イギリスの演出家。オックスフォード大学在学中、17歳でマーローの『フォースタス博士の悲劇』を演出、1954年シェークスピア記念劇場(今日のロイヤル・シェークスピア劇団)に加入し、翌年には『恋の骨折り損』の演出を担当してその偉才を認められた。以後、現代演劇の最先端に位置する演出家の一人として、『タイタス・アンドロニカス』(1955)や『リア王』(1962)、ペーター・ワイス作『マラー/サド』(1964)、ベトナム反戦劇『US』(1966)、『真夏の夜の夢』(1970)などを通じて、文化全般に衝撃を与え続けた。1970年パリに国際演劇研究センター(CIRT。現、国際演劇創造センター、CICT)を創設、世界各国から俳優を集め、演劇の始原性と可能性を追究した。1974年本拠劇場ブッフ・デュ・ノールを開場。1970年以降の作品に『オルガスト』(1971)、『イク族』(1975)、『鳥たちの会議』(1979)、『桜の園』『カルメンの悲劇』(ともに1981)、『マハーバーラタ』(1985)、『テンペスト』(フランス語版、1990)、『ペレアスの印象』(1992)、『しあわせな日々』(1995)、『ハムレットの悲劇』(2000)などがある。『三文オペラ』(1953)や『雨のしのび逢(あ)い(モデラート・カンタービレ)』(1960)、『リア王』(1971)、『カルメンの悲劇』(1983)などの映画監督作品をはじめ、オペラ演出、作曲、舞台美術、テレビドラマなどの作品も多い。1973年(昭和48)『真夏の夜の夢』の日本公演で日本の演劇界に影響を与え、その後も『カルメンの悲劇』『マハーバーラタ』『桜の園』『ハムレットの悲劇』などの舞台が紹介された。1987年初来日。1997年(平成9)高松宮殿下記念世界文化賞受賞。
[中野里皓史・大場建治]
『ブルック著、高橋康也・喜志哲雄訳『なにもない空間』(1971・晶文社)』▽『J・ハイルパーン著、岡崎凉子訳『ピーター・ブルック一座アフリカを行く』(1979・創林社)』▽『ブルック著、喜志哲雄・坂原真理訳『秘密は何もない』(1993・早川書房)』▽『ブルック著、高橋康也・高村忠明・岩崎徹訳『殻を破る――演劇的探究の40年』(1993・晶文社)』▽『河合祥一郎訳『ピーター・ブルック回想録』(2000・白水社)』
イギリスの詩人。ケンブリッジ大学卒業後、同人雑誌などによって創作活動をしていたが、第一次世界大戦に従軍してギリシアで戦病死した。生前はほとんど無名であったが、死後一躍文名が高まり、若々しいロマン的情感の詩は、いまも読者を失わない。しばしばジョージ王朝詩人の代表とみなされるが、これは友人のE・マーシュが、詞華集『ジョージ王朝詩』全五巻(1912~22)に、彼の作品を積極的に取り入れたからで、戦争詩人としての令名も、W・チャーチルの秘書であったマーシュの影響力により、やや国策的につくられた面がある。戦争詩の代表作に詩集『1914年』(1915)などがある。
[川崎寿彦]
イギリスの演出家。オックスフォード大学在学中に職業演出家として活動を始め,シェークスピア,サルトル,J.アヌイなどの戯曲の才気に富む演出でしだいに名声を得る。1962年にローヤル・シェークスピア劇団の演出家となったころから,演劇を根元的にとらえ直す傾向を強め,不条理劇風の《リア王》(1962)やサーカス風の《夏の夜の夢》(1970)を創造して衝撃を与える一方,アルトーの演劇観を実践して〈残酷劇のシーズン〉と称する実験を行った。68年パリに国際演劇研究センターを設立,ここでの活動を土台として,人造言語を用いた《オルガスト》(1971),英語を解さない観客を対象とする神話劇《鳥の会議》(1972),文化人類学の成果を取り入れた《イク族》(1975)など,在来の演劇の枠を破り,演劇言語,演技空間,俳優の肉体の本質を吟味する作品を発表した。映画数本を監督し,演劇論に《なにもない空間》(1968)がある。
執筆者:喜志 哲雄
イギリスの冒険家,植民地建設者。インドのワーラーナシーに生まれ,イギリスで教育を受けた。イギリス東インド会社の軍隊に入り,ビルマ(現ミャンマー)で戦い,負傷してイギリスに戻った。のち会社を辞し,父の遺産で購入したローヤリスト号で1838年にシンガポールに向かった。ここで海峡植民地知事より,ボルネオのブルネイ王国の支配下にあるサラワクのクチンに赴き,難破したイギリス船の生存者を引き取ることを求められ,クチンを訪れた。40年に再びクチンを訪れ,同地の支配者を助けて反乱を鎮圧し,40年支配者に迫ってみずからサラワクの領主となった。彼は当時横行していた海賊の鎮圧に熱中し,46年にはブルネイ王国の都を攻撃してスルタンに海賊への支援をやめさせた。この年彼はブルネイ王国から独立してブルック王国をたて,またラブアン島をイギリス領とした。こののち彼はイギリスとクチンの間を往復しつつ王国を統治した。彼の死後王国はその子孫によって継承され,1946年イギリスの直轄植民地となった。
