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アフガニスタン アフガニスタンAfghanistan

翻訳|Afghanistan

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アフガニスタン
Afghanistan

正式名称 アフガニスタン・イスラム共和国 Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān(ダリー語),Da Afghanestan Eslami Jamhuriyat(パシュト語)。
面積 65万2864km2
人口 2752万2000(2013推計)。
首都 カブール

中央アジアの国。北部はトルクメニスタンウズベキスタンタジキスタン,北東部は中国,南東部はパキスタン,西部はイランと接している。住民の約 40%はパシュトゥーン人(アフガン人)で,そのほかタジク人が約 30%,ハザラ人が約 10%,ウズベク人が約 10%を占める。公用語はダリー語(ペルシア語)とパシュト語。大部分の住民がイスラム教スンニー派に属する。全体として高原,山岳の内陸国。東部国境より中央部までヒンドゥークシ山脈が連なり,高いところでは標高 7600mに達する。カブールの北方あたりから 6000m級となり,コーヘババー山脈,バンディバヤーン山脈,セフィードクー山脈など各山脈と連なって国の中央部を東西に走る。この山脈を中心に四大水系が発達している。北流する諸河川を集めるアムダリア峡谷,西流するハリルード峡谷,南西流する諸河川を集めるヘルマンド川,中央から東流するカブール川が発達している。気候は地域により差が大きいが,乾燥した大陸性気候で風が強い。やや遅れた農業と牧畜が中心産業。工業は非常に遅れている。小規模な綿紡織,セメント,羊毛,甜菜糖,果実加工,缶詰工場があり,カブールとカンダハールがその中心地。乾燥果実,絨毯などが主要輸出品。道路および空路によって各国に通じている。カブール-カンダハール-ヘラートマザーレシャリーフ-カブールの環状道路が幹線。2011年に国内初の商業用鉄道の運行が開始された。1979年のクーデターで共産主義政権が成立後,軍事・経済面でソビエト連邦に依存してきたが,反政府ゲリラとの内戦により国土は荒廃し,1989年ソ連軍の撤退後もゲリラ同士の主導権争いから内戦が続いた。1996年イスラム原理主義組織タリバンがカブールを制圧,国内の大半を支配下に置いたが,2001年9月のアメリカ同時テロ事件をきっかけにアメリカ合衆国,イギリス軍の空爆を受け,タリバン政権が崩壊した。同年 12月国際社会の協力のもとアフガニスタン暫定行政機構が発足,2004年新憲法が制定された。(→アフガニスタン史

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百科事典マイペディアの解説

アフガニスタン

◎正式名称−アフガニスタン・イスラム共和国Jomhuri-ye Eslami-ye Afghanestan/Islamic Republic of Afghanistan。
→関連項目ウサマ・ビン・ラディン山本美香

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世界大百科事典 第2版の解説

アフガニスタン【Afghanistan】

正式名称=アフガニスタン・イスラム国Dowlat‐e Eslāmī‐ye Afgānestān∥Islamic State of Afghanistan面積=65万2225km2人口(1996)=1190万人首都=カーブルKābul(日本との時差=-5時間)主要言語=パシュト語,ペルシア語(ダリー語)通貨=アフガニAfghaniアジア大陸のほぼ中央部に位置し,北緯29゜30′から38゜30′まで,東経60゜30′から75゜にわたる地域を占める。

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大辞林 第三版の解説

アフガニスタン【Afghanistan】

西アジア、南はパキスタンと国境を接する高原状の内陸国。イギリス保護領から1919年独立。73年王制から共和制に移行。遊牧民が多い。主要言語はパシュトゥー語・ペルシャ語。住民はイスラム教を信仰する。首都カブール。面積65万2千平方キロメートル。人口2990万( 2005)。正称、アフガニスタン・イスラム共和国。 〔「阿富汗斯坦」 「阿富汗斯」とも当てた〕

