任那(読み)ミマナ

デジタル大辞泉 「任那」の意味・読み・例文・類語

みまな【任那】

古代朝鮮半島南部にあった一小国家。朝鮮史料には、金官加耶かや金海)の別名として3回だけ現れる。日本書紀では「みまな」と読み、広義では朝鮮半島南部加耶をさす。6世紀半ば、新羅しらぎに併合された。にんな。

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精選版 日本国語大辞典 「任那」の意味・読み・例文・類語

みまな【任那】

  1. 四世紀から六世紀にかけて、朝鮮半島南部に興った小国家群、伽倻国の諸国の一つ金官国のこと。「日本書紀」では、伽倻国全体をさす。高句麗の好太王碑文に初見。古くから日本と楽浪・帯方両郡との交通の重要な中継地であったので、四世紀中ごろ、大和朝廷大軍を送り、旧弁韓地域を占領の軍事的拠点として日本府を置いたが、五世紀以後国内の動揺と高句麗・百済・新羅の圧迫とにより、五六二年新羅に滅ぼされた。日本府のことは「日本書紀」の所伝であるが、実在しなかったとする説もある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「任那」の意味・わかりやすい解説

任那(みまな)
みまな

朝鮮古代の国名。「にんな」とも読む。別名は伽耶(かや)、加良(から)、駕洛(からく)など多数あるが、国際的には加羅(から)と書く。任那の国名は日本でしばしば使用されるが、朝鮮ではほとんど使用されない。日本では「みまな」と訓読するが、これは狭義の任那の始祖王后来臨の聖地主浦(しゅほ)(ニムナ)の地名による。広義の任那は時代により変動し、洛東江(らくとうこう)下流域を中心に、ときに中流域にまで及んだ。

 任那地方の基層文化は海洋文化を含む南方系文化が主であり、北方系の騎馬文化などは貴族文化に多い。任那諸国は山地、丘陵、沼沢の多い地形的条件と、大国に隣接していなかった国際環境などから、基本的には小国分立の状態であった。

井上秀雄

成立期の任那

この地方では、農耕生産の普及や支石墓社会の形成などから、紀元前1世紀ごろに初期的な国家ができたとみられる。3世紀の任那地方は『三国志』によれば、弁韓(べんかん)、辰韓(しんかん)各12国があったという。これら諸国のなかには、連合して辰国をつくったものもあるが、その王は農耕生産を維持、発展させるシャーマンであり、政治権力をもたない初期的な国家であった。

[井上秀雄]

4世紀後半の任那

『日本書紀』に引用されている「百済(くだら)本記」によれば、百済は近肖古(きんしょうこ)王代(346~375)から任那諸国と国交を開いたという。また、広開土王碑文では、400年ごろのこの地方には、任那加羅(金海)や安羅(咸安(かんあん))など多くの国々があり、これらの諸国間にはかなり緊密な協力関係があった。その後も任那諸国は、百済や朝鮮南海岸地方ないしは北九州にあった倭(わ)国と協力して、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)と対立していた。4世紀後半に任那諸国が朝鮮の諸国と本格的な交渉をもつようになると、任那諸国の王の権威が向上し、その古墳も飛躍的に大きくなった。この時期から中心的に活躍する任那加羅は狭義の任那で、現在の慶尚南道金海市にあり、532年新羅に降服するまで、加羅諸国の有力国であった。また、任那加羅は『三国志』に弁辰狗邪(くや)国、狗邪韓(くやかん)国とあり、韓族、倭、中国などの海上交通の要衝として栄えた。大和(やまと)王朝の朝鮮進出の基地とされる任那日本府がこの地に置かれたといわれているが、それを証明するものはない。その開国神話は日本の天孫降臨神話の祖型で、始祖王后の海洋渡航神話も日本の神話と類似したところがある。また、任那諸国の新文物、新知識を日本にもたらした秦(はた)氏の出身地はこの任那加羅で、漢(あや)氏の出身地は安羅とみられる。

[井上秀雄]

