千光寺(読み)せんこうじ

日本歴史地名大系 「千光寺」の解説

千光寺
せんこうじ

[現在地名]砺波市芹谷

和田わだ川東岸の丘陵裾にあり、北側の門前を国道三五九号が走る。芹谷山と号し、高野山真言宗。本尊は正観音。寺伝によると大宝三年(七〇三)天竺の僧法道の開基と伝え、初め三論宗であったが、のちに真言宗に転じたという(享保年中「千光寺縁起」当寺蔵)。貞享二年寺社由緒書上では開基は唐僧円徳とする。法道は観音信仰を日本に伝えたといわれる伝説上の仙人で、現兵庫県加西かさい市法華山一乗いちじよう寺をはじめ、この僧を開基とする山岳寺院が西国には多い。当寺が正観音を本尊とするのもその所伝に沿っている。山号は法道来錫のころ芹の香気が谷に満ちていたので、芹を常食としたことによるともいわれ、芹谷の地名もこれに由来するという。法道の高弟智徳は千光寺二世を継ぎ、天平(七二九―七四九)頃能登石動せきどう山を開いたと伝え、このため当寺では守護神として石動山の五社権現(大宮・火宮・白山宮・剣宮・梅宮)を祀ったと伝える(前掲縁起)


千光寺
せんこうじ

[現在地名]洲本市上内膳

せん(四四八メートル)山頂にある。先山と号し、高野山真言宗。本尊は千手千眼観音。寺の縁起によると、延喜元年(九〇一)播州上野にいた為篠王という大猪を猟師が射たが、猪は海を渡って淡路島の先山へ逃込んだ。猟師が追うと、大杉の洞中に胸に矢の突き刺さった千手観音の像があった。猟師は驚いて出家して名を寂忍と改め、寺を建てて観音像を安置し、千光寺と名付けたという(常磐草)。また当寺の寺地先山の名称は、記紀に記されているイザナギ・イザナミによる国生みの神話に由来するもので、日本で一番先に作られた山の意味だと伝える。山の形から淡路富士ともよぶ。淡路国諸寺諸山の供養を書上げた年未詳の楽頭職注文(護国寺文書)には、「せんくわうしのくやう」がある。


千光寺
せんこうじ

[現在地名]久留米市山本町豊田

龍護山と号し、曹洞宗。本尊阿弥陀如来。寛文十年寺社開基によると、建久三年(一一九二)草野永平千光国師栄西を招き、白銀山千光院を建立したことに始まり、寺領一二町を有したという。翌四年四月七日に高良大菩薩の託宣を得て鬼宿ごとに金剛経一部を読誦するようになり、二町二反を寄進された。延文二年(一三五七)に草野永種が足利尊氏の墓所として石塔を建立し、翌三年には征西将軍宮懐良親王の葬送を行ったと伝える。永和三年(一三七七)一一月日銘の梵鐘(県指定文化財)が伝来し、「大日本国(筑)後州白銀山千光禅寺公用」と刻まれている。度度の火災を鎮めるため、後小松上皇から勅額を賜わり、龍護山千光禅寺に改めたという。


千光寺
せんこうじ

[現在地名]丹生川村下保

袈裟けさ山の中腹にあり、仁王門・本堂・鐘堂・宿儺堂などが立並ぶ寺観の整った山岳寺院。国の天然記念物に指定される五本スギがある。高野山真言宗、袈裟山と号し、本尊は千手観音。「日本書紀」仁徳天皇六五年条に、「飛騨国に一人有り、宿儺といふ、其れ為人、体を壱にして両の面有り、面各相背けり」という両面宿儺の伝承を伝えているが、この怪物がいつのまにか救世観音の化身であり、当寺の開祖という説が生みだされた。また泰澄が開山とも、高岳親王によって一宇が建立されたことに始まるとも伝える。貞応三年(一二二四)宣陽門院所領目録(島田文書)殷富門院(亮子内親王)祈祷所として載る「飛太国袈裟寺」は当寺か。


千光寺
せんこうじ

[現在地名]西京区嵐山中尾下町

渡月とげつ橋より約一キロ上流、眼下に千鳥ちどりヶ淵を見下ろすかつら(保津川)南岸、あらし山の元録げんろく山中腹に位置する。嵐山大悲閣の号で一般に知られる。初め天台宗、文化五年(一八〇八)以降黄檗宗。現在は単立で、本尊は源信作と伝える千手観音。千光寺はもと清凉しようりよう(現京都市右京区)の西方中院ちゆういん(現同区嵯峨釈迦堂門前南中院町)にあり、後嵯峨天皇の祈願寺であったが、永らく衰退していた。


