ラトビア(読み)らとびあ(英語表記)Latvia 英語

精選版 日本国語大辞典 「ラトビア」の意味・読み・例文・類語

ラトビア

(Latvia) ヨーロッパ北東部、バルト海・リガ湾に面する共和国。一三世紀にドイツに征服され、一六世紀以降ポーランドスウェーデンの支配を経て、一八世紀にロシア領となった。第一次世界大戦後、共和国として独立したが、一九四〇年ソビエト連邦に加盟した。九一年ソビエト連邦の解体に伴い独立。住民の過半数はラトビア人。首都リガ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラトビア」の意味・わかりやすい解説

ラトビア
らとびあ
Latvia 英語
Latvija ラトビア語

ヨーロッパ北東部、バルト海に臨む独立国。ラトビアは1920年独立を達成したが、独ソ間の密約で1940年に旧ソ連に編入され、その一共和国として半世紀の時を刻んだ。1991年8月ソ連から離脱を宣言し、9月、ふたたび完全な主権国家となると同時に、国連に加盟した。西はバルト海に、北をエストニアに、東をロシア、南はリトアニアとべラルーシに接している。現在の正式国名はラトビア共和国Latvijas Republikaで、面積6万4600平方キロメートル、人口237万5339(2000)。人口密度は1平方キロメートル当り37人。首都はリガ(人口76万)。

[山本 茂]

自然

東ヨーロッパ平野にあり、国土の大部分が標高300メートル以下の平坦(へいたん)な氷河性の低地である。海洋性気候から大陸性気候への漸移帯にあり、平均気温は1月零下7~零下2℃、7月16~18℃と比較的温和である。年降水量は550~800ミリメートル。リガ近くで南東からリガ湾に注ぐ西ドビナ(ダウガーバ)川をはじめ、リエルペ川、ベンタ川、ガウヤ川がバルト海に流入する。氷河起源の湖沼が多く、1ヘクタール以上の面積の水面をもつ湖沼だけで3195を数える。森林面積は240万ヘクタール(38%)、土壌はポドゾル土が多い。

[山本 茂]

歴史

ラトビア人はインド・ヨーロッパ語族に属するバルト語系東バルトの諸部族にさかのぼれる。これら諸部族は、ドイツ騎士団が北方十字軍としてバルト海東南岸地域に侵出してきた12世紀末は、いまだ、単一の民族的集合体ではなく、そのため帯剣騎士団とよばれるドイツ騎士団のバルト海東南岸地域への侵出は容易に進められた。さらにキリスト教布教のための伝道師と交易の拡大を求めたドイツ人商人も続いた。

 ドイツ人は1198年にダウガーバ(西ドビナ)河口のリガを拠点に北東や南西へと進出、ドイツ人により征服された地域は、リボニア騎士団領(現エストニア南部と現ラトビア北部)とよばれ、騎士出身のドイツ人地主による封建制が発展した。彼らはバルト・ドイツ人地主貴族として政治的分権化を促し、20世紀に至るまでその影響力をもった。また、主要都市はハンザ都市として発展したが、15世紀末のハンザ同盟衰微後も、ドイツ人商人は独占的な繁栄を続けた。

 バルト・ドイツ人によって征服された東バルト諸部族は、キリスト教化された農民となった。宗教改革による改宗は、リボニア騎士団領の存在意義を失わせ、16世紀のバルト海の覇権争いで騎士団領は解体した。バルト海の覇権争いに加わったのはロシア、ポーランド、スウェーデンで、リボニア戦争(1558~83)の結果、クルゼメ(クルランド)、ラトガレ(ラトガレン)はポーランド支配下に、ビドゼメ(南リブランド)はスウェーデン支配下となった。1721年、北方戦争後のニスタット条約で、ビドゼメはロシア支配下に移った。ポーランド領となったクルゼメ、ラトガレも、18世紀末のポーランド分割によってロシア支配下に移ったが、バルト・ドイツ人は地主貴族としての地位を維持した。

 クルゼメでは1817年に、ビドゼメでは1819年に農奴制が廃止された。1865年には、バルト海諸県の総督がこれまでのバルト・ドイツ人からロシア人に置き換えられ、1860年代末には、バルト海諸県から沿バルト諸県へと呼称も変えられた。公用語のドイツ語がロシア語にかわるのは1885年である。