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アフガニスタン
あふがにすたん
Afghnistn

パキスタン、イラン、中国、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンに囲まれた西南アジアの内陸国。アフガニスタンとは「アフガン人の地」という意味で、18世紀中ごろにアフガン人による国家形成が始まり、19世紀末に国家の体裁をほぼ整え、1919年に独立国として国際的に承認された。1973年、建国以来の王制が倒れ、共和制となる。1978年アフガニスタン民主共和国、1987年アフガニスタン共和国となる。正称はアフガニスタン・イスラム共和国Islamic Republic of Afghanistan。領域はヒンドゥー・クシ山脈を中心とした内陸国で、多民族国家である。この地域はかつてはユーラシア大陸の東西交通路とインドを結ぶいわゆる「文明の十字路」にあたる要地であったが、科学、技術の進歩や産業革命などヨーロッパの発展の影響を受けることが少なく、近代化から取り残されて現在に至っている。面積65万2225平方キロメートル、人口2714万5000(2007推定)。首都カブール。[勝藤 猛]

自然

面積は日本の1.7倍、北緯29度から38度までで、日本の本州より少し南にあたる。北東から南西にかけていくつもの山脈が走っており、ヒンドゥー・クシ山脈と総称される。北東に高く、南西に向かって低くなる。最高峰はノシャーフ山(7470メートル)である。この山脈の北側はトルキスタン(アフガン・トルキスタン)とよばれ、標高数百メートルの平地をなし、気候温和で農業に適している。主要河川はいずれもヒンドゥー・クシ山脈に源を発する。山脈以北では、オクサス川(アムダリヤ)がパミール高原に源を発し、上流部がタジキスタンとの国境をなしアラル海に注ぐ。またムルガーブ川が北流して、トルクメニスタンに入る。山脈の南側では、カブール川が東流してパキスタンに入ってインダス川に注ぐ。またヘルマンド川が南西に流れ、イランとの国境付近の湖に流れ込む。ハリー・ルード川はヘラート平野を灌漑(かんがい)し、その一部がイランとの国境をなす。
 気候は地域、とくに標高によって差異があるが、一般に乾燥気候で夏乾冬雨である。首都カブール(北緯34度33分、標高1766メートル)では、平均最高気温は7月で24.4℃、最低は1月で零下2.8℃、平均湿度の最高は1月の73%、最低は6~7月の38%である。年降水量は約340ミリメートルで、その7割が1~4月に降り、7~9月にはほとんど降雨がない。この国でもっとも気温の高いのは南西部で、夏季の最高はつねに40℃を超え、乾燥した無人の荒野となっている。ヘラート地方では「120日風」とよばれる北風が夏に吹く。南東部山地にはインド洋のモンスーンが及び、夏雨冬乾で、年降水量は500ミリメートルを超え、森林を育てている。南部の都市カンダハール(北緯31度30分、標高1010メートル)の平均最高気温は7月で32.1℃、最低は1月で5.5℃、平均湿度の最高は2月の59%、最低は6月の23%、年降水量は198.1ミリメートルである。「カブールに金(きん)はなくても、雪がなくてはならぬ」という諺(ことわざ)がある。カブールの住民を養っているのは、その西方の山地に積もる雪であるという意味である。秋から冬にかけて山に降った雪は、融(と)けて表流水となるか、またはしみ込んで地下水となる。これらの水を住民が利用するのである。山地は気温が低いから雪はわずかずつ融ける。夏の末に積雪がほとんどなくなったころに、また新雪が降るわけで、山地には1年を通じて雪が保たれ、これが人間と家畜の飲料水や農作物の灌漑用水となっている。[勝藤 猛]

