横川村(読み)よこかわむら

日本歴史地名大系 「横川村」の解説

横川村
よこかわむら

[現在地名]天竜市横川

只来ただらい村の東に位置し、光明こうみよう山の南東、二俣ふたまた川の源流域に立地する山間村。横河とも書く。永正一六年(一五一九)一二月二〇日の棟札銘(武速神社蔵)に「遠州豊田郡横河村」とみえ、村内の牛頭天王八王子八幡社の鳥居が建立されている。天文二一年(一五五二)一二月一二日の今川義元判物写(天野文書)によれば、今川義元は天野小四郎(虎景)に「犬居山中之内宇名・横川名職并宇名之内新田共、都合五拾貫文者定納、同陣夫五人代官職」を安堵し、ほかに「山中次之所務、諸納所」など一円を新給恩として与えている。なお同日付で天野氏惣領安芸守(景泰)にも同内容の判物が与えられている(「今川義元判物写」同文書)。永禄六年(一五六三)から翌七年の遠州劇では天野景泰は今川氏に背き、この乱の前後に天野宮内右衛門尉(藤秀)もそれまで所務していた「犬居之内宇奈・横川両郷代官職」を解かれ、大塚越後に代えられていた。


横川村
よこかわむら

[現在地名]藤原町横川

会津西街道の陸奥・下野国境に当たる、山王さんのう峠の南麓にあり、西流する男鹿おじか川と水上みなかみ沢に挟まれる。南北に通る街道沿いに中心集落がある。北は陸奥国会津郡、南は街道沿いに上三依かみみより村に通じる。村名は、北上する街道に男鹿川が横から流れ込んでいることによるとされ、中心集落は男鹿川沿いの沖積地にあったが、近世初頭会津藩の街道整備により現在地に移ったという。「会津藩家世実紀」正保四年(一六四七)六月一一日条に村名がみえる。近世には南山蔵入領。天明八年(一七八八)の塩谷郡六ヵ村案内帳(赤羽守治文書)によれば畑四二町八反余・新田畑方三町六反余・見取田五反余・見取畑四反余。林二ヵ所・用水堰一ヵ所。山役永二〇〇文・御檜材木役永三〇〇文。家数三一、男六九・女七五、雑駄三二。文化六年(一八〇九)の「新編会津風土記」では家数三二。


横川村
よこかわむら

[現在地名]八王子市横川町

長房ながぶさ丘陵から城山しろやま川南岸にかけて立地。村中央よりやや北を佐野川さのがわ往還(甲州裏街道)が通る。南を南浅みなみあさ川が東流する。田園簿に村名がみえ、田九二石余・畑一二九石余で幕府領。元禄郷帳では高二八一石余。元禄一五年(一七〇二)の村明細帳(横川家文書)によると、高二八一石余、田一〇町余・畑三一町五反余、松御林は水崎みずさき一ヵ所で六町三反歩。家数七三のうち本百姓六九・水呑四、人別四四九のうち出家道心四、馬三五。稲作は早稲えいらくを積田(摘田)で行い、畑では大麦・小麦・粟・稗・芋、大角豆・菜・大根を作った。


横川村
よこがわむら

[現在地名]直川村横川

仁田原にたはら村の北西、久留須くるす川支流横川川流域に位置。慶長一〇年(一六〇五)の検地目録帳(佐伯藩政史料)に「因尾・横川村」とみえ、高七八七石余、免三ツ五分。同一六年の検地目録(同史料)では横川村の高四〇九石余。正保郷帳では田高一六五石余・畑高二四五石余、因尾郷に属した。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)によれば月形つきがた井取いとりの二ヵ村からなり、月形村の内に羽木はき黒岩くろいわ大津留おおつるひがし後持ごち寺野間てらのま竹野脇たけのわき蜷崎にながさきがある。


