新撰 芸能人物事典 明治~平成 「市川 左団次(2代目)」の解説
市川 左団次(2代目)
イチカワ サダンジ
- 職業
- 歌舞伎俳優
- 本名
- 高橋 栄次郎
- 別名
- 前名=市川 ぼたん,市川 小米,市川 莚升,俳名=杏花
- 屋号
- 高島屋
- 生年月日
- 明治13年 10月19日
- 出生地
- 東京市 京橋区築地(東京都 中央区)
- 経歴
- 初代市川左団次の長男。明治17年4歳の時に市川ぼたんの名で「助六由縁江戸桜」に出演し、初舞台。その後、たびたび9代目市川団十郎の子役を務め、28年小米を経て、33年莚升と改名し、名題に昇進。37年父が亡くなったため高島屋一門を率いるようになり、39年2代目左団次を襲名。その直後に渡欧し、各地の劇場や西欧の芝居の実際を学んで帰国した。41年明治座の興行制度改革を断行し、茶屋制度の廃止や女優の起用など思い切った劇界の近代化を図るが、周囲の反対により断念。42年には小山内薫と組んで会員制の自由劇場を創設、有楽座で試演したイプセン作・森鴎外訳の「ジョン・ガブリエル・ボルグマン」が好評を博した。以後、ゴーリキー「どん底」、チェーホフ「犬」、ブリュー「信仰」などといった西洋の劇や、鴎外、秋田雨雀ら日本人作家の新作を次々と上演し、新劇運動のはしりとなった。歌舞伎では、42年歌舞伎十八番の中でも長らく演じられていなかった「毛抜」を岡鬼太郎の脚色で約100年ぶりに上演したのをはじめ、「鳴神」や鶴屋南北作品を次々と復活・上演し、古典劇の再興と定着に尽力。また、松居松葉、岡本綺堂、真山青果ら現代作家による新脚本(新歌舞伎)も積極的に上演した。大正元年明治座を手放し、松竹と専属契約を結ぶ。昭和3年には一座を率いてソ連を訪問し、海外ではじめて歌舞伎を上演。演出家のスタニスラフスキー、映画監督のエイゼンシュタインら、ソ連の演劇人とも交流を持った。雑俳もたしなみ、鶯亭金升の門下で小山内とは同門であった。当たり役は「名高慶安太平記」の丸橋忠弥(父の当たり役でもあった)、「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助、「修禅寺物語」の夜叉王、「鳥辺山心中」の半九郎など。著書に「左団次芸談」「左団次自伝」などがある。
- 没年月日
- 昭和15年 2月23日 (1940年)
- 家族
- 父=市川 左団次(初代)
- 伝記
- 荷風と左団次―交情蜜のごとし団菊以後歌舞伎百年百話人と芸談―先駆けた俳優たち 近藤 富枝 著伊原 青々園 著上村 以和於 著馬場 順 著(発行元 河出書房新社青蛙房河出書房新社演劇出版社 ’09’09’07’99発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報