千光寺
せんこうじ

[現在地名]尾道市東土堂町

千光寺山中腹にあり、大宝山権現院と号し、真言宗系の単立寺院。本尊十一面観音は多田満仲の守本尊と伝える。山腹に本堂・鐘楼・持仏堂・護摩堂・客殿・庫裏・撫松庵などの建物が立並ぶ。「芸藩通志」によると、本堂は丹塗で一名赤堂と称し、貞享三年(一六八六)に再建、堂内に室町中期の作とみられる須弥壇がある。本堂の東に玉の浦たまのうらの地名の起りと伝える玉の岩、その東にある鐘楼には、尾道の時鐘として知られる鐘がある。昔、杉原氏の護身仏毘沙門天を安置する三重塔があったが江戸初期に倒壊したため持仏堂を建立して毘沙門天を安置、塔跡には護摩堂を建立し、本尊に不動明王を安置。


千光寺
せんこうじ

[現在地名]藍住町徳命

吉野川左岸段丘上にある。宝珠山愛染院と号し、高野山真言宗。本尊は愛染明王。寺伝によると天平期(七二九―七四九)に行基が開創したとするが、その後の寺歴は不明。現寺地は中世の徳命とくめい城跡にあたり、当寺の古跡はやや北にあったという伝承がある。中世には梅の坊うめのぼう・梅の寺と称した。阿州三好記大状前書(徴古雑抄)には梅之寺とあって寺地は奥野おくの村とされ、三好氏から寺領八貫文を与えられていた。阿州三好記並寺立屋敷割次第(同書)では屋敷地七反余、客殿・庫裏・取次・観音堂などがあった。江戸時代には徳島城下持明じみよう院末(寛政三年古義真言宗本末牒)。梅の坊と称されていたように境内の臥竜梅はよく知られており、蜂須賀至鎮も臥竜梅を愛し、観梅に訪れたと伝える。


千光寺
せんこうじ

[現在地名]白鳥町白鳥

鵜峠うのたおに通ずる道の東側山裾にある。恵日山舎那院と号し、真言宗御室派。本尊大日如来、脇侍不動明王。千光寺由来記(寺蔵)によると空海の開基で、弘仁年間(八一〇―八二四)に空海自筆の大日経をきようまるの頂上に埋め、堂宇を創建したという。応永八年(一四〇一)に千光寺定全が若王にやくおう寺の大般若経巻五〇を筆写している。また水主神社大般若経函底書(水主神社蔵)の文安二年(一四四五)の奉加帳に「五十文 千光寺」とある。元亀二年(一五七一)南都の衆徒祐園により再興された(讃岐国名勝図会)白鳥八幡宮の別当三ヵ寺の一といわれ(三代物語)、鶴内八幡宮縁起(別宮八幡神社蔵)によると、寛文四年(一六六四)鶴内つるうち寺解体に際し、金堂とその本尊不動明王および脇侍の二天が千光寺に寄付された。


千光寺
せんこうじ

[現在地名]平群町大字鳴川小字堂ヵ谷

鳴川なるかわ峠近くの山中に所在。役小角が大峯山を開く前にこの地で修行したと伝え、元山上もとさんじようとよばれる。鳴川山と号し、真言宗醍醐派。本尊千手観音。寺伝によれば、天智天皇の時、役小角が宇佐八幡(現大分県宇佐市の宇佐神宮)と生駒明神(現奈良県生駒市の往馬坐伊古麻都比古神社)の神勅により、この山に入り霊感を得、小堂を営み、巌上に出現した千手観音を刻んで安置。中世には寺領五〇〇石を得て大いに栄えたが、天文年間(一五三二―五五)兵火のために烏有に帰し、天正年間(一五七三―九二)松永久秀のために寺領が没収され、爾来衰運に傾き今日に至ったという。塔頭蔵之くらの坊だけが残り、本堂・行者堂・大師堂・鐘楼・宝蔵・惣門などがある。


千光寺
せんこうじ

[現在地名]山陽町中島

中島なかしまの東部山中にある。天台宗、山号石井原山、本尊千手観音。天平勝宝年中(七四九―七五七)報恩大師が創建した備前四八ヵ寺の一つといわれる。初め南の龍王りゆうおう山上にあったが、天正一八年(一五九〇)沼田左衛門太夫・同右京進によって現在地に再興されたという(備陽国誌)。文禄四年(一五九五)には宇喜多秀家から石井原いしいはらの寺領四〇石を認められている(同年一二月「備前国四拾八ヶ寺領并分国中大社領目録写」金山寺文書)。近世は石井原村に属し、寛永一一年(一六三四)以来寺領二七石余であった(山陽町史)


千光寺
せんこうじ

[現在地名]平戸市木引町

木引こひき町北部のえのきにある。竜灯山と号し、富春ふしゆん庵と通称される。臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。建久二年(一一九一)七月、宋から帰国した栄西が「平戸島葦浦」に着岸、同所の戸部侍郎清貫は栄西のために小院を建立している。同年八月八日、栄西は十数輩の弟子とともに宋の禅規に従って日本で初めて座禅修行の儀式を行うが、いくばくもなく会衆が堂に満ちたという(元亨釈書)あし浦は古江ふるえ浦で、堂宇が富春庵であるとされるが、また栄西禅林の喫茶の法や製茶の法を村人に伝え、将来した茶種を庵の裏山にまいたといわれ、長く継承されたという。