横川村
よこかわむら

[現在地名]下田市横川

北湯きたゆ村の南西、東流する稲生沢いのうざわ川と北東流する横川が合流する地点に位置する。横川沿いの道は大沢おおさわ村、一条いちじよう村・子浦こうら(現南伊豆町)へ通じ、道の傍らにはいくつかの道標が建つ。諏訪神社にある文明一七年(一四八五)九月二七日付の棟札には「稲梓郷横川村」がみえ、社殿が下田平俊によって修造された。北条氏所領役帳には河越衆の吉田吉長の役高として一五〇貫文「横川」とみえる。慶長三年(一五九八)七月の稲生沢之内横川村御縄打水帳(横川区有文書)によると田三〇町一反余・畑屋敷七町八反余。江戸時代は初め幕府領、元禄一一年(一六九八)旗本筑紫領となり幕末に至る(韮山町史)


横川村
よこかわむら

[現在地名]浦川原村横川

保倉ほくら川右岸、通称はなさき街道と原之町はらのまち街道の交点にある。村明細帳(浦川原村史)に「字円道えんどう、往来橋壱ケ所、槙木にて但木数八本、長二間、六寸角、是ハ猿俣川ヘ懸渡シ申候、保倉谷、松野山より高田・今町・柿崎往来、御廻米持出通路」と記す。保倉川支流猿俣さるまた川を挟んで西は六日町むいかまち村、北は杉坪すぎつぼ村、南東は顕聖寺けんしようじ村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所窪田扱此外四方分横川村 中」とあり、本納一七石六斗六升一合・縄高三五石五斗一升一合、家二軒・五人。


横川村
よこかわむら

[現在地名]三川町横川

藤島ふじしま川の左岸に位置し、西は小尺しようしやく村、北は横川新田村。近世初頭の新田開発によって成立した村で、草分百姓は梅津茂右衛門といわれる。当地西方さいほう寺を開山した梵暁の没年(元和四年)から、立村は慶長(一五九六―一六一五)末年から元和(一六一五―二四)初年と考えられている(三川町史)。元和八年の酒井氏知行目録では高五〇〇石余。寛永元年庄内高辻帳では高八五六石余。正保郷帳では田七二三石余・畑一七一石余。


横川村
よこかわむら

[現在地名]高萩市横川

大北おおきた川上流に位置し、多賀山地の山々が連なる。南は若栗わかぐり新田。文禄四年(一五九五)岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)に「百八拾九石三斗三升七合 (たつこ山)横川村」とみえ、また同年の岩城領小物成目録(秋田県立図書館蔵)にも「(桑)四十四本 此綿百七拾六匁 (竜子山分)横川村」とある。「松岡郡鑑」に御立山五ヵ所、一六五町八反四畝二〇歩、寛政元年(一七八九)の人数三五三、馬七一、鉄砲一〇とあり、「公私書記」(渡辺家蔵)には安政三年(一八五六)の家数五八・人数三〇九、馬四二とある。


横川村
よこかわむら

[現在地名]松井田町横川

はら村の東にある。中山道が通り碓氷関所が置かれていた。北部を東山道が通ったと考えられる。碓氷川左岸台地上に営まれた集落と、段丘下氾濫原に営まれた耕地で構成される。元亀三年(一五七二)八月、武田信玄が上野国に軍を発し、横川に塁を構えて歩兵を出して厩橋(前橋)白井しろい(現北群馬郡子持村)の往還を妨げた(上杉年譜)

碓氷郡に属し、「寛文朱印留」に村名がみえ、安中藩領。寛文郷帳では田方六五石余・畑方一六六石余。元禄郷帳によるとこの高のほかに竜洞寺領一七石余があった。


横川村
よこかわむら

[現在地名]郡山市熱海町あたみまち玉川たまがわ

青木葉あおきば村の西、安達太良山から南に流れる石筵いしむしろ川が南東に湾流して五百ごひやく川と合流する地点西岸の段丘に立地。天正一三年(一五八五)以前に描かれた積達二郡絵図(松藩捜古)に横川がみえ、戦国期は会津と二本松を結ぶ二本松街道に沿う要所であったと思われる。元和二年(一六一六)の会津領絵図(福島県史)では、中山なかやま村に次いで当村を通る道が記されており、近世初期には伝馬駅として成立していた。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に横川とみえ、高四八一石余。宝暦一〇年(一七六〇)の二本松領郷村高辻帳(福島県史)では高三四二石余。「積達大概録」によれば、本田高三四二石余(免五ツ三分)、新田高一四一石余(免五ツ)、家数六五(町家五七・菖蒲根五・切場屋敷三)


