光善寺(読み)こうぜんじ

日本歴史地名大系 「光善寺」の解説

光善寺
こうぜんじ

[現在地名]枚方市出口二丁目

真宗大谷派、山号は淵埋山、阿弥陀如来を本尊とする。一名出口でぐち坊・梓原しげん堂ともいう。文明七年(一四七五)八月下旬、蓮如は北陸布教の中心地越前国吉崎よしさきを去って、海路若狭の小浜おばまに上陸、丹波路から摂津の唐崎からさき(現高槻市)を経て、河内国茨田まんだ中振なかぶり郷山本の出口に至り、淀川河畔の芦原を埋立てて一宇の草坊を建てた(同一一年一二月の蓮如消息)。これが光善寺の始りである。坊舎の建立に当たったのは、付近の有力門徒御厨石見入道光善で、寺名はその名にちなむという(蓮如上人仰条々)。なお、光善は俗名で、法名は空念(蓮如上人縁起)と思われる。


光善寺
こうぜんじ

[現在地名]龍野市龍野町本町

揖保いぼ川の右岸にある。転亀山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。開基教念は本願寺蓮如の直弟子と伝えるが、播州六坊之記録(寺蔵)末寺帳は順念を開基とする。もと英賀あが(現姫路市)にあり、のちに亀山かめやま(現同上)に移り、寛文九年(一六六九)に龍野に移った(「揖保郡地誌」は同八年とする)。寺蔵の開基仏は天文三年(一五三四)三月五日、英賀東村の時代に本願寺一〇世証如より教念に下付されたものである。また同時に御脇掛け・正信偈・御文なども下付され、蓮如からは親鸞真筆の九字・十字名号が下付されたと伝える(六坊之記録)


光善寺
こうぜんじ

[現在地名]松前郡松前町字松城

近世の松前城下てら町に所在。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると法幢ほうとう寺の南、龍雲りゆううん院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文二年(一五三三)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦一一年(一七六一)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正三年(一五七五)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長七年(一六〇二)(福山秘府)。元和七年(一六二一)五世良故が後水尾天皇に接見した折宸翰竪額ならびに綸旨を与えられたと伝え、これを機に松前藩主の菩提所の一つに列することになった。


光善寺
こうぜんじ

[現在地名]三良坂町三良坂

知波夜比古ちはやひこ神社の南方馬洗ばせん川対岸の山際にあり、正玉山と号し、日蓮宗。本尊は久遠実成釈迦牟尼仏・日蓮大菩薩。かつて真言宗であったが慶長年間(一五九六―一六一五)改宗したという。

「双三郡誌」によると文亀年中(一五〇一―〇四)創建で、落合六良兵衛光善の開基、僧日言の開山という。六良兵衛光善は伊勢国桑名くわな(現三重県桑名市)の城主阿募参河守善清の子孫で、明応年中(一四九二―一五〇一)北畠家のために没落し、備中国鴨方かもがた(現岡山県浅口郡鴨方町)へ移りまもなく三良坂の新開落合しんかいおちあいの地に来住し氏を落合と改めたという。


光善寺
こうぜんじ

[現在地名]口和町永田 宮沖

輝谷山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。「芸藩通志」は天正年間(一五七三―九二)僧西通の開基と記す。しかし寺伝ではもと大月おおつきにあったとし、同地の黒岩山くろいわやま城主泉氏の菩提寺で、住僧元求は弓の名手として泉氏に従っていたが、泉合戦の後弘治二年(一五五六)湯木ゆきに草庵を設けて移り、名を西道と改め、浄土真宗に属した。


光善寺
こうぜんじ

[現在地名]福山市東町二丁目

ひがし町の寺院地域は山陽本線で二分されたが、当寺は北側の一郭にある。智恵光山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。鎌倉時代末、中国地方真宗の弘通に努めた明光の従者苅屋が神辺かんなべ(現深安郡神辺町)に一寺を建立したのに始まるといい、寛永年間(一六二四―四四)現在地に福山藩主水野氏より寺地をもらって移転したと伝える。


光善寺
こうぜんじ

[現在地名]下関市大字吉見下

吉見下よしみしも南東にそびえる竜王りゆうおう山の西麓、里の片山さとのかたやまにある。浄土真宗本願寺派で、金片山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、大内家の家臣林五郎左衛門義国が本願寺蓮如に帰依、六字名号と法名として教善をもらい、文明六年(一四七四)に一宇を建立したのに始まるという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「光善寺」の解説

光善寺

三重県津市にある真宗高田派の寺院。本尊の薬師如来は木造薬師如来及両脇侍像として国の重要文化財に指定。

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