 民族主義の萌芽(ほうが)は18世紀なかばにすでにみられた。民族文化の存在とその重要性を主唱したヘルダーJ. G. Herderのリガ滞在、その友人である牧師メルケルG. Merkelの啓蒙(けいもう)的書物、モラビア兄弟会による義務教育の普及運動があり、19世紀末の識字率は7割以上という高さを示した。農奴解放令とともに初等学校の設立義務、東ヨーロッパに広がっていた民族主義運動の影響も重要である。

 民族主義の運動は、民話・民謡の収集、言語の文語化、民族的叙事詩の創作など文化的なものから始まった。1860年代になると、サンクト・ペテルブルグでのラトビア語新聞の発行、1880年代には、同一言語の農民が住む地域をさす「ラトビアLatvija」ということばが生み出された。ロシア帝国軍医プンプルスA. Pumpurs(1841―1902)は1888年に13世紀のドイツ人の侵略に対するラトビア人の抵抗を描いた民族的叙事詩『ラーツィプレイシス(熊(くま)を裂く人)』を描いた。しかし、1860年代以降厳しさを増したロシア化政策は、民族主義の政治的な発展を妨げた。1890年代になると、これまでの民族主義運動とは異なり、社会主義者もその一端を担った「新思潮」とよばれる運動も現れた。

 同じく19世紀後半には、交通機関や産業の発展、都市での労働者人口が急増し、リガは1862年から1913年までに人口は5倍に、ラトビア人の人口比も23.6%から39.5%に増えている。

 このような民族の覚醒(かくせい)はバルト・ドイツ人への敵対心を導き出し、1905年サンクト・ペテルブルグでの革命を引き金に、ラトビア人居住地域でもストライキや焼き討ち、打ち壊しが起こった。これにかかわったものは30万人を超え、活動家の多くは処刑または亡命することとなった。ロシア帝国政府は革命後、沿バルト諸県への抑圧政策を強化し、ラトビア人の民族意識や社会主義運動は水面下にもぐったが、これをふたたび表出させたのが第一次世界大戦である。ドイツ軍が1915年秋にクルゼメを占領下におくと、郷土防衛の義勇兵からなるラトビア人ライフル団が設立されたが、このような民族編成の軍隊が組織されたのは、ロシア帝国内でも珍しいことであった。

 しかし、1917年のロシア革命は、ラトビア人を社会主義者グループと民族主義者グループとに分裂させ、ボリシェビキ勢力が圧倒的に優勢であったにもかかわらず、民族主義者グループが1918年11月18日に独立を宣言し、ウルマニスKarlis Ulmanisが臨時政府を率いた。臨時政府は、依然として居残るドイツ軍とラトビア人ボリシェビキのストゥチカPeteris Stuckaが率いる臨時ラトビア・ソビエト政府の存在に悩まされた。いったんはボリシェビキに追われたウルマニス政府はドイツ軍とともにリガを奪還したが、1919年にはドイツ軍司令官ゴルツ将軍Rudiger von der Goltzに支援されたニードラAndrievs Niedraの親ドイツ政府が成立した。ウルマニス政府はイギリス艦隊保護下に入ったが、エストニア軍の協力と連合軍の圧力によって1919年末までにゴルツ将軍のドイツ軍を撤退させ、1920年の春までにボリシェビキ軍をも撤退させ、4月ソビエトとの間に平和条約を調印した。この独立を特徴づけるのは、ウルマニス政府の国内支持基盤が脆弱(ぜいじゃく)であったこと、また、連合国がボリシェビズムの西漸に対する緩衝地帯として支援を与えたことである。

 ラトビア共和国は議会制民主主義の国民国家として、農業改革をはじめとする内政の諸改革に着手し、1922年に憲法(サトバルスメSatversme)も制定された。ラトビア議会(セイマスSaeimas)にも、ドイツ人、ロシア人、ユダヤ人、ポーランド人の少数民族の代表が送られ、多党乱立の状態であった。このような政治的、経済的不安定要因を国内に多く抱えていた上に、世界恐慌による経済危機の影響にみまわれた。1934年5月、ウルマニスが国軍の支持でクーデターを起こして独裁的な体制を敷き「強いラトビア人のラトビア」を目ざした。1930年代になると不穏な国際環境から、1934年にエストニア、リトアニアと「バルト協商」を締結した。しかし、1939年のソ連とナチス・ドイツとの間で結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書には、ラトビアはエストニアとともにソ連圏に置かれることが約されており、10月にはソ連との相互援助条約締結を強いられた。1940年、ソ連軍の進駐下での選挙で選出された新議会はソ連邦への加盟を決議、8月にソ連最高会議によって承認された。