千光寺
せんこうじ

[現在地名]南小国町赤馬場

南小国町のほぼ中央に位置し、すぐ脇を田中たなか川が流れる。真言宗、本尊十一面観音。現在は宗教法人としての資格はもたず、集落名ともなっている。寺伝によると、平重盛の菩提を弔うため遺臣によって建立され、本尊の光背に安元元年(一一七五)三月中旬建立の墨書がある。江戸時代まで泉光寺とも称される。境内に天養元年(一一四四)の年号と梵字が彫銘された板碑があり、県指定重要文化財

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「千光寺」の意味・わかりやすい解説

千光寺(兵庫県)
せんこうじ

兵庫県洲本(すもと)市上内膳(かみないぜん)にある寺。淡路(あわじ)富士といわれる島の中央に位する最高峰先山(せんざん)の頂にある。高野山真言(こうやさんしんごん)宗の別格本山。先山清浄皇院と号する。本尊は千手(せんじゅ)観世音菩薩(ぼさつ)。淡路西国(さいごく)、淡路四国、淡路十三仏の各第一番霊場。901年(延喜1)開創。縁起によれば狩人(かりゅうど)忠太が、ある日山中で猪(いのしし)を射たところ、猪は海を渡って淡路島の先山の岩窟(がんくつ)に逃げ込んだ。忠太が中をのぞくと、そこに千手観音(かんのん)が光明赫々(かくかく)として出現し、矢は観音の胸に突き刺さっていた。忠太は懺悔(ざんげ)発心し、名を寂忍(じゃくにん)と改め寺を建立し、先山千光寺と号したと伝える。本堂は七間四面の総欅(けやき)造りで、1622年(元和8)に蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が再建したもの。境内には仁王門、三重塔、六角堂、鐘楼などがある。仁王像は運慶作と伝える。梵鐘(ぼんしょう)は弘安(こうあん)6年(1283)の銘と永正(えいしょう)16年(1519)の追銘が刻まれており、国重要文化財。

[野村全宏]



千光寺(広島県)
せんこうじ

広島県尾道(おのみち)市東土堂町、大宝山(たいほうざん)の中腹にある真言(しんごん)宗系の単立寺院。大宝山権現院(ごんげんいん)と号する。本尊は千手(せんじゅ)観世音菩薩(ぼさつ)で、火伏せの観音(かんのん)として親しまれている。806年(大同1)の創建と伝えられ、多田満仲(ただのみつなか)が中興したという。現在の丹(に)塗りの本堂、毘沙門(びしゃもん)堂、護摩堂などは江戸中期以後のもので、断崖(だんがい)上に建っている。一帯は千光寺公園とよばれ桜の名所でもある。境内には当寺を詠んだ頼山陽(らいさんよう)、林芙美子(ふみこ)、正岡子規などの文学碑があり、文学の小道として名高い。またかつては宝珠が輝いていたという烏帽子(えぼし)岩があり、その伝説は志賀直哉(なおや)の『暗夜行路』に記されている。

[眞柴弘宗]



千光寺(京都市)
せんこうじ

京都市西京区嵐山(あらしやま)中尾下町にある黄檗(おうばく)宗の寺。山号は大悲閣。嵐山大悲閣の名で知られる。本尊は恵心僧都(えしんそうず)源信の作と伝えられる千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)。もと中院(右京区嵯峨(さが)中院町)にあった後嵯峨(ごさが)天皇の祈願寺を、保津川を開削した角倉了以(すみのくらりょうい)が現在地に移建して大悲閣を建立、道空了椿(りょうちん)を請(しょう)じて中興の開山とした。寺宝には了以・了椿の木像、了以・素庵(そあん)父子の書状などがある。また境内には林羅山撰文(せんぶん)の顕彰碑、嵐山山腹に「花の山二町登れば大悲閣」の芭蕉(ばしょう)の句碑がある。

[大鹿実秋]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル大辞泉プラス 「千光寺」の解説

千光寺〔岐阜県〕

岐阜県高山市、袈裟山の中腹にある高野山真言宗の寺院。本尊は千手観音。円空作の仏像を多く所蔵する。付近に国の天然記念物に指定された五本スギがある。

千光寺〔福岡県〕

福岡県久留米市にある曹洞宗の寺院。山号は龍護山。草野永平が1192年に栄西(千光国師)を招いて創建したと伝わる。アジサイの名所。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

事典・日本の観光資源 「千光寺」の解説

千光寺(第10番)

(広島県尾道市)
中国三十三観音霊場」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の千光寺の言及

【尾道[市]】より

…尾道は瀬戸内海の流通中継基地の役割を担いながら,造船とその関連業種,海産物とその加工業が盛んで,卸売業・小売業と製造業にそれぞれ全就業者の4分の1が従事する。浄土寺,西国寺,千光寺をはじめ数々の重要文化財や美術品があり,海を見おろす古い家並み,志賀直哉,林芙美子など文学ゆかりの記念物も多い。なかでも頼山陽が〈六年重ねて来る千光寺山紫水明指顧に在り〉と歌った千光寺は,備後における熊野信仰の中心の一つであった。…

※「千光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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