執筆者:生田 滋
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(宗田一)
(影山好一郎)
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1803~68
ボルネオ北西部にサラワク王国を形成したイギリス人冒険家,植民地主義者。ラッフルズの思想の共感者であった彼は,ブルネイ王国領内のサラワクの反乱鎮圧に協力したのち,1841年クチンを中心にサラワク王国を形成する。その後,彼はサラワク王国の勢力拡張を図り,弱体化していたブルネイ王国の領域を次々と奪取していった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…18世紀になると市民勢力のいっそうの台頭を反映して,クラブは急成長を遂げる。なかには,マグハウス・クラブと総称された,乱痴気騒ぎやギャンブル,はては一般市民を襲撃するなど無軌道な行動に走るものも現れたが,1764年には社交クラブ〈ホワイトWhite’s〉が〈オルマックAlmack’s〉と改称され,トーリー党の牙城と化するとともに,ギャンブルで勇名を馳せる(オルマックは今日の〈ブルックBrook’s〉の前身)。文学クラブの〈キット・キャットKit‐Cat〉やジョンソン博士の〈ザ・クラブThe Club〉,料理で有名になった〈ブードルBoodle’s〉などのクラブも成立した。…
…したがって本項目では,演劇という営為と体験の基底をなすと考えられる特性について,上記4要素とその相関性についての問いを考慮に入れつつ,主として日本演劇と西洋演劇に具体例を借りて,概略を記述してみる。
【観客――視覚の二重性】
現代イギリスの演出家で1960年代末から主としてフランスで活躍しているP.ブルックは,その《なにもない空間》の中で次のような趣旨のことを述べている。〈どこでもいい,なにもない空間。…
…〈近代劇場〉が獲得した富に基づき,さらにその先で,広場のまんなかに立てる新しい〈花で飾った1本の杭〉が求められている。小劇場前衛劇【津野 海太郎】
【舞台と客席】
イギリスの演出家P.ブルックは,演劇論《なにもない空間》(1968)の冒頭で,〈なにもない空間をひとりの人間が横切り,それをもうひとりの人間が見ているだけで,演劇行為は成立する〉という趣旨のことを述べている。つまり,演劇が成り立つためには演技者と観客という,機能を異にする2種類の人間の存在が必要なのである。…
…社会問題に強い関心をもったパプスト監督は,さらに続いて同じ31年に,アルザス地方の炭坑爆発を背景にしてドイツとフランスの炭坑労働者の国境を超えた階級的同志愛を描いた《炭坑》をつくっている。なお,ゲイの《乞食オペラ》は53年イギリスでピーター・ブルック監督で映画化されている(日本公開題名《三文オペラ》)。【柏倉 昌美】。…
…このほか州政府が外貨獲得のために力を注ぐものにアブラヤシ,コショウ,カカオがあり,いぜん第1次産品に経済を依存するが,クチンに加工貿易地区を設定し,小規模ながら近代工業の育成も進められている。かつて白人の王侯イギリス人ブルックJames Brooke(1803‐68)に支配されたこともあるサラワクは,1963年マレーシア連邦結成に参加して以来,ようやく豊かな資源を活用できる段階にはいった。【太田 勇】。…
… 一方,ボルネオ島北西部には古くからブルネイ王国があった。イギリス人J.ブルックは1846年サラワクにブルック王国をたて,1881年には北ボルネオ会社が現在のサバ地域を獲得した。イギリスは1888年にブルック王国と北ボルネオ会社領を保護領とした。…
※「ブルック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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