歴史

「アフガン人」の名は、10世紀のペルシア語の地理書に、現在のアフガニスタンとパキスタンの国境付近の山地民としてみられる。14世紀の史書では、同じ地域をアフガニスタンとよんでいる。同族は東に進んで、15~16世紀にインドのデリーを中心としてロディー朝とスール朝を建てた。ムガル朝のアウランゼーブ皇帝の時代に、パシュトー語古典詩人ホシュハール・ハーン・ハタク(1613―1689)が出た。1722年ギルザイ系のアフガン人がイスファハーンを占領し、サファビー朝を崩壊させた。同朝末期に登場したナーディル・シャー・アフシャールはアフガン人を駆逐し、インドに遠征してデリーを一時的に占領し略奪した。帰国したナーディルが1747年6月に暗殺されると、彼のもとでアフガン人部隊長であったドゥッラーニー系のアフマド・シャーが故郷カンダハールに戻り、7月に推されて部族連合の長となった。これがアフガニスタン建国の始まりである。彼は東へ西へと征服戦争を繰り返し、領土を拡大した。その子ティームール・シャーは都をカンダハールからカブールに移した。
 19世紀に入ると、アフガニスタンの東方には、ムガル朝にかわってイギリスが強敵として出現した。一方、北方ではロシアがトルキスタンの諸ハン国を圧倒して勢力を拡大していた。イギリスとロシアはともにアフガニスタンに働きかけた。両大国の間に揺れ動くアフガニスタン政府の態度にいらだったイギリスは、二度にわたって軍隊をインドからアフガニスタンに入れた。これがアフガン戦争である。しかし二度ともイギリスは損害を出しただけで、完全に征服するには至らなかった。
 アブドゥル・ラフマーン(在位1880~1901)は、専制君主として国内統一を図るとともに、イギリスと交渉してアフガニスタン国家の育成に協力させた。これはイギリスからみれば、この国をロシアに対する緩衝国にする利益となった。1919年イギリスから外交権を譲られて独立したアフガニスタンの進路は、西洋化と国粋主義の両極の間を揺れ動いた。内陸国という地理的条件から、国粋主義に傾斜するのはやむをえなかった。第二次世界大戦後も、東西の緊張の間で非同盟中立を堅持してきた。しかし東と西の隣国で明らかに親西欧のパキスタンとイランに対抗意識をもっていたため、必然的に北隣の大国ソ連に依存するようになった。
 1973年、王族で元首相のムハンマド・ダーウードが、国王ザーヒル・シャーの外遊中にクーデターを起こし、共和制を宣言、自ら大統領となった。国王は滞在地イタリアから退位の書簡をダーウードに送った。1978年、青年将校を中核とするクーデターが発生、ダーウード大統領を殺害、ヌール・ムハンマド・タラキーを首班として、左翼的・親ソ的体制が出現した。1979年、ソ連軍の進駐(1989年撤兵)とともにバブラク・カールマルが全権を握ったが、1986年失脚。1987年ナジブラが大統領に就任した。[勝藤 猛]

