デジタル大辞泉 「ペスト」の意味・読み・例文・類語
ペスト(〈ドイツ〉Pest)
[補説]地名・書名別項。→ペスト(地名) →ペスト(書名)
ペスト菌Yersinia pestisによって起こる感染症。もともと日本に常在するものではなく,世界の一部地域(アルタイ山脈地方,モンゴル,アフリカなど)の地方病的色彩が濃いものであった。伝染力がきわめて強いため,昔から世界各地にしばしば大流行をきたし,日本でも明治時代には年間数百人の患者が発生した。当時は予防対策も不十分で,適切な治療法もなく,その激烈な症状ときわめて高い致命率のために,最も恐ろしい伝染病とされた。ペストは今でも日本の法定伝染病の一つに数えられてはいるが,実際には1926年を最後に国内では現在まで患者の発生がまったくみられず,この病気の存在さえもほとんど忘れられようとしている。別名を〈黒死病〉というが,重症になって敗血症をきたすと全身各所に暗紫色の斑点が現れ,皮膚が黒ずんでみえたのでこの名前がつけられた。世界的にもこの疾患の発生は著しく減っているが,アジア,アフリカ,アメリカなどの温帯,亜熱帯になお患者が発生し,決して消滅したわけではない。WHOの記録によれば,1980年にこれらの地域から372人の患者の発生と,うち26人の死亡が報じられている。現在日本ではコレラ,痘瘡(とうそう)(天然痘),黄熱と共に検疫感染症に指定されている。
ペストは人獣共通伝染病であり,その流行にはつねにネズミとネズミノミが関与し,ヒトの流行に先立ってネズミの間の流行が起こる。世界各地にはなおペスト菌を保有し,あるいはペストにかかったネズミが常在する地域があって,この地域に接触した人間社会にペストが侵入する。ペストのおもな病型には腺ペストと肺ペストがあるが,ふつうは主として経皮感染によって起こる腺ペストである。腺ペストは,感染したネズミから吸血し病毒を保有するネズミノミがヒトを吸血する際に胃の内容物を注入し,あるいはこのとき排出した糞をかゆみをかくため皮膚にすり込むことにより感染する。一方,腺ペストの患者が肺ペストになると,ヒトが感染源となり,咳などを介して飛沫感染という様式で原発性肺ペストを起こすおそれがある。腺ペストでは2~6日の潜伏期ののち,突然,悪寒または戦慄(せんりつ)を伴って発熱する。ノミに刺された付近のリンパ節(鼠径部(そけいぶ),股が多い)が大きくはれ,激しく痛む。治療が遅れると,このリンパ節が自然に破れて膿が出て瘻孔(ろうこう)となることもある。さらに肝・脾腫,循環障害,意識障害を伴い,重症例では敗血症をきたし,ショックから死に至る。しかし,非常に軽い経過をとるものも少なくない。腺ペストの経過中に,ときに菌血症から肺炎を併発すると肺ペストと呼ばれ,激しい咳,血痰,胸水から呼吸困難,肺水腫,心不全を起こして短時日のうちに死亡することが多い。肺ペストの患者から直接ヒトに感染し,初めから肺ペストの病型を示すものは原発性肺ペストと呼ばれている。流行地でリンパ節がはれて高熱があれば腺ペストの疑いがもたれるが,鼠径リンパ肉芽腫症とか伝染性単核症とか,ペストのほかにもリンパ節のはれる病気は多いので,診断を確定するためにはペスト菌を検出することが必要である。このためには,リンパ節の穿刺(せんし)液,血液,喀痰などの直接塗抹標本の顕微鏡検査と培養検査が行われる。
治療にはストレプトマイシン,テトラサイクリンなどの抗生物質による化学療法が非常に有効で,早期に診断が確定し,的確な治療が行われれば,もはやペストが往年のような猛威をふるうとは考えられない。この疾患の防疫対策としてネズミおよびノミを徹底的に駆除することが最も効果がある。予防接種は十分とはいえないが,ある程度の効果が期待できる。減少したとはいっても,国際輸送機関の発達により,近年日本でも他のいくつかのいわゆる輸入伝染病とともに,海外旅行者や輸入貨物を介して侵入のおそれがないとはいえないので,厳重な監視と対策は必要である。
執筆者:松原 義雄
人間の歴史に最も深いつめあとを残した病気はペストである。旧約聖書(《サムエル記》上)にあるペリシテ人を襲った疫病とはペストではないか,という説がある。しかし,明らかにペストと確認された史上最初のペスト禍は,540年ころエジプトに原発し,60年ものあいだ全ビザンティン帝国を混乱に陥れた〈ユスティニアヌスの疫病〉と呼ばれる大流行である。プロコピウスの《戦史》にはその惨状が克明に記されているが,コンスタンティノープルでは1日5000人あるいは1万人もの死者が出たという。その後散発的な流行を経て,14世紀ヨーロッパに黒死病(ブラック・デスBlack Death)の大流行をもたらす。
