中院(読み)ナカノイン

デジタル大辞泉 「中院」の意味・読み・例文・類語

なかのいん【中院】[姓氏]

姓氏の一。村上源氏一流具平親王の子師房臣籍に下って源姓を賜り、その後裔である鎌倉時代の大納言通方みちかたを祖とする。
[補説]「中院」姓の人物
中院通勝なかのいんみちかつ
中院通村なかのいんみちむら

ちゅう‐いん〔‐ヰン〕【中院】

同時に三人以上の上皇または法皇があるとき、2番目の人。本院新院に対していう。なかのいん。
斎宮寮の一。かみ以下の役人の詰め所
矢の的で、三重の輪の2番目の部分

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精選版 日本国語大辞典 「中院」の意味・読み・例文・類語

ちゅう‐いん ‥ヰン【中院】

[1] 〘名〙
① 上皇が一時に三人以上ある時、二番目の上皇をいう称。本院・新院に対する言いかた。
※有明の別(12C後)一「中院の行幸のほど、げに御らんじなれにしかたは、ふと御むねふたがりて」
② 斎宮寮の頭以下の役人の詰所。〔新任弁官抄(1158‐59頃)〕
③ 弓の的の部分の名。三重に書いた黒い輪の二番目に当たる部分。
※続日本紀‐慶雲三年(706)正月壬辰「定大射祿法〈略〉一箭中外院、布二十端、中院二十五端、内院三十端」
[2]
[二] 藤原為家が父定家、舅蓮生より受けついだ嵯峨の山荘。また、特に為家を指す。
明月記‐嘉禎元年(1235)五月一日「午終自中院頻招請」

なか‐の‐いん ‥ヰン【中院】

[1] 〘名〙 =ちゅういん(中院)(一)①
※公衡公記‐正応二年(1289)正月二日「次大将殿〈略〉令禅林寺殿給〈中の院御座〉」
[2] 京都、六条の北、烏丸の西にあった、もと淳和院領の邸。
※今鏡(1170)六「やうやういそぎいでて、つぎに中の院にわたりて、内のおとどの御よろこび申給ければ」

なかのいん なかのヰン【中院】

姓氏の一つ。村上源氏。源雅定が中院右大臣を称し、その曾孫通方が分家して中院家初代となる。大臣家の一つ。

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日本歴史地名大系 「中院」の解説

中院
なかいん

[現在地名]川越市小仙波町

新河岸川右岸平坦地に立地。星野山と号し、天台宗。本尊阿弥陀如来。創建年は不詳だが、延暦寺の円仁が堂塔を建立したのに始まると伝える。当地比叡山と密接な関係をもつのは河越庄が新日吉社領であったからと考えられる。中世、尊海が天台宗の談義所(仙波談所)の星野山無量寿むりようじゆ寺を再興したといい、この関東天台宗を代表する談義所のなかの仏地ぶつち(仏地院)と称する子院であった。鎌倉宝戒ほうかい寺蔵の合壇灌頂随意私記の奥書に、永享一二年(一四四〇)「仙波仏地房」とみえる。無量寿寺中の同様の子院に喜多院前身仏蔵ぶつぞう(仏蔵院)があった。喜多院蔵の暦応五年(一三四二)四月一五日銘の板碑(県指定史跡)に、無量寿寺を中心とした関東天台宗の法流を示す尊海を含めた多数の僧侶名が記され、延文三年(一三五八)一〇月八日銘の板碑にも同様に多数の僧侶名が記されている。康暦二年(一三八〇)四月七日の檀那門跡相承資并恵心流相承次第(逢善寺文書)に「武州仙波ノ尊海ト申ハ、上総国ノ人也」とみえる。以降当院は尊海の筋目が継承していたようである(永禄元年一〇月一五日「曼殊院覚如法親王令旨」中院文書)

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世界大百科事典(旧版)内の中院の言及

【神嘉殿】より

…平安宮の中院の正殿。中院は中和院(ちゆうかいん)とも称し,内裏の中枢部の内重の西側に位置し,内裏の外重の北西隅に築垣に囲まれた一院を形成する。…

【中和院】より

…平安宮内裏の西にある一区画。中院ともよばれていた。中院の初見は804年(延暦23)8月(《日本後紀》),中和院は831年(天長8)8月(《類聚国史》)で,両者併用されていたらしい。…

※「中院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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