政治

アフガニスタン最後の国王ザーヒル・シャーの長い治世(1933~1973)の末期、1970年当時の政治体制は次のようであった。まず行政府としては内閣があり、首相の下に外務、内務、国防、法務、計画、大蔵、商業、公共事業、文部、情報文化、郵政、厚生、鉱工業、農業・灌漑の14省と、省に準ずるものとして部族局が置かれた。各省大臣のほかに副首相が1~2名いて、専任または省大臣兼任であり、1963年まで王族が首相であった。地方行政区分として、全国が以前は7大州、7小州に分かれていたが、1964年に29の州(ウィラーヤト)に再編され、現在では34の州がある。州の下には県(ウルスワーリー)または郡(アラーカダーリー)があった。村は自治体である。立法府として上下両院があり、上院は勅選議員28、選挙による議員56、計84、下院は選挙による議員215から、それぞれなっていた。両院のほかに「ロヤ・ジェルガ」(大集会)という、国家の非常時に開かれる会議があった。これは「ジルガ」というアフガン人の部族集会の慣習に由来するもので、構成員は両院議員と州議会議長であった。司法府として、首都に最高裁判所があり、長官以下9名の判事(俗人と聖職者とからなる)がいた。その下に控訴裁判所がカブール、カンダハール、マザーリ・シャリーフの三大都市に、地方裁判所が州ごとに、初級裁判所が県ごとに、それぞれ置かれていた。1964年発布の憲法によれば、イスラム教が国家宗教であり、儀式はスンニー派のハナフィー学派によることが規定されていた。またイスラム教の伝統に従って、貨幣が国王の名によって鋳造され、モスクでの金曜の説教で国王の名が唱えられることも定められていた。
 1988年4月、アメリカ(レーガン大統領)、ソ連(ゴルバチョフ書記長)、アフガニスタン(ナジブラ大統領)、パキスタン(ブット首相)4国の間でアフガニスタン和平協定が成立し、翌1989年2月までにソ連軍は撤退を完了した。その後まもなくナジブラ政権に反対する武装諸集団の活動が活発になり、首都を攻撃するや、1992年、ナジブラは大統領を辞任し、タジク人のラバニを元首とする連合政権が樹立された。しかし政情は安定から遠く、内戦が絶えなかった。1994年ごろから、イスラムへの回帰を訴える神学生の武装集団タリバン(「宗教学生たち」の意)が急速に勢力を拡大し、1996年9月にカブールを制圧。それまで同市の国連施設内に保護されていたナジブラ前大統領を殺害した。ラバニ政府は崩壊し、タリバンがほぼ全土を支配した。2001年9月にアメリカで同時多発テロが起こり、アメリカ政府はアフガニスタンに潜伏しているとみられた、この事件の首謀者とされるオサマ・ビンラディンの引渡しを要求した。しかしタリバンはこれを拒否したため、米英連合軍はアフガニスタン攻撃を開始した。同時に反タリバン勢力である北部同盟も反攻を開始し、11月には首都カブールを制圧、タリバン政権は崩壊した。これらの動向を踏まえ、国連などの仲介、助言を受け、12月に暫定行政機構が発足、議長にハミド・カルザイHamid Karzai(1957― )が就任。2002年6月暫定政府に移行し、大統領にカルザイを選出した。2004年1月ロヤ・ジェルガ(国民大会議)において新憲法を採択。10月に初の大統領選挙が実施され、カルザイが当選した。大統領の任期は5年。2005年には国会の下院議員と県議会議員の選挙が行われた。国会は二院制で、上院の議席数は102。県議会および郡議会の代表各34名と大統領が指名する34人で構成され任期は4年。下院の議席数は249で、うち68は女性枠。任期は5年である。一方、タリバンは政権から放逐されたものの、反政府武装闘争を継続している。2007年7月の韓国人拉致(らち)事件、2008年4月の大統領暗殺未遂事件などをはじめ各地でテロが増加しており、タリバンやアルカイダなどが関与しているといわれている。さらに2008年8月には日本のNGO(非政府組織)職員1名が武装グループに拉致・殺害されるという事件が起きている。
 国軍の兵力数は陸軍5万、空軍1400。多国籍軍により構成される国際治安支援部隊(ISAF)の兵力数は41か国で計5万1350(2008年末現在)である。[勝藤 猛]

