天福寺(読み)テンプクジ

デジタル大辞泉 「天福寺」の意味・読み・例文・類語

てんぷく‐じ【天福寺】

Thien Phuc Tu》⇒タイ寺

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「天福寺」の解説

天福寺
てんぷくじ

[現在地名]香南町岡

美応山宝勝院と号し、本尊薬師如来。真言宗御室派。天福寺由来記は、初名は清性寺といい、行基が草堂を構え自刻の薬師像を祀ったことに始まり、のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎とし、円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学とした。そのとき寺域の四隅に神祠を建立、山王神を祀ったという草創伝承を記す。さらに同由来記は、菅原道真が国司として赴任中、薬師如来の霊異に深く帰依、「凶年饑歳、民窮国弊」を嘆じて仏の願力を請い、般若心経を書写して奉納したこと、また阿倍晴明がこの霊場を崇信して境内宗祖の廟を建立したこと、天福年中(一二三三―三四)国司橘公忠が四条天皇の命により伽藍を修復、別に一院(平等寺)を建立したこと、この年天福寺と改称したこと、南北朝内乱期に退転したが細川頼之により再興されたことなどを述べている。

天福寺
てんぷくじ

[現在地名]熊本市花園七丁目

南流する井芹いせり川の西、小萩こはぎ山の東山麓に位置する。霊松山と号し、曹洞宗、本尊釈迦仏。縁由記(「肥後先哲偉績」所収)によれば、行巌雲歩は室園むろぞの村に拝聖庵を開き二年間住し、寛文五年(一六六五)豊後高田たかだ(現大分市)に移った。延宝六年(一六七八)藩主綱利に招かれ、柿原かきばる畑山はたけやまの現在地に移り、このとき打越うちごし村西の谷の廃寺天福寺(天台宗)の寺号を称したという。

天福寺
てんぷくじ

[現在地名]花見川区花島町

花見川右岸、中島なかじまにあり、真言宗豊山派。花島山と号し、花島観音と親しまれる。和銅二年(七〇九)に行基が開いたと伝え、建長八年(一二五六)一〇月二一日銘の本尊十一面観音立像(県指定文化財)は賢光作という。元徳三年(一三三一)七月二八日の梵鐘銘(宝永四年改鋳)に下総国花島寺鐘とあり、大工は沙弥成願、願主順海。「空華日用工夫略集」には相模善福ぜんぷく(現廃寺)住持の慈船大杭が応安二年(一三六九)五月に退院し、「下総之花島」で死去したとみえる。

天福寺
てんぷくじ

[現在地名]小松町大頭

大頭おおとの南西部の山手鉾ノ木の獅子鼻ほこのきのししばな城跡の北麓にあり国道一一号から山手に大屋根が望める。東側には豪族宇野氏館跡があり寺の由緒をしのばせる。獅吼山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。

小松邑誌」に、

<資料は省略されています>

とあり、宇野氏の菩提寺康永の乱(一三四二)細川頼春の侵入により焼失していたのを、獅子鼻城主宇野氏の一族の家綱が元亀三年(一五七二)に再興したものという。

天福寺
てんぷくじ

[現在地名]土岐市肥田町肥田

肥田ひだ川西岸の丘陵裾にある。正覚山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は聖観音。創建の時期は天福年中(一二三三―三四)と伝えられる。貞治四年(一三六五)には周恬(先覚)が当寺住持となった(智覚普明国師語録)。先覚は夢窓疎石の法嗣で、その後も永和元年(一三七五)には仏日常光国師(空谷明応)が住持となるなど(特賜仏日常光国師空谷和尚行実)、南北朝期以降は夢窓疎石の法嗣が当寺に住した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典 日本の地域遺産 「天福寺」の解説

天福寺

(熊本県熊本市西区花園7)
熊本水遺産指定の地域遺産。
1678(延宝6)年に肥後藩主細川綱利の発願により開山された。細川家歴代の祈願所として知られる。金峰山湧水が引かれている

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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