本来ネズミの病気であるペストの歴史は,ネズミの生態の歴史と密接な関係がある。もともとインドからアジア南部にかけて生息していた保菌ネズミ(クマネズミ)が,気候変動による食物連鎖の変動によって移動を始め,しだいに北上し,さらに西進したと思われる。とくに13世紀は東西交流の盛期で,十字軍が東方へ,蒙古が西方へと進み,こうした人と物の動きにつれ,東西を結ぶ交易路いわゆるシルクロードに乗ってペストの伝播が起こった。
1347年コンスタンティノープルに侵入してきたペストは,地中海貿易路をそのままたどり,48年にはイタリア,フランスに上陸,ついにヨーロッパ内陸に波及していった。ボッカッチョの《デカメロン》にはペストに襲われたフィレンツェの惨状が描かれている。黒死病による死者は3人に1人といわれ,ヨーロッパでは3500万人,その他を加えると,全文明世界で6000万~7000万人の死者を算したといわれる。こうした恐怖と混乱のなかで,〈鞭打ち苦行者〉や〈死の舞踏〉のような集団異常現象が起こり,さらに異教徒のユダヤ人が毒物を散布したというデマが流布し,ユダヤ人の大量虐殺が行われた。こうして人口激減によりヨーロッパ荘園経済は衰微し,宗教と学問の権威は失墜し,中世的な秩序が崩壊し,近代社会誕生をうながす要因の一つとなった。ヨーロッパの古い町の広場には,ペスト退散を記念する〈ペスト塔〉が今でも残っている。
ペストはその後ヨーロッパで小流行を繰り返し,デフォーが《ペスト(疫病流行記)》を書いた1665年のロンドンの大流行を最後に,18世紀以降はかなり散発的となったが,19世紀の終りにアフリカ,アジアで再燃し,今日でも南アメリカ,アジアの奥地に病巣が残っている。
1894年香港にペストが発生したとき,フランスのイェルサンと北里柴三郎はそれぞれ独立にペスト菌を発見した。この流行が,これまで長くペストを知らなかった日本に飛火した。99年広島に患者第1号が発生,阪神地方を経て東進し,東京,横浜に広がった。このときは,ペストの元凶はネズミであることが知られており,ペスト防疫のためネズミを捕獲し殺す方法として〈ネズミ買上げ〉が行われ,また汚染地区の家屋の焼払いが強行された。
執筆者:立川 昭二
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出典 内科学 第10版内科学 第10版について 情報
ペスト菌の感染によっておこる急性伝染病で、検疫感染症(検疫伝染病)に指定、感染症予防・医療法(感染症法)では1類感染症に分類されている。
ペストの流行はすでに2、3世紀ごろからあったと伝えられているが、14世紀に中央アジアからヨーロッパ全域を席巻(せっけん)した大流行は歴史的にも知られ、当時のヨーロッパ全人口の4分の1にあたる2500万人の死者が出たほどの大災害をもたらし、黒死病として恐れられた。日本でも1898年(明治31)から1926年(昭和1)の間に2909人の患者発生がみられた。
ペストは元来ネズミなど齧歯(げっし)類の流行病であり、これがノミ、ナンキンムシ、シラミなどの昆虫の媒介によってヒトに感染する。リンパ節腫(せつしゅ)、ペスト敗血症および肺炎などの病像を呈する。潜伏期は肺ペストの場合は2、3日、腺(せん)ペストは6~10日とされている。ペスト患者の大部分の病型は腺ペストで、皮膚や粘膜から侵入したペスト菌が、近くのリンパ節で増殖して一次性腺腫を形成する。これが出発点となって血行・リンパ行性に他のリンパ節に二次性腺腫を形成する。末期にはペスト敗血症をおこすこともある。腺ペストから転移性に気管支肺炎をおこすこともあるが、大多数は飛沫(ひまつ)感染によってペスト菌を直接吸入して発病する。肺ペストとペスト敗血症では、ともに2、3日の経過で死亡する。腺ペスト、皮膚ペストは、経過が1週間以上にわたる場合は治癒することもあるが、致命率は30~90%である。治療として、ストレプトマイシン、テトラサイクリン、クロラムフェニコールなどの抗生物質剤およびサルファ剤が用いられる。
[松本慶蔵・山本真志]
『カルロ・M・チポラ著、日野秀逸訳『平凡社自然叢書6 ペストと都市国家――ルネサンスの公衆衛生と医師』(1988・平凡社)』▽『蔵持不三也著『ペストの文化誌――ヨーロッパの民衆文化と疫病』(1995・朝日新聞社)』▽『ジャック・リュフィエ他著、仲沢紀雄訳『ペストからエイズまで――人間史における疫病』増補改訂版(1996・国文社)』▽『ヒルデ・シュメルツァー著、進藤美智訳『ウィーンペスト年代記』(1997・白水社)』▽『モニク・リュスネ著、宮崎揚弘他訳『ペストのフランス史』(1998・同文館出版)』▽『村上陽一郎著『ペスト大流行――ヨーロッパ中世の崩壊』(岩波新書)』