経済・産業

アフガニスタン経済を支えるものは、農業、牧畜という伝統的産業であって、2004年の推計では就業人口の65.6%が農業に従事している。そのうえ天然資源に乏しいため、世界でもっとも貧しい国の一つである。現在、天然資源でもっとも重要なのは石油であるが、隣国イランと違って、この国では精力的な探査にもかかわらず油田は発見されていない。ただトルキスタンのジョーズジャーン州のハージャ・ゴーゲルダクとヤティーム・タークで天然ガスが発見され、1967年以来採取されている。技術も資本もソ連に依存し、ガスの一部は援助の返済としてソ連に送られていた。しかし、ソ連技術者の撤収や内戦の影響を受け、その後の開発は進んでいない。その他の鉱物資源は種類も量も少ない。石炭はバグラーン州やサマンガーン州の三つの炭鉱から産する。いずれもヒンドゥー・クシ山脈以北に位置し、首都カブールへの輸送に難点がある。岩塩がターリカーン付近に、また半貴石であるラピスラズリがバダフシャーン州に産し、カブールで細工される。
 アフガニスタンの主要産業は農業である。乾燥地帯に属しているため、人工灌漑(かんがい)を必要とし、農地面積は灌漑用水量によって規制される。灌漑方法としては、大部分が河川の水を引くものであるが、西アジアに広くみられる「カナート」または「カーレーズ」とよばれる人工地下水路によって地下水を地表に導く方法もある。土地保有の特色としては、自作農が多く、大土地所有は発達していない。1960年当時、全作付耕地のうち自作経営地は、イランの28%に対してアフガニスタンは60%であった。その後、国内情勢の悪化とそれに続く内戦によって耕地面積の3分の1が破壊されたといわれている。2001年の推計によると、耕地面積は791万ヘクタールで、うち239万ヘクタールが灌漑されていた。2005年には、農地(耕地・樹園地)面積は約805万ヘクタール、牧場・牧草地面積は3000万ヘクタールとなっている。2006年における農産物の生産量で一番多いのは小麦で320万トン、次いで米54万トン、トウモロコシ24万トン、イモ類24万トンとなっており、果樹類ではアーモンド、ブドウの生産量が多い。近年、農業で大きな問題となっているのが、アヘンの材料となるケシの栽培である。ケシの生産量は一時減少したが、2002年以降ふたたび急増し、2004年には4200トンにのぼった。とくに南部地域に多く、武装組織タリバンの経済基盤強化につながることが心配されている。
 飼育している家畜を頭数順にあげると、ヒツジ、ヤギ、ウシ、ロバ、ラクダ、ウマとなる。ヒツジのなかには、生まれてすぐ殺してその毛皮をコートや帽子に用いるカラクル・ヒツジを含む。2005年の家畜頭数はヒツジ880万頭、ヤギ730万頭、ウシ370万頭などとなっている。牧畜の形態としては、農家が自家消費のために少数を飼育するものと、企業として大規模に飼うために移動する遊牧とがある。遊牧民のほとんどはアフガン人である。ヒンドゥー・クシ山脈以南に住む者は、同山地、いわゆるハザーラジャートに夏営地をもつ。パキスタンから国境を越えてここへ上ってくる者もある。アフガン・トルキスタンでは同国北東隅のシーワ湖周辺が夏営地である。
 2007年の国内総生産(GDP)は116億3000万ドル、一人当り国内総生産は319ドル(2006)となっている。総貿易額のうち輸出は約9億ドル、輸入は約41億ドル(2005)で大幅な輸入超過である。主要産業が農業と牧畜であるため、輸出品目も、ブドウ、ザクロ、リンゴ、スモモ、アーモンド、レーズン、ピスタチオなど生鮮や乾燥の果物、ナッツ類、カラクル羊皮、綿花、じゅうたん、羊毛といった農畜産品が上位を占める。おもな輸入品目は自動車およびその部品、鉄鋼、化学繊維などである。貿易相手国は、2006年の統計によれば、輸出先として、パキスタン、アメリカ、ドイツ、ロシア、インド、輸入先として、シンガポール、日本、韓国、中国、インドの順である。かつてはソ連が輸出先、輸入先とも1位を占めていた。対日貿易は大幅な輸入超過で、2008年(平成20)の日本への輸出額は約7500万円、日本からの輸入額は約119億6200万円になっている。
 内陸国、山岳国であるため、道路の整備は困難であったが、アメリカとソ連の援助により、この国を一周する幹線道路がほぼ完成した。とくにヒンドゥー・クシ山脈を南北に越えるサーラング峠のトンネル道路(標高3363メートル、長さ2676メートル)は、北方隣国との交通にとってきわめて重要である。[勝藤 猛]

