明治・大正・昭和の3代にわたるジャーナリスト、歴史家。文久3年1月25日、肥後国上益城(かみましき)郡益城町字杉堂村(現、熊本市東区秋津町)に出生。本名猪一郎(いいちろう)。蘆花(ろか)の兄。徳富家は代々惣庄屋(そうしょうや)兼代官を勤め、父一敬(いっけい)(1822―1914)は横井小楠(よこいしょうなん)の高弟で、肥後実学党の指導者として幕末から明治10年代にかけて開明的思想家として活躍した。蘇峰は、肥後実学党系の漢学塾で学んだのち、1875年(明治8)熊本洋学校に入学、漢訳の『新・旧約聖書』に触れて、西洋の学問やキリスト教に興味を開かれた。翌1876年熊本バンドの結盟に参加。これを契機に漢学や儒教倫理の支配する旧世界を抜け出し、1876年同志社英学校に入学、同年12月新島襄(にいじまじょう)より受洗。1880年同校を退学して上京、新聞記者への志果たせず帰郷。郷里の水俣(みなまた)にあって自由党系の民権結社相愛社に加入、強烈なナショナリズムに裏づけられた民権論を主張した。1882年3月大江村の自宅に大江義塾を開校し、1886年9月閉鎖するまで英学・歴史・経済・政治学等を担当して郷里の青年の教化に努めた。この間、蘇峰はビクトリア自由主義の思想家に多くを学び、平民主義の思想を形成していった。蘇峰のいう「平民主義」とは、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済社会を基礎としつつ、個人の固有の権利の尊重と平等主義とが貫徹する社会の実現を目ざすものであり、明治政府ばかりでなく民権論者の論調にみられる国権主義や武備拡張主義の誤謬(ごびゅう)を鋭くつくと同時に、自由にして安全な生活と幸福を求める平和主義、自由主義、平等主義の若々しい宣言であった。大江義塾時代の研鑽(けんさん)の結晶として『第十九世紀日本ノ青年及其(その)教育』(1885)を自費出版し、『将来之日本』(1886)を刊行して中央の論壇に華々しくデビューした蘇峰は、1887年民友社を設立して雑誌『国民之友』を創刊、1890年には『国民新聞』を創刊して、以後、明治・大正・昭和の3代にわたるオピニオン・リーダーとして活躍した。この間、日清(にっしん)戦争後の三国干渉を機に国家主義の立場を鮮明にし、従来の平民主義からの変節と非難された。政治的には桂太郎(かつらたろう)と結び、日露講和での日比谷騒擾(ひびやそうじょう)事件や、大正政変では社屋が焼打ちにあった。晩年は『近世日本国民史』全100巻(1918~1952・時事通信社)の執筆に専念した。1911年(明治44)貴族院勅選議員。太平洋戦争の宣戦の詔勅の起草者。1942年(昭和17)大日本言論報国会会長。1943年文化勲章受章。太平洋戦争後は公職追放を受け、熱海(あたみ)に隠棲(いんせい)した。昭和32年11月2日死去。
[田代和久 2016年9月16日]
『神島二郎編『近代日本思想大系8 徳富蘇峰集』(1978・筑摩書房)』▽『『近世日本国民史』(講談社学術文庫)』▽『杉井六郎著『徳富蘇峰の研究』(1977・法政大学出版局)』▽『花立三郎著『大江義塾』(1982・ぺりかん社)』
新聞人,文筆家。名は猪一郎(いいちろう)。蘆花の兄。肥後国水俣の郷士の子。熊本洋学校をへて同志社に入り,新島襄の薫陶をうけ,一度はキリスト教の洗礼をうけるが,1880年同校を中退し郷里へ帰る。熊本では自由民権の結社相愛社に加盟し,政談演説や新聞編集に従事するが,82年より自宅に大江義塾を開き,自由主義を標榜した実学教育を行う一方,いくつかのパンフレットを自費出版し,文筆活動に入る準備をする。この間,東京や高知に旅行し板垣退助,中江兆民,田口卯吉らの知遇をえる。86年《将来之日本》を出版して一躍文名を高め,一家を挙げて上京し,翌87年2月民友社を創立し《国民之友》を発刊する。