横川村
よこがわむら

[現在地名]金沢市横川一―七丁目

米泉よないずみ村の南、伏見ふしみ川・満願寺まんがんじ川の西岸に位置し、北東部を北陸街道が通る。枝村に村がある。「天文日記」には押野おしの(現野々市町)公文職を有する横川氏の記述が散見し、同氏は当地を本貫とする在地領主と思われる。同日記天文五年(一五三六)一一月一二日条に載る近江六角氏の家臣平井加賀守の申入れによると、押野庄公文職は従来横川某が保有していた。しかし、加賀へ下向していた本願寺坊官下間頼盛が一向一揆指導者の一人河合氏の一族を同職に補任、これに対して横川氏の公文職は蓮如が仰せ付けたものであると、支証の文書を添えて返付を求めてきた。


横川村
よこかわむら

[現在地名]辰野町大字横川

天竜川の支流である横川よこかわ川はきようヶ岳(二二九六・三メートル)に源を発して北東に流れ、大きな峡谷を作り、下流に行くに従って谷底平野が開ける。この平野の一本道に沿って集落がつくられた村。横川の初見は建武二年(一三三五)一〇月の市河倫房・同助保着到状(市河文書)で、「伊那郡為対治(中略)於横河城先懸」とみえる。また、村内熊野三所権現社再興の天正四年(一五七六)の棟札には「伊那郡宮所郷横川村」とあり、中世には宮所郷に含まれていた。


横川村
よこがわむら

[現在地名]英田町滝宮たきのみや

きた村の東にある山間の村で、河会かわい川が流れる。「東作誌」によれば枝郷として亀石かめいし内札うちふだがあり、北は宮地みやじ村。中世は河会かわえ(庄)に属し、正応元年(一二八八)六月二七日の関東下知状(入来院文書)では、亀石・土師谷はじたに両村が渋谷重村に安堵されている。建武元年(一三三四)頃、両村の田畠山野をめぐって亡き重氏の子女らと亡き重時の舎弟鬼益丸との間で争論が起きている(同年一二月一九日「渋谷重基外連署和与状」同文書)。正保郷帳に村名がみえ、田五四石・畑四七石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一八石余・開高一〇石余、村位は下。


横川村
よこかわむら

[現在地名]郡山市横川町

安原やすはら村の南、阿武隈川右岸の丘陵に立地。地内で大滝根おおたきね川と谷田やた川が合流し、阿武隈川に注ぐ。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「三段 二百文 よこ河」とみえ、紀州熊野速玉はやたま社に年貢二〇〇文を納めていた。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)では「三段 二百文 横川」とある。同一八年一〇月九日の熊野新宮領差出帳(片倉文書)でも同内容である。同一九年正月晦日の田村宗顕書状(安原文書)によれば「横川六貫文所務在家」を安原下野守に安堵している。


横川村
よこかわむら

[現在地名]大網白里町南横川みなみよこかわ

星谷野ほしやの新田の南に位置し、小中こなか川が南東流する。北横川村に対し南横川村ともいう。治承四年(一一八〇)相模国佐久間氏が当地に移って開発し、寛文元年(一六六一)頃に当村の所属が長柄ながら郡より山辺やまべ郡に変わったという(上総国町村誌)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に横川村とみえ、高一〇六石。寛文八年の鷹場五郷組合帳では青野組に属し、旗本大井領五一七石。元禄郷帳では高五四六石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳には南横川村とあり、高七四九石余、家数九九、幕府領・大井領。


横川村
よこかわむら

[現在地名]四賀村中川なかがわ 横川

松本藩領会田あいだ組で、のち幕府領。会田川支流の中川上流にある山間の小村で、原山はらやま村の東、会吉新田あいよししんでん村の南に位置する。

天正検地の際は一四一石二升三合の高であった。「信府統記」によると享保九年(一七二四)当時の石高は二四五石一升、うち田一八四石二斗一升八合、畑三七石五斗二升四合で、慶安検地時は本百姓二〇軒、門百姓八軒であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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