デジタル大辞泉 「下野」の意味・読み・例文・類語
げ‐や【下野】
[類語]引退・退陣・退職・退任・退役・退官・辞職・辞任・勇退・リタイア・離れる・
栃木県南部の市。2006年1月石橋(いしばし),国分寺(こくぶんじ),南河内(みなみかわち)の3町が合体して成立。人口5万9483(2010)。
下野市北部の旧町。旧下都賀(しもつが)郡所属。人口1万9498(2000)。宇都宮市の南に接し,町域の東部は台地,西部は思川沿いの低地である。中心集落の石橋は近世は日光街道の宿場町で,1898年に馬市が開設され,第2次世界大戦前まで馬の取引でにぎわった。周辺で生産されるカンピョウ取引の中心地でもある。JR東北本線が通り,1962年ころから国道4号線沿いに工業団地が造成され,ハムや繊維製品の工場が進出した。また宇都宮市,小山市などへの通勤者が多い。農業ではトマト,キュウリなどのハウス栽培が多い。
下野市南西部の旧町。旧下都賀郡所属。人口1万6714(2000)。小山市の北に接し,町域の大部分は低い台地で,西部を思川が南流する。中心集落の小金井は近世,日光街道の宿場町で,小金井一里塚(史)が今に残る。ビール麦が生産され,麦芽工場も立地している。また電子部品などの中小工場も進出している。1966年に東北本線小金井駅の北に小山電車基地が完成,東京方面への交通の便がよくなり,人口が増加した。国分地区には下野国分寺跡(史),同尼寺跡(史)があり,しもつけ風土記の丘も開設されている。
下野市南東部の旧町。旧河内郡所属。人口2万1235(2000)。鬼怒川西岸の低地および台地を占める。米とカンピョウを中心とする農業の村であったが,1970年代になって,町の北部に自治医科大学,同付属病院が開設され,南部にも工業団地が造成されて,都市化が進んだ。南部の鬼怒川沿岸では農家の副業として結城紬(ゆうきつむぎ)が生産され,技術保存会もつくられている。奈良時代に日本三戒壇の一つとされた下野薬師寺跡(史)がある。西に接する旧国分寺町との境を東北本線が,中央部を国道4号線バイパスが走る。JR東北本線自治医大駅付近では宅地開発が進んでいる。
執筆者:千葉 立也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
栃木県南部に位置する市。2006年(平成18)、河内(かわち)郡南河内町、下都賀(しもつが)郡石橋町(いしばしまち)、国分寺町(こくぶんじまち)が合併して市制施行、下野市となった。市の中央部をJR東北本線(宇都宮線)、国道4号が並行して南北に通り、この東方を新4号バイパスが縦貫し、市の北部を国道352号が横断する。市域の西境を南流する思(おもい)川と支流の姿(すがた)川に挟まれた台地上に、奈良時代、下野国分寺・国分尼寺が創建された。国指定史跡の両寺跡は、史跡公園として整備されている。7世紀後半から8世紀前半にかけて創建された下野薬師寺(やくしじ)(寺跡は国指定史跡)は日本三戒壇の一つに数えられる。道鏡が別当として左遷され、当地で没した。中世、姿川左岸の下古山(しもこやま)に宇都宮氏一族の児山朝定が築城したと伝える児山城(こやまじょう)があった。
近世には姿川東岸を日光街道が南北に通り、小金井(こがねい)宿、石橋宿が形成される。両宿には本陣・脇本陣が置かれ、周辺農村の中心町として栄えた。小金井一里塚は国指定史跡。1972年(昭和47)地内薬師寺に私立自治医科大学が開校、附属病院は医療センターとして発展。かんぴょう(干瓢)や農家の副業に織られていた結城紬(ゆうきつむぎ)が特産品。現在は都市近郊農業で、米、麦を中心にホウレンソウ、タマネギなどの露地栽培、またキュウリ、トマト、イチゴなどの施設園芸や肥育牛との複合経営も盛ん。工業は建設用木材加工、電気機械、プラスチック、食品加工などが中心。住宅団地の造成など、宅地化も進行している。面積74.59平方キロメートル、人口5万9507(2020)。
[編集部]
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