平民的欧化主義を旗印としたこの雑誌は,政治・経済・社会から宗教・文芸にわたる多面的で新鮮な編集によって異常な人気を呼んだ。90年には余勢をかって《国民新聞》を創刊し,報道紙としての新聞という面で新機軸を打ち出す。日清戦争開戦前後から国家の対外的膨張を自然かつ当然とする膨張主義の立場へと移りはじめ,三国干渉後はこの立場から挙国一致と軍備増強を叫ぶようになる。97年松方内閣の内務省勅任参事官就任を機に〈変節〉の非難を招き,《国民之友》は廃刊に追い込まれた。その後も山県有朋,桂太郎に接近し機務にあずかったため,日露講和と大正政変の2度にわたって,新聞社は民衆の襲撃をこうむった。1913年の桂の死を機に政治の機務からは離れ,100冊に及ぶ《近世日本国民史》の著作を始める(1952年に完結)が,一方では《時務一家言》などの著述を通じて,デモクラシーと国際協調の風潮を批判しつづける。23年の関東大震災で新聞社は全焼し,29年には新聞を手放さざるをえなくなった。しかし,このころからファッショ化の波にのって声望が高まり,日米開戦前後には最高潮に達して,宣戦の詔勅の起草にあずかっただけでなく,大日本言論報国会,大日本文学報国会の会長を兼ね,43年文化勲章を受けた(1946年返上)。敗戦後は戦犯容疑者に指定され公職追放となるが,52年に追放を解除された。
蘇峰の思想は日清戦争を境として激しく変化した。初期には平民主義ないし平民的欧化主義を唱え,明治政府による強兵中心の近代化を批判したのに反して,後期には国家膨張主義を鼓吹し,それとの関連で皇室中心主義,国家社会主義,軍国主義を説いた。しかし,〈世界の大勢〉に基づいて日本のあり方を決めようとする考え方という点では,前後一貫している。つまり初期には軍事型社会より産業型社会へ,貴族的社会より平民的社会へという歴史の進化が,世界の大勢と考えられたのに対し,後期には〈人種的な生存競争〉が世界の大勢ととらえられたわけである。蘇峰は天成のジャーナリストとでもいうべき人物で,人間にかかわることは何にでも興味をもち,すばやく理解してわかりやすく表現する能力に恵まれていた。しかし,思考の深さと緻密さという点では弱さがあり,文章も理性的に考えさせるというよりは,読者を扇動して自己の側に組織化するという傾向が強かった。著書は時論から史論,文芸論にまでわたり,300冊前後に達する。
執筆者:植手 通有
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明治〜昭和期の評論家,新聞人,歴史家 民友社創立者;国民新聞主宰;貴院議員(勅選)。
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(有山輝雄)
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1863.1.25~1957.11.2
明治~昭和期の言論人。本名猪一郎(いいちろう)。父一敬(かずたか)は横井小楠の高弟,徳冨蘆花(ろか)は弟。肥後国生れ。熊本洋学校をへて同志社に学ぶ。熊本で大江義塾を経営後,1887年(明治20)民友社を創立して雑誌「国民之友」,90年「国民新聞」を創刊,平民主義を唱えて言論人としての地位を確立。日清戦争後は国家主義的論調の時局論を展開,政治的には桂太郎と密接な関係をもった。1929年(昭和4)国民新聞社を退社するが,言論活動は生涯継続した。修史事業をライフワークとし,「近世日本国民史」100巻を完成。他に200冊近い著作がある。第2次大戦中には大日本文学報国会・大日本言論報国会の会長に就任,戦後はA級戦犯容疑者となった。
