸ガスを抜き,新しく酸素を補給する。このガス抜きによってイーストは再び活発な発酵をはじめ,ドウは粘りと弾力を増し,細かい気泡が密に含まれるようになる。このドウを所定の目方に分け,それぞれを丸めたあと,30~32℃で10~15分間ドウをねかせる。これが第2次発酵で,このあとまたガス抜きを行い,製品としての形を整えて〈ほいろ〉にかける。温度38~42℃,湿度85~90%の密室へ入れて膨張させることで,これを行ってからかまどへ入れ,200℃以上の高温で焼成する。焼成後はあまり時間をかけて冷却すると,α化したデンプンがβ状にもどって,いわゆる老化が生じるので,1時間程度でパンの中心温度が33~36℃に冷めるようにして仕上げる。
執筆者:熊崎 賢三
パン工業
食パン,菓子パン,学校給食用パンなどパンを生産する産業。日本におけるパンの生産量(小麦粉使用量)は約122万tで,種類別にみると食パン64万t,菓子パン34万tなどとなっている(1994)。また製パン業は食パン製造を中心とする大手メーカーと学校給食用パンを製造する中小メーカーに分けられるが,しだいに大手メーカーの比率が高まり,資本金1億円以上の大企業のシェアは1973年に39.4%だったのが,82年には53.4%となった。また1980年では山崎製パン,敷島製パン,フジパン,第一屋製パン,日糧製パンの大手5社で42.1%のシェアを占めている。
日本のパン工業は明治維新前後から始まった。最初はホテル,西洋料理店などで外国人向けにパンを焼いていたが,海軍が1873年から全面的にパン食を採り入れ,陸軍でも佐賀の乱,西南戦争の際大量のパンを使用した。74年に木村屋の木村安兵衛が米こうじを使ったパンにあんを入れた〈あんパン〉を売り出したのが評判となって一般に普及するようになった。その後90年の凶作のときの代用食として,また日清,日露戦争の軍用食糧として生産されたことも普及につながった。しかし当時のパンは現在の固いビスケットのようなもので,日本産の小麦では現在のようなパンの製造はできなかった。第1次大戦後日本でもパン製造に適した小麦が栽培されるようになり,アメリカからイースト菌による製パン技術が導入されたことにより,パン工業も近代化が進んだ。第2次大戦中は統制により製パンメーカーの合同が行われた。戦後はアメリカから小麦,小麦粉の援助があり,学校給食用にパンが生産され始めたことなどによりパン工業は急速に拡大し,企業数も増加した。1950年代後半になって,米価が低下すると,パンへの需要も一時停滞したが,経済の高度成長期に入ると,食生活の欧風化によりパンの需要も再び拡大し,74年には生産量が103万tと100万tの大台に乗った。しかし,1970年代後半にはパンへの需要も飽和化し,消費者の好みもそれまでのアメリカ風の食パンからフランスパンへと移ってきている。
執筆者:北井 義久
象徴,民族
西洋人にとってパンは,日本人にとっての米に相当し,一般に生命の源としての象徴的意味をになっている。古くはデメテルをはじめとする地母神の恵みをあらわす具体物として,小麦の初穂が神に捧げられた。これら麦類にかかわるシンボリズムや儀礼がパンにも引き継がれている。また,ちぎったパンには文字通り生命を分かち与えるという意味があり,ここから〈もてなし〉〈自己犠牲〉という隠喩が生じてくる。人々の糧となる穀物の枯死と生長を神格化したと考えられる。バビロニアのタンムズ(ドゥムジ)やギリシアのアッティスなどの葬礼祭には,パンをはじめ臼でひいた穀物を口にするのが慎まれた。キリスト教の聖餐(せいさん)でもパンをイエス・キリストの肉に,ブドウ酒を血にたとえる。また,エジプトの葬礼においてちぎったパンは死者の食物とされた。
パンを投げ捨てることは,ヨーロッパの家庭でとくに嫌われる。かけがえのない食物を粗末にするなとの戒めが生んだ習慣であるが,ローマ神話には次のような話もある。昔ローマが蛮族に包囲されたとき,ユピテルは敵の目の前にパンを惜し気なく投げ捨てよと神託を下した。ローマ市には大量の食糧備蓄があると見せかけ,敵に包囲戦をあきらめさせるためだったという。したがって,ローマでは彼を〈パン屋のユピテルJupiter pistor〉と呼んだ。一方,キリスト教においては,パンは生命を支える最重要の糧として多くの奇跡譚と関係している。《マタイによる福音書》には,空腹をかかえる信徒のためにイエスがわずか七つのパンと少しの小魚をさき,4000人の腹を満たしたことが語られる(15:32~38)。また伝説によれば,ドミニクスが弟子たちと食卓に座ったとき,食べものが何一つない卓に天使がパンを運んできたという。この話にちなみ,パンはドミニクスの持物となった。さらに,オランダの静物画では聖餐を表すものとしてこれが描かれ,ちぎったパンにはイエスの自己犠牲が寓されることになった。
中世から近世にかけて,パンは,ありきたりの食品の典型として〈取るに足らぬもの〉を意味するようになった。18世紀以後には〈バター付きパンbread and butter〉という成句が定着し,転じて〈食いぶち稼ぎのしごと〉という意味に使われたり,精神的豊かさを欠く必需品あるいは〈無味乾燥〉を表す用法ともなっている。なお,〈人はパンのみにて生くるにあらず〉というイエスのことばがよく引かれることがある。これは《マタイによる福音書》4章4節に出てくるもので,石をパンに変えよと試した悪魔への返答に含まれている。
→イースト →小麦 →ライ麦
執筆者:荒俣 宏