 この結果、独立時代の指導者層を含む多くの人々が連行され、シベリアに送られた。1941年6月に独ソ戦が始まると、ラトビアはナチス・ドイツ軍占領下となった。1944年から1945年に、ソ連軍がふたたび当地域を奪還し始めると、多くの人々はドイツ、スウェーデンに脱出、さらに、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどへ移住した。

 ソ連軍の再占領で、ラトビアはソ連の構成共和国として、中央集権的国家の一行政単位となった。ドイツ占領下に成立していたラトビア人によるパルチザン活動は「森の兄弟」のゲリラ活動として1950年代まで続いたが、農業集団化をはじめとする厳しいソビエト化の推進で、多くがシベリアへ追放された。

 第二次世界大戦後、国内はソ連から戻った共産党員によるソ連中央政府直結の支配が進められた。強制追放や亡命による人口の激減、また、戦場となったことによる国土の荒廃からの復興のために、多くのロシア人労働者が流入してきた。さらに全ソ連邦的企業や工業化の推進によって、ソ連邦内の他共和国との依存関係ができあがり、産業のソビエト化、ロシア人人口比の増大に加えて、文化面でのソビエト化も進められた。スターリン死後の1958年には改革運動がおきたが、翌年には大粛清され、1960年代初めからふたたび厳しい中央集権的支配となった。これに対する抵抗運動は、地下活動や人権運動として続き、1970年代末には活発になっていた。1970年代ラトビアでも経済の停滞で党のスローガンと社会経済の実態との差は拡大し、党内でも批判がでてきた。ロシア人の流入で、1959年にリガのラトビア人の人口比は44.6%であったのが1989年には36.5%にまで低下し、総人口比でもラトビア人は52%、ロシア人は34%となった。

[志摩園子]

政治

1986年以降のゴルバチョフによるペレストロイカ(改革)を契機に、国内で環境保護運動が始まった。1986年10月に始まったダフガフピルスの水力発電所の拡張工事反対議論で建設中止という成果をあげたことから、バルト海の汚染に対する抗議活動、リガの地下鉄工事反対運動などが展開された。運動は、1987年になると、独ソ不可侵条約締結の日、大量のシベリア送りの日、独立記念日などのカレンダーデモに取り組むようになり、1988年には大規模化した。集会やデモではこれまで禁止されてきた古い歌を歌ったため「シンギング・レボリューション(歌とともに闘う革命)」とよばれた。

 改革派が共和国の指導層につき、改革と民主化を求める声は、ゴルバチョフの改革を支持する人民戦線(Tautas fronte)運動としてエストニア、リトアニアと連帯して展開した。1988年に設立された人民戦線が当初目ざしたのは、ソ連邦内での自立であったが、翌1989年には独立を目ざすことを明らかにした。1990年3月18日に実施された共和国最高会議議員選挙で人民戦線系が圧勝し、新たに選出されたラトビア最高会議は、リトアニア、エストニアに倣って、5月独立への過程を宣言した。人民戦線以来、バルト3共和国の連帯は続き、分離独立対ソ政策をとっていたが、ゴルバチョフは3共和国の分断政策を図り、独立交渉は暗礁に乗り上げた。それは、1991年1月の「血の日曜日事件」で表面化したが、1991年8月のモスクワでの保守派のクーデターの失敗によってその膠着(こうちゃく)状態は溶けた。9月にソ連の国家評議会は独立を正式に承認した。

 1993年6月5日に、独立回復後初めての議会選挙が実施され、セイマ(国会)が成立、ようやくソ連時代の制度から脱した。国内のロシア語住民の人権保護問題からロシア軍撤退交渉は長期にわたったが、1994年8月に撤退は完了し、このとき見送られたスクルンダ・レーダー基地の解体も1999年に完了した。ロシア語住民の問題は、国籍法の成立を難航させ、帰化申請手続の規定は1994年に制定され、翌1995年に旧ソ連国籍者に関する法律が制定された。

