古代から近代の日本海沿いを走る道の呼称。古代においては丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の八ヵ国を陸路と水路で結ぶ官道。近世以降の山陰道は出雲では東へ向かって伯州街道、西へ向かって石州街道、石見では東へ向かって雲州街道、西へ向かって長州街道などとよばれる場合があった。
「令義解」厩牧令によると、古代の官道には大路・中路・小路の格付があり、山陰道は小路であった。官道には原則として三〇里ごとに駅を設置し、小路の駅には駅馬五疋を配置することを定めている。官道の利用については詳細な規定があり、京へ送る至急の公文書は一日一〇駅以上、普通の公文書は一日八駅以上の速さとされ、公務旅行の際の一日の行程は、馬七〇里、歩五〇里、車三〇里と定められている(「令義解」公式令)。一方、京からの距離によって出雲は中国、石見・隠岐は遠国と定められており(「延喜式」民部省)、三国とも租は国内での公費支出に充てられ京への輸送は免除されているが、調・庸・中男作物の輸送は義務づけられており、そのための官吏人夫の上京帰国は出雲が上り一五日・下り八日、石見は上り二九日・下り一五日、隠岐は上り三五日・下り一八日と定められている(同書主計寮)。
「出雲国風土記」と「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条によると、出雲国には
があると記されるが、所在地については現
律令制下に都を中心として放射状に設定された官道の一つ。のちにも畿内と山陰地方を結ぶ幹線道として機能した。
大和、のちには山城から丹波・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見の諸国を結び、丹後への支路も接続していた。「日本書紀」崇神天皇一〇年九月九日条のいわゆる四道将軍の派遣記事には、丹波道主命を丹波に遣わしたことがみえ、大和王権の山陰地方への進出をうかがわせるが、この丹波は丹後地方をさすとも考えられる。同書天武天皇一四年(六八五)九月一五日条の巡察使派遣の記事には、巨勢朝臣粟持を山陰使者としたことが記されており、山陰には「そとものみち」の古訓が残されている。この頃には山陰道が地域区分としてまとまり、交通路としても整ってきたと思われる。大宝律令施行直後の大宝三年(七〇三)一月の巡察使派遣時には、波多真人余射が山陰道の使いに任命された(「続日本紀」同年正月二日条)。山陰道の初見である。
令制では大・中・小路のうち、駅ごとに駅馬五匹を置く小路に位置づけられているが(厩牧令義解)、「延喜式」兵部省によれば山陰道の兵庫県内の駅には、丹波国
三駅」が不要として廃止された(日本後紀)。この記事は三ヵ所の駅の廃止とする解釈が通説であるが、「
三」という名称の駅一ヵ所と解する余地がある。また「延喜式」主税寮によると、山陰道諸国のうち丹波国に駅家修理料として毎年稲二万束が計上されている。
古代山陰道のルートは、諸駅の比定地や直線古道の痕跡からおよそ以下のように考えられている。丹波国府のあった京都府の
延暦一三年(七九四)の平安遷都以前は、大和から南山城・丹波を経て、平安遷都以後は京都から丹波を経て山陰方面に向かう街道をいう。七道のうちの山陰道を支配下に入れるための重要な道であった。以下前者を古山陰道、後者を山陰道として述べる。
古山陰道のルートは、大和から奈良山の低い丘陵を越える
南山城地域を通る主要な街道は、この古山陰道のほかに木津川右岸に沿うものがあった。これを「
とある。ただし「大江の山の」とあるように
下山田村
、赴
丹波
之坂路而、古来往還之道也、(中略)近世老坂為
順路
」と記し、丹波道を
丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の八ヵ国の国府を連ねる古代の官道。この交通路は「令義解」厩牧令によれば駅馬五疋を置く小路。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条によれば三七駅が設けられ、駅馬はおおむね都に近い因幡以東の諸駅に八疋、伯耆以西の諸駅に五疋が配置されていた。交通量による差異であろう。因幡国内には
因幡・伯耆の駅のなかで、伯耆の清水・和奈の二駅は現存する地名から各々