5世紀の任那

5世紀前半期の朝鮮は比較的安定し、任那諸国もそれぞれ自国の充実に努めていた。ただ倭国が、430年から任那(任那加羅)、加羅(高霊加羅)を含む六~七国諸軍事の称号を繰り返し南朝宋(そう)に求めるなど、朝鮮の国際関係に積極的な関心を示した。後半期には、新羅が洛東江流域に勢力を伸ばし、任那諸国と接触交渉が始まり、部分的な抗争も起こった。百済も全羅道に勢力を伸ばし、任那諸国との接触が深まった。また479年加羅王荷知(かち)が、南斉(なんせい)から輔(ほ)国将軍加羅国王の官爵を与えられ、国際社会に登場した。この時期の文化で注目されることは、地域的な特色が明瞭(めいりょう)になったことである。たとえば、丸底壺(つぼ)類をのせる器台では、西方に多い低平な器台、東部に多い高杯型器台、中央部に多い筒型器台など地方的な特色をもつようになる。また、異形土器が発達し、鴨(かも)形、舟形、車形、家形など各種の象形土器がみられる。任那加羅とともに狭義の任那とよばれる高霊加羅は大伽耶、大加羅ともいわれ、任那諸国の有力国で、現在の慶尚北道高霊郡にあった。ただし高霊加羅を任那とよぶのは、『日本書紀』の誤解によるとする説がある。伝承では43年に建国し、16代520年間続き、562年に新羅に併合されたという。6世紀には、任那諸国の盟主として活躍し、その文化も任那諸国を代表するもので、伽耶琴(かやきん)・加羅楽の発祥地、原始絵画、装飾古墳などがある。

[井上秀雄]

6世紀の任那

5世紀末から百済の勢力が任那南西部に侵入した。百済はこの事態を大和王朝に承認させるため、五経博士(ごきょうはかせ)などを送った。これに反対する任那諸国は新羅に援助を求めた。新羅は525年に洛東江上流域に上州を設置し、百済と対立した。任那諸国のなかには百済、新羅の侵略に対抗するため、五伽耶、六伽耶、加羅七国、浦上(ほじょう)八国など連合体を組織するものもあった。その連合の組織では、諸国の代表者が集まって外交、軍事の実務を協議していた。しかし、当時の加羅諸国には、小国のままのものから数個の小国を統合した国まであって、諸国間の利害が対立し、各国支配者層内に親百済派、親新羅派が生じて混乱した。この混乱を利用した新羅に任那はしだいに侵略されて、532年に任那加羅など、562年に高霊加羅を中心とする残余の任那諸国が併合された。新羅に併合されたのちも任那諸国は比較的自立性が強く、新羅の直接支配を受けるようになるのは、統一新羅になってからである。この時期の貴族文化は、高句麗、百済からの影響が強くみられる。

[井上秀雄]

『末松保和著『任那興亡史』(1949・吉川弘文館)』『金廷鶴著『日本の歴史 別巻 任那と日本』(1977・小学館)』『井上秀雄著『任那日本府と倭』(1973・東出版寧楽社)』『井上秀雄著『古代朝鮮』(NHKブックス)』



任那(にんな)
にんな

任那

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百科事典マイペディア 「任那」の意味・わかりやすい解説

任那【みまな】

古代の朝鮮南東部にあった国。〈にんな〉とも。532年新羅(しらぎ)に併合された金海加羅の別名であるが,562年まで続いた加羅諸国を指すこともある。朝鮮の古代史料では前者の用例のみだが,日本の《日本書紀》などでは両義に使われている。洛東江下流域に4―6世紀に存在した加羅諸国と大和朝廷とは国交があり,書紀に引用されている《百済本記》によれば,6世紀中葉に加羅地方に〈任那日本府〉という機関があったとされる。従来は,これを日本の出先機関とし,562年まで朝鮮支配の拠点であったとされてきたが,近年の研究ではその存在は疑問とされている。→弁韓
→関連項目飛鳥時代遣新羅使三韓物部尾輿

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改訂新版 世界大百科事典 「任那」の意味・わかりやすい解説

任那 (みまな)
Imna

朝鮮古代の国名。〈にんな〉ともいう。532年に滅亡した金海加羅国の別名であるが,562年までつづいた加羅諸国を指すこともある。任那は《日本書紀》など日本の史料と〈広開土王碑〉や《三国史記》など朝鮮の史料とでは,使用頻度,読み方,領域などに,相違がみられる。日本では任那の名称を多用し,これをミマナとよみ,洛東江流域の加羅諸国やときには蟾津(せんしん)江流域の諸国まで含む広義の任那と,金海加羅国のみをさす狭義の任那との二様に使用している。朝鮮の古代史料には任那の名称は,わずか3例しかみられない。これをニムナとよみ,金海加羅国のみをさしている。ミマナのよみは,ニムナの転訛したものである。ニムナのよみは金海加羅国の始祖王后の許黄玉が来臨した聖地主浦の古訓に由来している。日本で広義に任那を使用したことは,韓(から)や唐(から)の場合と同様に,もっとも関係の深かった任那の国名を,加羅諸国などに拡大使用したためである。
加羅 →金海加羅
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「任那」の意味・わかりやすい解説

