京都市右京区の地名。歴史的には山城国葛野(かどの)郡に属し,嵯峨野と記される場合が多く,東は太秦(うずまさ),西は小倉山,北は上嵯峨の山麓,南は大堰川(桂川)を境とする一帯をいう。平安京西郊外に広がる地域で,東隣の太秦の秦(はた)氏の氏寺である広隆寺にみられるように渡来系氏族秦氏を中心として開発が進められていた。平安時代には大覚寺,清凉寺などの諸寺が建立されているし,また王朝貴族にとっては遊覧の地として親しまれた。文学に表現される場合は圧倒的に春が多い。中世にも藤原定家の山荘や寺院が新しく営まれるなど,京都の近郊として発展した。
執筆者:井上 満郎 藤原定家以後も隠棲地としての嵯峨の性格は引き継がれた。1268年(文永5)後嵯峨上皇は大覚寺に入り,さらに亀山・後宇多両上皇も譲位後同寺に住むなどして,この地は嵯峨御所とも呼ばれた。これより先1255年(建長7)に後嵯峨上皇が小倉山東南の亀山山麓に亀山殿(嵯峨殿)を造営した。1339年(延元4・暦応2)足利尊氏,直義が後醍醐天皇の菩提をとむらうため天竜寺を創建,室町時代中期には双ヶ丘(ならびがおか)東麓に花園天皇の離宮が営まれるなど,鎌倉・室町両時代にわたり,嵯峨およびその周辺部は天皇の隠棲地として大きな役割をもっていた。一方,室町時代,1426年(応永33)の酒屋交名(きようみよう)には15の酒屋が嵯峨にあったことが記され,97年(明応6)には山国荘(京都府の旧北桑田郡)から出された材木を扱う嵯峨問丸の活動がみえ(《忠富王記》),この材木運送は江戸時代以降も受け継がれる。
江戸時代には1695年(元禄8)の元禄郷帳に嵯峨村として2434石余とあり,1834年(天保5)の天保郷帳では上嵯峨村1495石余,下嵯峨村748石余,小溝村164石余で,3村とも〈古ハ嵯峨村ノ内〉と注記されている。また,たとえば上嵯峨村は大覚寺宮,大聖寺宮,阿野殿家,烏丸殿家,高倉殿家など9ヵ所の所領に分割されている(〈享保14年山城国高八郡村名帳〉)。中世以来の材木運送は,1606年(慶長11)角倉了以の保津川開削によって丹波国からの〈五穀塩鉄材石等〉が嵯峨に集荷され,また桂川(保津川下流)沿いには瑳峨浜,梅津浜,桂浜の3ヵ所の荷揚場に材木屋仲間や薪木屋仲間が成立した。1734年(享保19)の材木商売人名前帳によれば,梅津組6軒,桂組12軒に対し嵯峨組が17軒と多い。また幕末期,1855年(安政2)の木屋仲間名前帳では木屋76軒,扱い薪木約50万束とあり,その活況がうかがえる。1787年(天明7)の《拾遺都名所図会》には〈嵯峨野とは北嵯峨,上嵯峨,下嵯峨の惣名なり今は民家建てつゞきて野とさす所多くはなし〉と,中世から近世にかけての変貌のありさまが記されている。1931年京都市右京区に編入。
執筆者:樋爪 修
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…京都の西,嵯峨に設けられた嵯峨上皇の別荘。嵯峨山荘,嵯峨別館などとも呼ばれた。…
※「嵯峨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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