フランスの作家アルベール・カミュの長編小説。1947年刊。アルジェリアのオランの町にペストが発生、外部から遮断された孤立状態のなかで、必死に悪と戦う市民の連帯と友愛の姿を年代記風に淡々と描く。病身の妻と引き離されながらも黙々と働き、最後に「人間のなかには軽蔑(けいべつ)すべきものよりも賛美すべきもののほうが多くある」と証言する医師で語り手のリゥー。「観念のために死を賭(か)ける、抽象的なヒロイズム」よりも具体的な「幸福」を求めてペストの町を逃れようとするが、やがて「ひとりで幸福になる」ことに疑問を抱いてリゥーに協力するランベール。かつて政治的殺人を犯した罪障感に悩み、「いい理由からにしろ、悪い理由からにしろ、人を死なせたり死なせることを正当化するいっさいのものを拒否する無垢(むく)の殺人者」たらんとしてリゥーに協力するが、ペストで死んでしまうタルー。作者の対ナチズム戦争体験をアレゴリックに表現し尽くした、第二次世界大戦後フランス小説最大のベストセラー作品。
[西永良成]
『宮崎嶺雄訳『ペスト』(新潮文庫)』
ペスト菌による全身性の急性感染症で、中世には
ペスト菌を保菌しているノミに刺されたあと、2~6日の潜伏期間ののち、リンパ節のはれ、皮膚の小出血斑や高熱を起こします。菌が全身に回ると
血液、リンパ節液からペスト菌を分離・培養して、診断します。
ストレプトマイシン、テトラサイクリン、ニューキノロン系薬剤などの抗菌薬により治療を行います。一般的には抗菌薬がよく効き、回復します。肺ペストのように重い症状の場合も、発病後8~24時間以内に治療を開始すれば予後は良好です。手遅れにならないように病気の早期に治療を開始することが重要です。
海外に渡航し、死んでいるネズミなどに触れたり、ノミに刺されたあとに、リンパ節のはれや高熱が出た場合には、ペストを疑い、医師の診察を受け適切な治療をしてもらう必要があります。
渡邉 治雄
出典 法研「六訂版 家庭医学大全科」六訂版 家庭医学大全科について 情報
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…この間,彼は42年フランス本土に渡り,レジスタンス運動に参加。その体験を通じて,人間存在の不条理性に対する反抗から集団的な反抗の思想へと進み,それを主題とした小説《ペストLa pest》(1947),エッセー《反抗的人間L’homme révolté》(1951)を書き,後者をめぐってサルトルとの間に論争が行われることになった。その後のカミュは戦後の時代を生きる知識人としての苦悩を負いつづけながら,小説《転落》(1956),短編集《追放と王国》(1957)を書いたが,以前ほど大きな評価は得られなかった。…
…医療技術者は宮廷周囲に集められて上述のような任務を与えられたが,医療過誤についての罰則規定もあったことがハンムラピ法典の中にみえている。興味あることは,まとまった症状を呈する重要な疾病は,それぞれを神の名において命名されていたことで,たとえば,ペストは〈ナムタルウ神〉,流行病は〈ウルガル神〉〈ネルガル神〉,熱性頭痛は〈アサックウ神〉などである。しかし,多くの身体機能の障害は症状をもってよばれ,これらに対しては,占星術や予兆論的な判断とともに,合理的な治療法も多く講じられている。…
…美術表現では受刑具の矢が持物で,射手や弩の使い手などの守護聖人。また,中世後期には,神の手から放たれた矢によって発病すると考えられていたペストに対する守護聖人として広く崇敬された。美術では殉教場面がもっともよく表現される。…
…発疹熱は世界的に広くみられるが,メキシコ湾沿岸および南地中海沿岸に多くみられ,媒介動物はネズミおよびネズミノミである。 細菌類によるものには,細菌性赤痢,腸チフス,パラチフス,コレラ,ペスト,野兎(やと)病,癩などがある。細菌性赤痢は赤痢菌によって引き起こされ,保菌者や患者の糞便とともに排出された赤痢菌が,ハエ,ゴキブリの媒介によって飲食物に混入し経口感染する。…
…これらの人獣共通伝染病は,その病原巣の動物が生息する地方に発生が限られるときには,風土病的疾病として現れてくる。このようなものには,中国の奥地やインドに持続的にみられたペスト,地中海沿岸地方のマルタ熱(ブルセラ症),および世界中にみられ,日本でも各地で作州熱,天竜熱,七日熱,秋疫など特別な名称で呼ばれたレプトスピラ症などがある。 伝染性の風土病には,病原微生物が節足動物によって媒介される疾病で,媒介する節足動物の生息する地域が限られているために風土病として現れてくるものもある。…
… しかし,これらに加えて,いくつかの要件がある。14世紀中葉に突発したペストの大流行はその一つである。ペストはその後も断続的にイタリアとヨーロッパ全土を襲い,さしあたりは,社会と文化に壊滅的な打撃をあたえた。…
※「ペスト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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