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古代の地方行政区画の七道(五畿七道)の一つ。《西宮記》では〈ソトモノミチ〉〈カケトモノミチ〉と読んでいるが,後者は山陽道の読みの錯入と考えられる。丹波山地および中国山地の北斜面を占める。山陰道の成立時期は不明であるが,685年(天武14)山陰使者として巨勢粟持派遣のことが知られるので,その成立は天武朝末年のころとみられる。《延喜式》ではこの道所属の国として丹波,丹後,但馬,因幡,伯耆,出雲,石見,隠岐の8国を数えるが,このうち丹後は713年(和銅6)丹波より分立したものである。また出雲は古くは山陽道の吉備と同様に,大和朝廷に対し一大勢力圏を形成していた。山陰道は所属国の大部分が日本海に面していることもあって,古くから朝鮮半島との交流が活発であったが,同時に半島との外交関係の変遷とあいまって,律令国家にとって,軍事上でも重要な位置を占める地域であった。駅制の官道としての山陰道は各駅に5匹の駅馬をおく小路であった。
執筆者:亀田 隆之
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古代、律令(りつりょう)期における国の上部の地域単位である五畿(ごき)七道の一つ、およびそこに設定された官道の名称。『日本書紀』崇神(すじん)天皇条に、四道将軍の一人丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)を派遣したとする記事が初見。現在の近畿地方と中国地方の北部一帯にあたり、713年(和銅6)に丹後(たんご)国が設置されて、丹波、丹後、但馬(たじま)、因幡(いなば)(以上は『延喜式(えんぎしき)』では近国)、伯耆(ほうき)、出雲(いずも)(以上中国)、石見(いわみ)、隠岐(おき)(以上遠国(おんごく))の8か国が確定した。官道は小路であり、『延喜式』では合計37駅が所在したことが記されている。山陰道諸国では因幡国だけが、『延喜式』に海路の運漕功賃を記しており、敦賀(つるが)津を経て京へと物資が輸送されたとみられる。現在の山陰地方の2県は因幡以遠の5か国の範囲にあたる。
[金田章裕]

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(1)古代の七道の一つ。現在の近畿地方から中国地方の日本海側にそった地域で,丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の各国が所属する行政区分。(2)これらの諸国を結ぶ交通路も山陰道と称し,「背面(そとも)の道」ともよばれた。畿内から各国府を順に結ぶ陸路を基本に官道が整備され,出雲から隠岐へは海路で結ばれた。駅路としては小路で,各駅に5頭の駅馬がおかれる原則であり,「延喜式」では総計37駅に230頭の駅馬をおく規定であった。地方官として731年(天平3)に山陰道鎮撫使(ちんぶし),732~734年に山陰道節度使,746年に北陸・山陰両道鎮撫使を設置した。
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…中央から辺境にのびる道路にそい,適当な間隔で人・馬・車などを常備した施設すなわち駅を置き,駅を伝わって往来する交通・通信の制度。世界史上,前近代に広大な地域を支配する中央集権国家が成立すると,外敵の侵入や国内の反乱に直ちに対処するばあいを含め,支配維持のために中央と地方とを常時連絡する手段が必要となり,さまざまな形態の駅伝が制度として定められるのが一般であった。このように駅伝制はもともと前近代における支配手段の一種であったから,国家の管理下に置かれて民間の自由な利用は許さないのが原則であり,また国家権力の解体とともに衰退していった。…
…
[古代・中世]
古くは地域ごとにおもに情報の伝達,兵員およびその食料の輸送,貢納物の移送といった軍事的・政治的な目的で政治権力によって形成されたとみられ,それらは律令国家の形成にともなって都城や国府を中心として統一的に体系化された。古代律令制においては,都城と諸国府を結ぶ街道として東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道が整備され,このうち都城と大宰府を結ぶ山陽道が最も重視されて大路(たいろ)と規定され,東海道・東山道が中路,他は小路とされた。これらの街道には駅伝制がしかれた。…
…ほとんどが丹波高地とよばれる山地から成り,平地は亀岡盆地,福知山盆地などごく少ない。
【古代】
山陰道に属する上国(《延喜式》)。国名は,《古事記》では旦波,丹波が併用されており,《日本書紀》ではすべて丹波である。…
※「山陰道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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