寺山村(読み)てらやまむら

日本歴史地名大系 「寺山村」の解説

寺山村
てらやまむら

[現在地名]秦野市寺山

大山の南に位置し、西方東田原ひがしたわら村境を金目かなめ川が流れる。北は蓑毛みのげ村・小蓑毛こみのげ村、南は名古木ながぬき村・落合おちあい村、東は大山から南に延びる峰を境に上子安かみこやす村・下子安村(現伊勢原市)。大山道(蓑毛道)が中央を南北に通り、小字ぼう谷戸いとで東に分れる坂本さかもと道は、いより峠を経て大山坂本(現伊勢原市)に至る。明治二年(一八六九)の寺山村絵図(武文書)によると小字横畑よこばたけ付近には長さ約五〇〇間の杉並木があった。小田原衆所領役帳に大藤新兵衛「三十貫文 中郡波多野寺山」、大藤式部丞「七十九貫七百文 中郡北波多野、此外五拾五貫五百文寺山、なこの木、横野、新兵衛ニ被下」とみえる。

近世は初め幕府直轄領、宝暦六年(一七五六)六浦藩領と旗本朝比奈・布施領の三給。天保六年(一八三五)二月の六浦藩領分の村明細帳(秦野市史二)によると田一九町九反余、畑・屋敷八四町九反余。享保一八年(一七三三)七月の村明細帳(同書)によると、丹沢御林守と運上山守を勤め、山手年貢の徴収を行い、このため天和二年(一六八二)から大助人馬を免じられているとある。


寺山村
てらやまむら

[現在地名]棚倉町寺山

ながれ村の南、久慈くじ川沿岸平地と段丘に立地。水戸街道に沿う街村。縄文時代の寺沢てらさわ遺跡がある。東方の蛇頭じやとう山に中世結城白川氏が築いた寺山館(蛇頭館・流館とも)跡がある。「白河関物語」によれば結城晴綱が深谷伊豆守を城代に配していた。北上を図る佐竹義昭が永禄四年(一五六一)八月寺山館を攻略、同年一〇月には糸井能登守を配し、同館を基地としてあか(赤館城)攻略を進めた。永禄初年頃と推定される五月一一日の佐竹義昭書下(秋田藩家蔵文書)に「寺山并赤坂すし江敵行も候者」とみえ、結城方の来襲に備えるよう命じている。永禄一三年四月一三日の佐竹義重判物(同文書)によれば、壁(神部)監物に当地で一〇貫文を与えている。


寺山村
てらやまむら

[現在地名]輪島市町野町寺山まちのまちてらやま

粟蔵あわぐら村の東に位置。鈴屋すずや川を挟んで北は牛尾うしお村。鈴屋川は地内に源をもつため寺山川とも称される。宝立ほうりゆう山の北麓を若山わかやま川沿いに飯田いいだ(現珠洲市)へ至る道は八太郎はつたろう(若山越とも)とよばれたという(「能登名跡志」など)。村名の由来となった寺院を鈴屋の長光ちようこう寺や法華ほつけ(現柳田村)にあてる説がある。かつては宝立山を神体とする宝嶺大権現の別当寺などの山堂があったと考えられ、昭和四五年(一九七〇)頃に同山山腹の修理下しゆりしたから修験の小祠堂跡が検出されており、地内には阿別当あべつとうどうくちなどの字名が残る。


寺山村
てらやまむら

[現在地名]緑区寺山町、あさひ上白根かみしらね

東は中山なかやま村・猿山さるやま村、西はだい村、南は白根村(現旭区)、北は恩田おんだ川を隔てて青戸あおと村に接する。北側は狭く、川に接する部分はわずかに「五十間余」(風土記稿)であるのに対し、南が広い三角形状をなす。南部には多くの谷戸があり、「風土記稿」には長尾谷・雀谷・いふへ谷・本谷・滝谷・横手谷の小名がみえる。中原なかはら道が南西部をほぼ南北に通り、白根村に通じる。神奈川宿(現神奈川区)へ至る道は北部を東西に走り中山村に達する。村名は正保国絵図にみえる。


寺山村
てらやまむら

[現在地名]岩国市大字寺山

近延ちかのぶ村の北に位置する山村で、河内こうち郷の中では比較的大きい村。寛永二〇年(一六四三)に河内郷を分割してできた村で、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に村名がみえる。村内には広谷ひろたにほどさこ・中寺山・奥ヶ迫・桜木・野地のじなかさこ寺迫てらざこ寺免てらめんなどの小名がある。

慶安四年の村高三六四石余、うち田高二七〇石余、畠高四四石余、楮高四九石余、その後多少の増減はあったが、享保一一年(一七二六)の村高三六五石余、戸数一〇五軒、人口四五九人、牛三四頭、馬二頭という状態で(享保増補村記)、村高は幕末まで変わらなかった。


