翻訳|masochism
性目標の質的異常(性倒錯)の一種で、被虐性愛ともいう。性対象に苦痛を与えたり(サディズム)、与えられたり(マゾヒズム)することによって性的快感や満足を得ようとするアルゴラグニーAlgolagnie(ドイツ語)(疼痛(とうつう)性愛、苦痛嗜愛(しあい))に含まれる。実生活や小説のなかでこの種の性行動を典型的に示したオーストリアの貴族マゾッホの名にちなんだもので、ドイツの精神医学者で、異常性欲者の精神鑑定を多く手がけたクラフト・エービングRichard von Krafft-Ebing(1840―1902)が命名した。男女ともにみられ、異性に暴行、凌辱(りょうじょく)、処刑などを受けることによって強い性的興奮と満足を得たり、またはその情景を幻想して自己をその犠牲者と同一視することによって同様の満足を得るもので、マゾヒズムとサディズムは同一人にも重複して現れる。
[白井將文]
女性が本来は弱い性であるにもかかわらず、エロティックな魅惑を通じて男性を「愛の奴隷」たらしめるという文学上のトポス(表現の場)は古くから存在した。けれども、人間性の大きな振幅のなかでの性愛の一つの形として理解されて、「愛の奴隷」のトポスが一つの完結した倒錯的性愛表現として固定されるのは、キリスト教的精神主義との遭遇を通じてである。「愛の奴隷」のテーマは、愛する貴婦人を神格化する恋愛詩人(ミンネゼンガー)の詩作品や15世紀謝肉祭劇のなかに集中的な表現をみいだしたが、やがてそれは、聖セバスチャンの殉教におけるような殉教願望や、聖テレサの見神の恍惚(こうこつ)におけるような、苦痛を神からの愛の贈り物とみなす宗教的・道徳的マゾヒズムにまで高まってゆく。
一方、デリラに欺かれるサムソン、イブに誘惑されるアダムといった、古くからの「賢い(あるいは狡(ずる)い、弱い)女の奸計(かんけい)に陥る強い男」という「女上位」の寓意(ぐうい)表現は、ほぼ13世紀ごろから「愚かな女(蒙昧(もうまい)なる肉)に征服される賢い男」という新たなバリエーションを創出した。近代的意味でのマゾヒズムは後者の文脈に沿って展開し、ゲーテの戯詩『リリーの公園』からハインリヒ・フォン・クライストの『ペンテジレーア』(1808)、ボードレールの『悪の華』(1857、61)を経て、ゾラの『ナナ』(1880)のミュファ伯爵のマゾヒズム描写に結実する。なかでもザッヘル・マゾッホの『毛皮を着たビーナス』(1871)はその頂点に位置し、マゾヒズムというクラフト・エービング博士による病理学的命名も、この小説の作者名に由来する。
[種村季弘]
狭義には,相手(ときには自分自身)から身体的・精神的な苦痛や屈辱を被ることによって性的快楽を得る性倒錯。マゾヒズムという名は,好んでこのような性的行為を描いたオーストリアの作家ザッヘル・マゾッホの名にちなんで,精神科医クラフト・エービングにより与えられたものである(1890)。マゾヒズムの心理機制は,サディズムが反転して自己に向いたもの,サディスティックな相手への同一視,罰や苦痛を経験することによる快楽を伴った罪意識の軽減,本来権威的な両親像をなだめるためにとられた従順な役割の性愛化,〈死の本能〉の顕現などが考えられている。S.フロイトをはじめとする古典的精神分析学派は,マゾヒズムという語を広く用い,人格発達との攻撃的要因の現れ,人格の受動性ならびに女性性,厳しい超自我に対する自我の服従,健康を回復するよりは,むしろ病苦の中にとどまろうとする神経症者の傾向などに対してマゾヒズム的という形容を与えている。精神療法的な二人関係においても,無自覚なままに支配と服従,攻撃と甘受といった対人様式が固定的に形成されてしまう場合,それはサド-マゾヒズム的な関係とも形容される。
→サディズム
執筆者:下坂 幸三
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…実生活では人妻A.コトウィッツや女優F.ピストール等との情事の後に,グラーツの貧しいお針子A.リューメリンと遭遇して結婚,彼女に自作の女主人公の名にちなんでワンダ・マゾッホを名のらせ,小説の筋書どおりの姦通を強要する奇行にふけった。ために死後,その作品傾向並びに性的奇行が,〈サディズム〉のサド侯爵とともに性心理学者クラフト・エービングの注目するところとなり,〈マゾヒズム〉の定義の下に典型化された。【種村 季弘】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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