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…《大韓毎日申報(しんぽう)》をはじめとして,抗日の論陣を張る朝鮮語新聞に対し,同時期に創刊された英字新聞《ソウル・プレスThe Seoul Press》とともに日本統監府の強力な言論機関であった。10年,朝鮮総督府設置とともに,国民新聞社の徳富蘇峰を監督に迎えてその指導をうけ,また《大韓毎日申報》を買収,改題して同年10月ハングル新聞《毎日申報》を創刊(1924年分離独立,38年《毎日新報》と改題)。《朝鮮日日新聞》と並ぶ二大新聞として,日本支配の終焉まで続いた。…
…1890年2月1日,徳富蘇峰によって創刊された日刊新聞。雑誌《国民之友》を発行し,大成功をおさめていた蘇峰が〈新聞其物をして社会の生活と一致合体せしむる〉を基本方針として発刊した。…
…こののち,明治20年代の大日本帝国憲法体制の創成期にこれらの政治党派とは距離をおいた言論人独自の文筆活動がさかんとなった。この時期の思想界の花形だった徳富蘇峰は民友社をひきいて雑誌《国民之友》と《国民新聞》などにより思想の近代化を唱え,彼のいう〈平民主義〉に多くの青年たちを共鳴させた。また二葉亭四迷や徳冨蘆花などによる文学の革新をも実現させた。…
…文明開化を象徴して,シルクハットないし山高帽にフロックコート,モーニングが典型的な紳士の図で,その戯画的表現が鹿鳴館の夜会に集う紳士淑女である。これに対し徳富蘇峰のように,イギリスの地方郷紳を模して〈田舎紳士〉を主張する試みもみられたが,その担い手である豪農層が寄生地主化し,進取性を失うにつれてその存在意義も失われていった。ジェントルマン【寺尾 方孝】。…
…情報局の指導監督のもとに結成運営されたもので,最初〈大日本思想報国会〉として発起され,のち〈大日本言論報国会〉となり,1942年12月23日に創立された。会長徳富蘇峰(猪一郎),専務理事鹿子木(かのこぎ)員信,理事津久井竜雄ら27名。会員は〈日本評論家協会〉(1940創立,代表者津久井竜雄)を中核に,一般評論家をも糾合し,43年7月現在で総数917名に達していた。…
… マッツィーニはリソルジメントの最大の推進者であったが,現実の結果は彼の期待に反するものとなり,失意のうちに生涯を閉じた。徳富蘇峰は明治期の書《吉田松陰》でマッツィーニを松陰の精神と横井小楠の理想を併せ備えた人物として紹介し,また石川三四郎はマルクスとは別の労働運動観に立つマッツィーニの思想に関心を示した。リソルジメント【北原 敦】。…
…1887年1月,徳富蘇峰が熊本の大江義塾の関係者を中心に東京赤坂に設立した思想結社および出版社。同年2月総合雑誌《国民之友》(社名は本誌に由来する)を創刊,同誌は藩閥政治と貴族的な欧化政策に反対して平民主義を掲げ,徳富らがその担い手と期待する〈田舎紳士〉をはじめとする青年知識層の支持を得て,明治中期の言論思想界に多大の影響を与えた。…
…民権運動が目標とした国会開設の原点は五ヵ条の誓文に代表される〈維新の精神〉に求められ,明治藩閥政府はそれを忘却したと攻撃されたのである。これは明治20年代前半の民友社の平民主義の主張にもうけつがれ,徳富蘇峰,人見一太郎,竹越与三郎(三叉(さんさ))らの主張に代表された。彼らは〈維新の精神〉こそが原点であって,今の政府は〈維新大革命の血脈に背くもの〉で,決して正統なあとつぎではない,と批判した。…
…この場合も論者により三人への比重の置き方は違っており,竹越与三郎《新日本史》(1891‐92)は〈以太利は欧州の日本也〉と述べて,自由主義政治家としてのカブールに高い評価を与えた。また徳富蘇峰《吉田松陰》(1893)は,松陰の精神と横井小楠の理想を兼ね備えた人物としてマッツィーニを紹介し,三宅雪嶺は明治30年代初めの論文でガリバルディを西郷隆盛と比較しながらその人物像を詳細に描いた。【北原 敦】。…
※「徳富蘇峰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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