社会・文化

2007年推計による人口構成はアフガン人44%、タジク人25%、ハザーラ人10%、ウズベク人8%などとなっている。また、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の発表では、2007年中に約37万人のアフガニスタン難民がイラン、パキスタンなどから帰還している。2007年末での国外に逃れているアフガニスタン難民は約306万人で、そのうち約203万人がパキスタンで難民生活を送っている。アフガン人の自称は「パシュトゥン」、インド側からは「パターン」とよばれる。人種はコーカソイドで、パシュトー語を母語とする。それはペルシア語と同じくインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派に属し、アラビア文字で表記される。人口でアフガン人に次ぐのは、やはりコーカソイドのタジク人で、母語はペルシア語である。そのほかにモンゴロイドのウズベク人(アルタイ語族のウズベク語)とハザーラ人(ペルシア語)の人口が多い。少数のヒンドゥー教徒、シク教徒を除き、住民の99%がイスラム教徒で、その86%がスンニー派、9%(おもにハザーラ人)がシーア派である。建国以来アフガン人が支配民族であり、タジク人の勢力がこれに次ぐ。ハザーラ人は下層階級であったが、共和制になって高官への進出もみられた。
 憲法上、パシュトー語とダリ語(アフガニスタンのペルシア語の公式名)とが公用語と規定されているが、実際はペルシア語が公用語、共通語である。政府はアフガン民族主義からパシュトー語の普及に努力してきたが、成果はあがっていない。住民の多くについて、自己の母語と共通語であるペルシア語の「2語併用」の現象がみられる。
 衣料の材料は、ワタと、ヒツジまたはヤギの毛である。裾(すそ)の長いシャツと幅の広いズボンが伝統的服装の基本である。洋服はまだ一般的でない。
 主食は小麦のパンで、大麦やトウモロコシで補う。米はぜいたく品で、特別の場合にしか食べない。副食品として重要なのは乳製品で、おもにウシの乳を加工、ヨーグルトやチーズにしてパンとともに食べる。肉はヒツジからとる。飲料は茶で、紅茶と緑茶がある。多くの人はナイフやフォークを用いずに手づかみで食べる。
 家屋の主要材料は日干しれんがである。普通の土を水で練って枠にはめ、天日に乾かす。それを積み上げ、普通の土を練った泥で固める。屋根は木の梁(はり)を渡して平屋根にするか、れんがをドーム状に積んで球形の屋根とする。室内には机、椅子(いす)、ベッドはなく、床に敷物を敷いて座り、ふとんを敷いて寝る。
 教育の普及は遅れており、成人の識字率は、男43%、女14%(2003)。学校制度はイギリス領インドの影響を受けて19世紀末に始まり、フランス、ドイツも中等学校の設立に貢献した。第二次世界大戦後、アメリカを中心とする西側諸国の援助で、六・三・三・四制ができあがった。王制時代の大学は、1946年に総合大学となったカブール大学と、1964年設立のニングラハール医科大学の2校だけであった。その後、工科大学などができ、5校となった。学校教育の底辺をなす初等教育は徐々に普及しつつある。辺地の農村では、読み書き計算を教える1クラスだけの学校が巡回教師によって運営される。読み書きの基礎の程度としては、イスラム教のモスクで僧侶(そうりょ)が行う授業がなお機能している。
 女性の地位は変化しつつあり、1959年に服装革命が起こった。この年の8月の独立記念祭の一行事で、ダーウード首相をはじめ政府高官が、素顔を出した夫人を同伴して公衆の前に登場したのである。チャドルというかぶり物で全身を覆う習慣は、このときから崩れ始めたが、まだ完全になくなってはいない。しかし、1996年以降のタリバン政権下では女性の教育・屋外労働が禁止されるなど、厳格なイスラム復興主義(原理主義)による統治が文化面でも行われた。なお、2001年2月タリバン政権は「仏像破壊令」を発し、国内の遺跡・博物館などで仏像破壊を開始、有名なバーミアン石窟でも大仏、壁画などが破壊され大部分が失われた。
 アフガニスタン国民の精神を支配しているのはイスラム教である。それは7世紀後半にこの地域に入ってきて、それまでの仏教やゾロアスター教を消滅させた。イスラム教はこの地に深く根を降ろし、西洋との交流にもかかわらず権威を失っていない。町にも村にもモスクがあって1日5回の礼拝が行われており、またイスラム暦9月の断食もかなり忠実に守られている。またこの国の教養でもっとも重要な分野はペルシア古典文学で、サーディーの『薔薇(ばら)園』などが依然として愛読されている。なお公式の暦はイラン暦で、春分を元日とする太陽暦である。
 こうした伝統的文化が守られている反面、ジャーナリズムの発達は未熟である。識字率が低く、したがって読者層が薄く、また経済事情も悪いため、出版は盛んではない。すべての出版は政府の監督下にあった。ただ1963年の王族首相ダーウードの退場と、1964年憲法による「言論の自由の保障」という一時的な百家争鳴の時期に、『ハルク』(1966年4~5月)、『パルチャム』(1968年3月~1969年7月)という民間新聞が発刊された。いずれも発行期間は短かったが、これらに結集した運動家はそれぞれの政治団体をつくり、以後この国の政治に大きな影響を及ぼした。民主共和国成立時の革命評議会議長ヌール・ムハンマド・タラキーは『ハルク』の発行人、カールマルは『パルチャム』の寄稿者であった。人民民主党は両派の連合体であった。1998年にタリバンが政権を握ると、マスコミは制限され、テレビ放送も禁止された。しかし、タリバン政権崩壊後にテレビ放送は復活し、民間新聞も刊行されている。[勝藤 猛]

