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小説家。明治32年6月14日、大阪に生まれる。医師の父栄吉、母ゲンの長男。1901年(明治34)父、翌年母が亡くなり、大阪府三島郡豊川村大字宿久庄(しゅくのしょう)(現茨木(いばらき)市宿久庄)で祖父母に育てられた。小学校入学の年祖母、4年のとき姉、中学3年の5月に祖父が亡くなり、まったくの孤児になった。母の実家に引き取られ、親戚(しんせき)の世話になりながら茨木中学を終え、旧制第一高等学校、東京帝国大学と進んだ。帝大1年の21年(大正10)石浜金作、鈴木彦次郎らと第六次『新思潮』を創刊。2号に載せた『招魂祭一景』によって菊池寛らに認められた。この年、16歳の少女伊藤初代と婚約し、1か月後彼女の心変わりで破約になるという事件があった。身辺の多くの死、孤児の体験、失恋の痛手などは川端文学の根本的性格を形づくるうえで作用した。24年、国文科を卒業。この年10月、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、今東光らと『文芸時代』を創刊、斬新(ざんしん)な文学の出現として世の注目を浴びた。評論家千葉亀雄がこの派を新感覚派とよび、それは、当時やはりはっきりした姿を現してきたプロレタリア文学とともに、昭和初期の二大文学潮流を形づくることになった。
川端は『十六歳の日記』(中学時代の日記。1925発表)、『伊豆の踊子』(1926)など写実味の勝った作品も発表したが、それよりも、現実を主観のなかで組み立て直し新しく結晶させた詩的な作品を多く書いた。そういう作品を通して、ままならぬ現実に呻吟(しんぎん)して動きのとれぬような前代の文学のあり方を振り払い、瞬間に命をかけて生き抜く、清新な生き方を提出しようとした。『白い花』(1923)、『二十年』(1925)、『叩(たた)く子』(1928)などの掌(たなごころ)の小説、モダニズムの作品『浅草紅団(くれないだん)』(1929~1930)などがその例である。しかし新心理主義の小説『水晶幻想』(1931)のころから虚無的側面が目だつようになった。プロレタリア文学もモダニズム文学もともに圧殺され、国家主義的傾向が強くなる世の成り行きも関係している。虚無の傾向は『禽獣(きんじゅう)』(1933)、『虹(にじ)』(1934)のころにもっとも深く、そこには人間的生のむなしさが吐き出すように語られている。しかし『雪国』(1935~1947)あたりから、徒労なら徒労のままの人生を懸命に生き抜く命を、悲しみのうちに見守るような作風に移り、小康を得た。1937年(昭和12)の日中戦争以後、戦争を運命のようにみながら、しかし戦争によってもてあそばれる各国個々人の立場に思いをはせ、世界各民族が混血融合する平和な未来を願い祈る『高原』(1937~1939)のような作品も書いた。
戦争末期には、まさに滅びようとする日本の古典に思いを寄せたが、敗戦直後、次々の友人・知己の死のなかで、「私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない」(1945「島木健作追悼」)と述べた。しかし、しだいに回復し、『千羽鶴(せんばづる)』(1949~1951)、『山の音』(1949~1954)、『名人』(1951~1952)など戦後の名作が生まれる。それらは古典の伝統も生かしつつ、『千羽鶴』には老い近い川端の夢が、『名人』には覚悟が、『山の音』には両者の平衡に心を砕く現実人の姿が書かれている。しかし、『みづうみ』(1954)では美しい女の後をやみくもにつけずにはいられない魔性の男銀平を、『眠れる美女』(1960~1961)では老人の陰微な性を描き、晩年の川端の作品は一種狂気につき入ろうとしたところがある。魔界につき入る狂気と、そこをくぐり抜けて出る仏界と、両者の緊張関係の内に、川端の目ざすところはあったようである。
1948年(昭和23)日本ペンクラブ第4代会長に就任。1957年に国際ペンクラブ東京大会を主催。1961年文化勲章受章、1968年ノーベル文学賞受賞。しかし昭和47年4月16日、自らの名声に反逆するような形でガス自殺を遂げた。川端はまた批評家としても優れ、その批評眼に認められて世に出た作家には、堀辰雄(たつお)、北条民雄(ほうじょうたみお)、岡本かの子、三島由紀夫などがいる。
