専徳寺(読み)せんとくじ

日本歴史地名大系 「専徳寺」の解説

専徳寺
せんとくじ

[現在地名]弘前市新寺町

新寺しんてら寺院街にあり、法源ほうげん寺の東隣、道路を隔てて真教しんきよう寺の西隣に位置。一乗山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。もと真教寺末寺。

浄土真宗一派縁起(市立弘前図書館蔵)、「津軽一統志」によれば、天文元年(一五三二)一町田いつちようだ(現中津軽郡岩木町)に創立されたとあり、開山は誓円、開基は不詳。正徳元年(一七一一)の寺社領分限帳(同館蔵)によれば、慶長年間(一五九六―一六一五)弘前のてら(現元寺町)に移ったとある。

専徳寺
せんとくじ

[現在地名]岩国市大字通津

通津つづ川の南にあり、浄土真宗本願寺派。日照山と号し、本尊阿弥陀如来。

享保一一年(一七二六)に現寺号に改めるまでは光照こうしよう寺と号した。元禄八年(一六九五)の「寺社記」によれば、古くは浄福じようふく寺と号したが、元和八年(一六二二)の頃住僧了空が伊予堀江ほりえ(現愛媛県松山市)退院の折、寺号の印書や什物をもって行ったため、寛永一二年(一六三五)改めて光照寺の号を受けたと伝える。その後大内氏の家臣弘中氏の末裔住職となり、五間と六間半の本堂、四間半と七間半の庫裏三間半と四間半の経蔵、二間と三間の書院などを整備したという。

専徳寺
せんとくじ

[現在地名]福光町在房

在房ありふさの南部にある。宗守山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。開闢は文明一〇年(一四七八)、開基は教善(貞享二年寺社由緒書上)。漢方医であった藤野喜一郎光信(祐養)蓮如弟子となり、教善の法名を与えられた。その子教恵が実如より一寺を建立することを許されたのが当寺の始まりとされ、当時は南方宗守むねもりにあった。七世正順のとき東本願寺へ転派。

専徳寺
せんとくじ

[現在地名]城端町金戸

金戸かねとの中央北部にあり、塔雲山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。明応三年(一四九四)善恵により開基という(貞享二年寺社由緒書上)。天文一五年(一五四六)六月八日「河上衆于時専徳寺」が番衆として石山本願寺へ上っている(天文日記)。しかし同寺は本末的には加賀吉藤専光よしふじせんこう(現石川県金沢市)門徒である(「三ヶ国末学衆申物並五尊諸事御書出跡留之帳」専光寺文書)

専徳寺
せんとくじ

[現在地名]大和町和木

和木わき東部に位置。観音山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。寺伝によると、もと観音山観音寺と称する禅宗寺院で、十一面観音を本尊としたという。この像は和木加賀美家が守本尊として甲州から持参したといわれ、現在も境内観音堂に安置される。

専徳寺
せんとくじ

[現在地名]下関市大字有富

有富ありどみの字阿賀野屋敷あかのやしきにある。浄土真宗本願寺派で光栄山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、大内家家臣原田越前守景種が、陶晴賢によって主家が滅ぼされたのち本願寺証如に帰依、法名善了をもらって天文年中(一五三二―五五)に創建したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報