日本との関係

石油を産しないアフガニスタンは、日本にとって経済的関心の対象にならなかった。しかし、この地にシルク・ロードのおもかげがもっともよく残っていることで、日本人旅行者の興味をひいている。学問の分野では、仏教がインドから日本に伝来する経路にあたることから、仏教遺跡の調査が行われ、また少数民族がいまも保存しているモンゴル語の研究や、アフガン人遊牧民の実態調査もなされたが、ソ連軍の進駐以来、両国の関係はやや疎遠となった。日本政府は、1979年(昭和54)12月以降、アフガニスタンの累次政権を政府として承認していなかったが、2001年(平成13)アフガン暫定政権を政府として承認。大使館は、1934年に日本国公使館として開設(1955年大使館に昇格。1979年12月以降は臨時代理大使レベル)。1989年閉鎖されたが、2002年ふたたび開設した。在日アフガニスタン大使館も1997年以降閉館状態にあったが、2002年活動を再開している。2002年に川口順子(よりこ)外務大臣がアフガニスタンを訪問、2003年にはカルザイ大統領が訪日。以後活発な要人往来がある。また、道路や農村開発などの復興支援や、人道支援、医療支援などアフガニスタン難民への援助も行っており、2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件発生以降、2009年3月までの対アフガニスタン復興支援総額は17億8300万ドルとなっている。[勝藤 猛]
『勝藤猛他著『中東現代史』(1982・山川出版社) ▽永井道雄監修、板垣雄三編『新・中東ハンドブック』(1992・講談社) ▽前田耕作・山根聡著『アフガニスタン史』(2002・河出書房新社) ▽川端清隆著『アフガニスタン――国連和平活動と地域紛争』(2002・みすず書房) ▽鈴木均編著『アフガニスタン国家再建への展望』(2007・明石書店) ▽鈴木均編『アフガニスタンと周辺国』(2008・アジア経済研究所) ▽渡辺光一著『アフガニスタン――戦乱の現代史』(岩波新書)』

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世界大百科事典内のアフガニスタンの言及

【パシュトゥーン】より

…アフガニスタン全域からパキスタン北西部にかけての地域に住むアーリア系の民族。アフガーンAfghān,パターンPathānとも呼ばれる。…

【パシュト語】より

…パシュトゥー語ともいう。アフガニスタンおよびパキスタン北西部を中心に話され,約2000万人(1976)と見積もられる話者のうち約900万人がパキスタンに住む。方言的にはパシュトと呼ばれる南西方言とパフトPakhtoと呼ばれる北東方言に分かれる。…

※「アフガニスタン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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