[羽鳥徹哉]
『『川端康成全集』35巻・補巻2(1980~1983・新潮社)』▽『『川端康成研究叢書』10巻・補巻1(1976~1983・教育出版センター)』
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大正・昭和期の小説家
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小説家,評論家。大阪市生れ。一高をへて東大国文科卒。第6次《新思潮》に発表した《招魂祭一景》(1921)の新鮮な感覚を菊池寛らに認められて文壇に出た。横光利一らと新感覚派の機関誌《文芸時代》に拠り,新感覚派が昭和初期に腐食してしまったあとも新感覚派的手法を生かし続けた。《浅草紅団(くれないだん)》(1929-30),《禽獣》をへて到達した極点に《雪国》(1935-47)があり,近代抒情文学の代表作品となった。この《雪国》と戦後の《千羽鶴》および《古都》(1961-62)の評価により1968年に日本人最初のノーベル文学賞を与えられた。受賞記念講演《美しい日本の私--その序説》は日本美の精髄と西欧的ニヒリズムと違う虚無を説いた。72年4月に仕事部屋で自殺した。川端文学には自伝的・実録的な作品群と観念的虚構性の強い作品群とがある。前者には《南方の火》《十六歳の日記》,《伊豆の踊子》(1926)など一連の恋愛・失恋小説や《名人》がある。後者には《山の音》《みづうみ》(ともに1954),《眠れる美女》(1960-61),《片腕》《たんぽぽ》がある。《感情装飾》(1926)に収められたものをはじめとして〈掌(たなごころ)の小説〉と称される短編群は古今独歩のものである。孤児として育った境涯からくる哀愁と甘えと居直りが複雑に曲折し,連想の流れの手法を多用した。戦後は日本美の残映を荒廃した山河と人心にさぐり,世界文学として位置づけた功績が大きい。日本ペンクラブ会長をつとめ,57年日本で初めて国際ペン大会を開いた。
執筆者:長谷川 泉
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1899.6.14~1972.4.16
大正・昭和期の小説家。大阪府出身。幼時に両親・祖父ら肉親を次々に失った。一高を経て東大卒。1924年(大正13)横光利一らと「文芸時代」を創刊し,新感覚派の一翼を担う。以降自己の資質に忠実な作家活動を続けた。第2次大戦後は日本ペンクラブの会長として国際ペン大会を東京で開催,68年(昭和43)ノーベル文学賞受賞。72年ガス自殺。代表作「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」「山の音」。「川端康成全集」全35巻,補巻2。
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…文学流派。1924年(大正13)10月に同人雑誌《文芸時代》(1927年5月終刊)が創刊され,そこに結集した横光利一,川端康成,中河与一,今東光,片岡鉄兵らがこの名で呼ばれ,表現技法の革新を行った。命名者は千葉亀雄で《世紀》24年11月号誌上の文芸時評で〈新感覚派の誕生〉をうたったことによりこの名が文壇に定着した。…
…結婚後,癩(らい)の発病があり離婚して1934年に東京府下の全生病院(現,国立療養所多磨全生園)に入院した。川端康成と通信で知り合い,その斡旋で《間木老人》(1935)を発表した。ついで36年には《いのちの初夜》(原題は《最初の一夜》で,川端が改題した)を発表,文学界賞を受けた。…
…川端康成の長編小説。1949年から54年にかけて文芸各誌に分載されて成った。…
…川端康成の長編小説。1935年から47年にかけて,文芸各誌に分載し,大幅に改作・推敲して含蓄豊かな近代抒情文学の頂点をなす作品が完成した。…
※「川端康成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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