寺山村
てらやまむら

[現在地名]浦和市寺山・代山だいやま

上野田かみのだ村の南に位置し、西は代山村。西を日光御成道が通り、天久保あまくぼ用水が台地と低地の境を流れる。永禄六年(一五六三)一一月二四日の太田資正書状(三戸文書)に「たい山の内、てら山・たい野は」とあり、また同八年一二月一八日の梶原政景書状(同文書)にも「たいやまのうち、てら山・たい野は」とみえる。

慶長二〇年(一六一五)の安行筋寺山新田検地帳(若谷家文書)によると中田六反余・下田二町三反余の新田が打出されている。


寺山村
てらやまむら

[現在地名]下郷町合川あいかわ

小松川こまつかわ村の南、観音かんのん川右岸の段丘上に立地。南山御蔵入領松川組に属する。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」では九九布こうぶ郷に属する。元禄八年(一六九五)の小松川五ヶ村差出帳(下郷町史資料集)に村名がみえ、高四五石余、反別田一町六反余・畑四町六反余、家数八・人数四一、馬四。水田が少なかったため松川まつかわ村・杉沢すぎのさわ村へ出作していた。宝暦八年(一七五八)の家数六・人数一九(「会津郡大沼郡人別牛馬改帳」阿久津家文書)


寺山村
てらやまむら

[現在地名]緒方町寺原てらばる 寺山

寺原村の西、緒方川北岸にある。江戸時代後期に寺原村から分村したとみられる。安永七年(一七七八)には小宛組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。旧高旧領取調帳に独立して村名がみえ、高五三石余。寛文一二年(一六七二)当村にあった九重塔がおか(現竹田市)に移され、その後江戸に運ばれたという(両郡古談)。文化八年(一八一一)頃窯業が始められたという。


寺山村
てらやまむら

[現在地名]日生町寺山

福浦ふくうら(現兵庫県赤穂市)の枝村。福浦村本村の北方山間部に立地。三石みついし(現備前市)に流れ込む金剛こんごう川の最上流部にあたる。慶安二年(一六四九)の備前備中新田高目録帳(撮要録)に福浦村の枝村として村名がみえ、本村・枝村の合計高五一一石余。貞享元年(一六八四)の和気郡高目録(池田家文庫)には寺山新田とあり、高二八石余。文化年間の「岡山藩領手鑑」の福浦村の項によれば、寺山分の田九反余・一五石余、畑七反余・九石余、家数一一、池三。「撮要録」の文化一一年(一八一四)御内意書上によると、寺山と三石村福石ふくいし分は土地柄が悪く貧者が多く困窮難渋しており、加損米を渡しても立直らないので吟味してみると、明和(一七六四―七二)・安永(一七七二―八一)頃から百姓所持の自林を赤穂藩領の村々に売渡しあるいは質入れしているという事態が明らかとなっている。


寺山村
てらやまむら

[現在地名]佐伯町佐伯

大王たいおう山南方の王子おうじ川が吉井川に合流する氾濫原上の小丘麓にある。東は市場いちば村、南は父井ちちい村。古くは高瀬舟の河岸として栄えたと伝える。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)にみえる佐井木さいき庄下村に含まれたと思われる。寛永備前国絵図に村名がみえ、高二三石余。「備陽記」では田畠二町二反余、家数六・人数三一、岡山城下京橋きようばしまで道程七里。


寺山村
てらやまむら

[現在地名]日置川町寺山

北は向平むかいだいら村、東は川を隔てて中島なかじま村、南と西は安居あご村。集落は村の南、日置川右岸にある。村の西部三箇川みかがわ谷沿いの小名三箇川を、熊野街道大辺路がほぼ南北に通る。「続風土記」に「此地古久木村教子社の神宮寺なとの領地にて、寺山の名起れるならん」と記される。慶長検地高目録によると村高二七石余、小物成三斗一升六合。天保郷帳では高五一石余で、うち新田畑高は二三石余と四割五分を占め、新田開発が著しい(紀勢和州御領分御高村名帳「南紀徳川史」所収)


寺山村
てらやまむら

[現在地名]岡山市寺山

一日市ひといち村の南、吉井川西岸に集落がある。大日幡おおひばた(一六六・五メートル)の東方にあたる。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)福岡ふくおか庄に村名があり、寛永備前国絵図では高三七四石余。正保郷帳には枝村として本庄ほんじよう村が載り、「備前記」によると平場にある川端の集落で、本庄の藪の内には宇喜多直家の生母の墓があると伝える。


寺山村
てらやまむら

[現在地名]能生町寺山

木浦このうら村の東、能生川左岸に位置する。もと能生白山権現(現白山神社)の別当大平たいへい寺のお花畑で、その監守の寺百姓が村の草分と伝える。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高四八石余、同所改出高一石とある。天和三年(一六八三)の検地帳(寺山区有文書)では、田方五町三反四畝余・畑方一〇町三畝余、田畑屋敷色高合八五石三斗余で、漆木二一本を七人の百姓がもっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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