[志摩園子]

外交

民主化・自立・分離独立運動の過程で示されてきたエストニア、リトアニアとの地域協力は、基本的には独立回復後も継続されているが、国内問題や経済発展の相違が大きくなった。独立回復後の対外政策の基本方針はヨーロッパへの回帰であり、EU(ヨーロッパ連合)、NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)への加盟を自国の安全保障上、もっとも重要とした。1994年2月にはNATOと「平和のためのパートナーシップ」文書に調印、6月には、EUとの自由貿易協定に、1995年6月にはEUの準加盟協定に調印した。2000年2月にはEU加盟交渉の対象国としてラトビアが加わり、同年3月のバルト三国大統領会談ではNATO・EUの加盟に向けた協力が確認された。その後2002年に行われたNATOとEUの首脳会議でバルト三国はNATO、EUともに2004年に加盟することが決定され、2004年3月NATOに、同年5月EUに加盟した。

[志摩園子]

経済・産業

ラトビアは、ソ連内では発展した工業と集約的な機械化農業が特徴で、生活水準も相対的に高い地域であった。ソ連時代に集権的な経済管理の下で地域分業システムがとられ、重工業や食品加工業の育成強化に重点をおいた産業構造となっていた。電機・エレクトロニクス工業、化学工業、鉄道車両、食品機械、化学繊維、製紙、食肉、酪農製品などをほかの地域に移出していた。

 ソ連解体後、エネルギー、工業原料などの連邦からの安定的な供給が止まり、広大な製品市場を失って工業生産も大きく低下し、1993年には失業率が20%台に達した。経済混乱が続き、インフレが高進したため、独自の通貨ラトを導入した。2000年現在の主要貿易相手国はドイツ、イギリス、ロシア、スウェーデン、リトアニアで、おもな輸出品は木材や木材加工品、繊維、金属、金属加工品、輸入品は工作機械、電気機械、鉱物、化学製品などである。農業では畜産と酪農が盛んで、農作物は大麦、ライ麦、エンバクなどのほか、ジャガイモ、野菜、亜麻などが栽培されている。リガ周辺の農業地域では、都市向けの野菜、飼料用のテンサイが栽培され、集約的な畜産が発展している。

[山本 茂]

住民

ラトビアの国語は、インド・ヨーロッパ語族に含まれるバルト語派の一つ、ラトビア語であるが、長いソ連時代を経て、ラトビア人の3分の2がロシア語を話し、ロシア語の普及率が高い。民族構成は、ラトビア人の比率がわずかに過半数を越える57.6%で、ついでロシア人(29.6%)、ベラルーシ人(4.1%)などからなる。ソ連時代にロシア化が進められ、ロシア人の比率が高くなった。最大の都市は首都リガであるが、ほかに南東部に古都ダウガフピルス、バルト海に臨む港湾都市リエパヤ、夏の保養都市ユルマラなどの都市がある。都市人口の比率が高く(72.8%、1995)、首都リガへの一極集中がみられる。

[山本 茂]

『小森宏美・橋本伸也著『バルト諸国の歴史と現在』(2002・東洋書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「ラトビア」の意味・わかりやすい解説

ラトビア
Latvija
Latvia

基本情報
正式名称=ラトビア共和国Latvijas Republika/Republic of Latvia 
面積=6万4559km2 
人口(2010)=224万人 
首都=リガRiga(日本との時差=-7時間) 
主要言語=ラトビア語(公用語),ロシア語 
通貨=ラッツLats

ヨーロッパ北部に位置する共和国。1920年にラトビア人が建国したバルト海東岸の共和国で沿バルトPribaltika三国の一つ。40年ソ連邦に併合されたが,91年再び独立した。北はエストニア,東はロシア,南東はベラルーシ(白ロシア),南はリトアニアの各共和国に接する。西はバルト海とリガ湾に臨み,国章にも海が描かれている。おもな言語はラトビア語とロシア語。