任那
みまな
Imna

「にんな」ともいう。4~6世紀頃,朝鮮半島南部に日本 (倭) が領有していた属領的諸国の総称。日本が楽浪・帯方郡時代 (前 108~後 313) に朝鮮半島と交渉があったことは文献的に確認されている。4世紀に入ると,半島は高句麗が南下して楽浪郡を陥れ,同じ頃韓・濊 (わい) 諸族によって帯方郡が滅び,同世紀中頃には半島の西部に百済,東部に新羅が建国した。『日本書紀』によれば,このような半島の情勢に対して,日本は半島に有利な立場を築くため,370年前後に大軍を送って半島南部の諸小国群をその支配に繰入れ,いわゆる「任那」を成立させた。なお「任那日本府」という『日本書紀』の表現は後世の総督府的存在と解釈すべきではない。5世紀以後,大和政権の動揺と百済,新羅の進出によって任那は分割され,やがて欽明 23 (562) 年に滅亡した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「任那」の解説

任那
みまな

古代の朝鮮半島南部の国名。本来は金官加羅(きんかんから)(金官国)をさすが,のち加羅(加耶(かや))と同義となる。任那の名称は朝鮮の史料ではわずか3例で,好太王碑文に任那加羅,「三国史記」列伝に強首がもと任那加良人,真鏡大師塔碑銘に大師の祖は任那の王族とあるのみで,いずれも金官加羅のことと思われる。他方,日本の文献には多くの用例がある。「日本書紀」崇神65年条に,蘇那曷叱知(そなかしち)を派遣した任那は新羅(しらぎ)の南西とみえ金官国であるが,以後日本が加羅諸国と交流を深めるにつれ,加羅諸国全体の呼称として定着した。倭王武の上表文の任那・加羅も同義反復とされている。欽明2年条に任那日本府の語があり,官家(かんけ)とも称されたため,この地を日本の植民地とする説もあるが,その事実はない。

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旺文社世界史事典 三訂版 「任那」の解説

任那
にんな

朝鮮古代の国名
4〜6世紀ころ朝鮮半島南部の弁韓の地にあった金海加羅国の別名。また562年までつづいた加羅諸国をさすこともある。日本の史料『日本書紀』と,朝鮮の史料「広開土王碑」や『三国史記』では,読み方・領域などに相違がみられる。日本では任那の名称を多用し,ミマナと読んだ。また,任那問題に関しては,『日本書紀』引用の『百済本記』にみえる6世紀半ばの加羅地方の政治組織としての任那日本府の存在について,学界でも諸説に分かれている。(1)『百済本記』の史料価値,(2)大和朝廷と加羅諸国・百済との関係,(3)任那日本府の名称と実態,(4)任那が調を納めた新羅・百済との関係など,史実解明が求められている。なお朝鮮の学界では,任那日本府の実在は否定されている。

任那
みまな

にんな

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旺文社日本史事典 三訂版 「任那」の解説

任那
みまな

古代の朝鮮半島南部にあった加羅(加耶 (かや) )諸国の一つで,金官国をさす
『日本書紀』では加羅諸国の総称として用いられる場合が多い。日本は任那(加羅諸国)の独立を援助するため,軍事・外交施設を置いたが,新羅 (しらぎ) の侵略,大和政権内部の動揺,外交上の不手際などがあり,562年欽明天皇のとき,新羅に滅ぼされ,その後たびたび復興がはかられたがいずれも失敗した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「任那」の解説

任那(にんな)
Imna

『日本書紀』などの主に日本の史料に記された朝鮮古代の国名。「みまな」ともいう。3世紀初めから6世紀末にかけて洛東江流域に存在した加羅諸国をさす場合と,その一つである金海加羅国のみをさす場合がある。日本では加羅諸国を統制する「日本府」が4世紀以降ここに設けられたとするが,その存在は現在では否定されている。


任那(みまな)

任那(にんな)

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世界大百科事典(旧版)内の任那の言及

【任那】より

…532年に滅亡した金海加羅国の別名であるが,562年までつづいた加羅諸国を指すこともある。任那は《日本書紀》など日本の史料と〈広開土王碑〉や《三国史記》など朝鮮の史料とでは,使用頻度,読み方,領域などに,相違がみられる。日本では任那の名称を多用し,これをミマナとよみ,洛東江流域の加羅諸国やときには蟾津(せんしん)江流域の諸国まで含む広義の任那と,金海加羅国のみをさす狭義の任那との二様に使用している。…

【加羅】より

…朝鮮古代の国名。別名は伽耶をはじめ加耶,伽倻,加良,駕洛,任那など多数あるが,いずれも同じ国名を異なる漢字で表記しようとしたためである。加羅の用法には広狭二様あり,加羅諸国全体をさす広義と,加羅諸国中の特定の国(金海加羅高霊加羅)を呼ぶ狭義とがある。…

【金海加羅】より

…朝鮮古代の加羅諸国中の有力国。別名は金官加羅,大伽耶,狗邪(くや)国,狗邪韓国,駕洛(から)国,任那(みまな)加羅,任那。現在の慶尚南道金海郡を中心とし,王都址の金海邑には多くの遺跡があり,早くから開けていた。…

※「任那」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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