平たんな国土を氷河堆積物が厚くおおい,ところにより200m前後のモレーンの丘陵が続く。〈リボニアのスイス〉とよばれる東部丘陵地帯には大小の湖がある。中央ビゼム丘陵(最高点311m)と南東部のラトガレ丘陵の間の東ラトビア平地はじめ,各地に沼沢地が多く,干拓が進められている。土壌は一般にポドゾル性で,丘陵の高地では浸食が進んでいる。古代からの東ヨーロッパ平原北西部の交易路である西ドビナ川(ダウガバ川)がリガ湾へ,西部のクルゼム高地を東西に分けるベンタ川がバルト海に注ぐ。バルト海岸は古くからコハクの採取地として知られ,またいたるところに広がる砂浜が現在は保養地として利用されている。大西洋気団の影響を受けて,比較的湿潤であり,年間平均降水量が地方により550~800mm,平均気温が7月に16~18℃,1月に-2℃(海岸部)~-7℃(内陸部)である。緑地面積が半ば近くを占めて〈緑の土地〉とよばれ,国土の38%を覆う森林は針葉樹が主であるが,落葉樹も多い。国立公園ガウヤをはじめ九つの保護区域があり,シカ,ヘラジカ,ビーバーなどは生息数が増加している。

1989年の人口調査では総人口の51.8%がラトビア人であるが,1959年にはその比率は62%,1935年には75%であった。ラトビア人人口の比率の低下は,ラトビア人人口の自然増加率の低いこととロシア人の移住の増加がその原因で,ロシア人は89年には33.8%(1959年には26.6%)を占めている。ほかに白ロシア人が4.5%,ウクライナ人が3.4%,ポーランド人が2.3%,その他4.2%である。都市人口は1983年に70%を占めるが,ロシア人の8割以上が都市に住むのに対し,ラトビア人は約5割である。住民の宗教は現在は不明であるが,1935年にはルター派68%,カトリック26%であった。

現在のラトビアの地は13世紀にドイツ人が征服・命名した広義のリボニアの南半(1561年以後は狭義のリボニアの中・南部とクールランド)に当たり,リボニア連盟,リトアニア・ポーランド,スウェーデンの統治を経て,18世紀の北方戦争とポーランド分割でロシア領となった。支配民族は13世紀以来ドイツ人で,ラトビア人は彼らの農奴になったが,1817-19年ロシア本国に先立って行われた農奴解放で資本主義の発展も早く,ラトビア人の労働者,資本家,知識人が発生した。54年にドルパート大学(現,タルトゥ大学)のラトビア人学生の組織した〈青年ラトビア〉運動以来,啓蒙・教育活動が活発化し,民謡の収集も行われ,民族意識が高まった。

 第1次世界大戦中のドイツ軍による占領とラトビア人部隊の活躍,ロシア革命の波及と1918年末のソビエト権力宣言,赤軍とドイツ人義勇軍や連合国との戦いなどを経て,20年にはウルマニスKārlis Ulmanis(1877-1942)政権下に独立共和国が生まれた。ドイツ人は土地改革などの民族政府のドイツ人排除政策のためしだいに引き揚げたが,ドイツ文化の影響は都市の景観などとともに永く残った。22年民主憲法が採択され,イギリスの援助もあったが,大きな戦禍とロシア市場との一時的断絶のため経済の再建は困難で,34年ウルマニスが全体主義体制をとり,39年ドイツと不可侵条約を結んだ。第2次世界大戦開始後,ソ連の圧力が強まった40年夏に連邦に加入した。独ソ戦ではドイツ軍に占領されたが,45年解放された。この過程では住民多数の虐殺,亡命,強制移住がともなった。

 80年代後半になってラトビアの独自性を主張する運動が高まり,90年5月ラトビア最高会議は独立宣言を採択した。連邦政府はこれを認めなかったが,91年8月に起こった連邦政府保守派によるクーデタ失敗で情勢は急変し,独立が承認された。

独立前から沿バルト随一の工業都市リガを擁したラトビアも,独立期には工業の発展が停滞したが,戦後復興後の工業化のテンポは速く,労働生産性と製品の質の点でもソ連邦では評価が高く,1人当りの国民所得はエストニアに次いでいる。1981年の工業生産高はソ連邦加入時の46倍で,この間にダウガフピルスなどの新たな産業都市が生まれた。この国は泥炭のほかみるべきエネルギー資源を欠いていたが,西ドビナ川の水力発電開発に加えて,石油・天然ガスを他共和国から供給され,現在は西シベリアの天然ガスも導入されて,エネルギー消費量が急増している。おもな工業は電気・電子工業,金属加工,化学工業で,車両,機関車,電車,ディーゼル車,発電機,冷凍設備などを,民需用のスクーター,ラジオ,冷蔵庫,化学繊維,靴,靴下などとともに大量に他共和国に供給しているが,銑鉄,普通乗用車などは逆に移入している。

 農業集団化は1947-50年農民の抵抗を排除して強行され,生産は一時激減した。82年末に319のコルホーズ(11の漁業組合を含む)と244のソホーズがあり,政策的に酪農と食肉生産に力が入れられ,食品加工も盛んであるが,生産量は近年停滞ぎみである。

すでにロシア帝国内で普通教育がよく普及していたラトビアは,現在,高等教育の普及度をエストニアと競っている。初等教育ではロシア語使用校と併用校がふえ,ラトビア語使用校でもロシア語学習は義務制である。ラトビア国立大学(10学部)はじめ高等教育機関は10あり,1980年に4万6300人の学生が在学している。ラトビア語とロシア語の出版所があり,新聞・雑誌も両国語で発行され,図書・小冊子の出版点数は1965年の1920点が79年に2339点になったが,ラトビア語出版物の点数は相対的に減っている。

 民族意識の表現として1873年に始まった歌唱祭が国民的人気を得ており,5年ごとに地方予選を通った合唱団,管弦楽団,舞踊団がリガで競演する。また伝統的な〈洗礼者ヨハネの祝日〉が,1960年の政府の禁止後も守られている。81-82年のポーランドの〈連帯〉運動の影響も一部で報ぜられたが,詳細は不明。
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百科事典マイペディア 「ラトビア」の意味・わかりやすい解説

ラトビア

◎正式名称−ラトビア共和国Latvijas Republika/Republic of Latvia。◎面積−6万4559km2。◎人口−200万人(2014)。◎首都−リガRiga(66万人,2011)。◎住民−ラトビア人59%,ロシア人28.5%,ベラルーシ人3.8%,ウクライナ人2.5%,ポーランド人2.4%。◎宗教−西部はプロテスタント(ルター派),東部はカトリック。ほかにロシア正教。◎言語−ラトビア語(公用語),ロシア語。◎通貨−ユーロEuro。◎元首−大統領,ライモンツ・ベーヨニス(1966年生れ,2015年7月就任,任期4年)。◎首相−ストラウユマLaimdota Straujuma(2014年1月発足)。◎憲法−1993年7月,1922年憲法を正式に復活。◎国会−一院制(定員100,任期4年)(2014)。◎GDP−338億ドル(2008)。◎1人当りGNI−8100ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−13%(1997)。◎平均寿命−男67.1歳,女77.1歳(2007)。◎乳児死亡率−5.7‰(2010)。◎識字率−99.8%(2009)。    *    *ヨーロッパ北部,バルト三国中央の共和国。北西部はバルト海およびリガ湾に面する。国土の大部分は低い平原(最高点311m)で,中央部を西ドビナ川(ダウガバ川)が貫流する。湖沼が多く,森林は国土の約37%を占める。住民の6割はラトビア語を話すラトビア人だが,ロシア系住民が3割近くを占める(2005年)。肉牛,乳牛の畜産が主で,農業ではエンバク,大麦,ジャガイモ,アマ,テンサイなどが主要産物。泥炭,石膏の鉱産があり,リガを中心に,製紙,繊維,セメント,肥料などの工業が行われる。 中石器時代以後の遺跡が分布し,12世紀にはラトビア人の最初の国家が出現した。13世紀にドイツ騎士修道会に支配され,17世紀にはポーランド領とスウェーデン領に分割された。18世紀に入り北方戦争ポーランド分割で,全域がロシアに併合された。ロシア革命後の1918年親西欧的な共和国の独立が宣言されたが,1940年ソ連軍占領下で選ばれた政府,議会がソ連邦への加入を決めた。ペレストロイカ期の1988年〈ラトビア人民戦線〉は共和国の再建をめざす活動を開始し,1990年議会はソ連との交渉による独立を決議したが,ソ連はこれを認めなかった。1991年8月モスクワでの保守派によるクーデタの動きのなかで独立を宣言し,同年9月国連に加盟した。ロシア系住民の処遇が大きな問題になっている。2004年3月他の中東欧6ヵ国とともにNATO(北大西洋条約機構)に加盟し,同年5月エストニア,リトアニアとともにヨーロッパ連合(EU)に加盟した。2014年1月ユーロを導入。
→関連項目リガ湾

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラトビア」の意味・わかりやすい解説

ラトビア
Latvia

正式名称 ラトビア共和国 Latvijas Republika。
面積 6万4594km2
人口 188万7000(2021推計)。
首都 リガ

バルト海沿岸にあるバルト3国の中央に位置する国。国土の4分の3が波状平原で,西部と東部に丘陵がある。氷河に浸食され,モレーン (氷堆石) の丘陵,湖沼が多い。ダウガバ川 (→西ドビナ川 ) が主要河川をなす。気候は海洋性から大陸性への遷移地帯で,平均気温は1月-7~-2℃,7月 17℃。年降水量 700~800mm。混合林地帯である。住民の半数以上がラトビア人で,約3分の1はロシア人。公用語はラトビア語。紀元前よりインド=ヨーロッパ語族に属する言語をもつバルト族が居住し,牧畜と農耕を中心に発展。 12世紀にはバルト族のラトビア人による国家も出現したが,13世紀ドイツ騎士団,16世紀ポーランド,スウェーデン,18世紀ロシアの支配下に入った。 1918年独立したが,1940年ソビエト連邦に編入され,ラトビア=ソビエト社会主義共和国として,ソ連で生産・生活水準の最も高い共和国の一つとなった。 1990年5月独立を宣言し,1991年9月独立を達成して現国名となり,国際連合に加盟。 2004年にはヨーロッパ連合 EU,北大西洋条約機構 NATOに加盟。主要工業は電機,電子,鉄道車両,医薬品,製紙,化学繊維,家具,食品 (水産物加工,食肉,乳製品) など。主要農業部門は酪農と養豚で,ベーコン製造が盛ん。また海岸と鉱泉地が保養地として利用される。古くから琥珀の産地として知られる。国内は鉄道・道路網が発達し,バルト海の海運の中心地でもある。 (→ラトビア史 )

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知恵蔵 「ラトビア」の解説

ラトビア

1997年8月にグンタルス・クラスツを首相として、「祖国と自由」や「ラトビアの道」など中道右派の連立内閣が成立。98年11月には、「ラトビアの道」のクリストパンスを首相とする中道右派連立内閣が成立。その後、ベルジンジュ、レブジェが首相となったが、2004年3月に国民党、ラトビア第一党、「緑と農民連合」の連立によるエムシス内閣が成立した。ロシアとの関係では、98年3月にロシア系住民のデモをラトビア警察が実力で排除する光景がロシアで放映され、またナチス軍側で戦った軍人のパレードにラトビア政府高官が参加して、ロシア国民を刺激した。これらがきっかけで、98年4月にはロシアが石油輸出の制限など、経済制裁で圧力を加えるという事態に発展した。05年にロシアとの国境条約に調印したが、ラトビア側は元ラトビア領がロシア領となっていると明記したため、ロシアは批准を拒否した。03年6月の大統領選挙で、元モントリオール大学教授のワイラ・ビケフレイベルガが大統領に再選された。08年1月に欧州経済通貨同盟(EMU)に加盟予定。

(袴田茂樹 青山学院大学教授 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

世界大百科事典(旧版)内のラトビアの言及

【ソビエト文学】より

…詩人クパーラ,コーラスYakub Kolas(1882‐1956)がその代表的作家である。
[バルト3国の文学]
 北のエストニアは言語がウラル語族のフィン語派に属し,ラトビア,リトアニアはともにインド・ヨーロッパ語族のバルト語派に属するが,歴史的・文化的には,エストニア,ラトビアの両国に共通点が多い。この両国は北欧諸国,ドイツ騎士修道会に領有されドイツ的影響を強く受け,18世紀のピョートル1世時代にロシアに併合されたが,1816‐19年にいち早く農奴解放が行われ,ロマン主義時代には近代文学の基が築かれた。…

※「ラトビア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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