橋本町(読み)はしもとちょう

精選版 日本国語大辞典 「橋本町」の意味・読み・例文・類語

はしもと‐ちょう ‥チャウ【橋本町】

東京都中央区日本橋馬喰町の西北部に隣接していた町。現在の千代田区東神田一、二丁目にあたる。願人坊主の住む所として知られた。

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日本歴史地名大系 「橋本町」の解説

橋本町
はしもとまち

[現在地名]橋本市橋本一―二丁目

紀ノ川北岸、大和街道沿いに位置。北は古佐田こさだ村、西は橋本川を隔てて東家とうげ村。もと古佐田村の一部で、天正一三年(一五八五)木食応其が荒地を開き、高野山往還のための宿所としたのが始まり。「堀江家年代記」(堀江家文書)によれば、同一五年に応其は紀ノ川に一三〇間の橋を架け、この地を橋本と名付けたという。同年応其は古佐田村のうち二七・五五石を町屋敷として免許するよう豊臣秀吉に申請、次いで町助成のための塩売買の特権を願出て、いずれも許可された。塩市免許に関する同一五年三月二四日付の証文(応其寺文書)に「橋本町家相調珍重候、都鄙往行之駅売買之津也」とみえ、「屋敷御免許并一六塩市、上聞相済候、八之市相賀惣社より移し、恵比須三郎令勧請、毎月市日於無怠懈ハ、土地可繁栄候、往々町人等此旨存へき者也」と記す。この後文禄三年(一五九四)の秀吉の高野参詣の折、応其は永代諸役免許を願出て許可され、町方としての橋本の基礎が築かれた(堀江家年代記)

慶長六年(一六〇一)の東家組御検地帳尻帳写(堀江家文書)には橋本の名はみえないが、慶長検地高目録は橋本村として二七・五五石を記す。慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では、橋本御免許分として小佐田こさだ村のなかで記載され、家数・人数は小佐田村と合せて一四八軒(うち橋本本役五七)、六五九人であった。享保元年(一七一六)の御巡見様御尋之時に可申上口上書覚(関谷家文書)では、橋本町の家数は二一八、うち本役は九三、半役は一二五となっており、橋本町の家数の飛躍的な伸びが知られる。

橋本町
はしもとちよう

[現在地名]八幡市橋本〈奥ノ町・北ノ町・小金川・中ノ町・西山本〉

男山の北西にあって、北は淀川左岸に面し、山裾に沿って山城・河内の国境、小金川こがねがわを南端とし、北東へなかノ町・きたノ町・おくノ町と続き、橋本口へ至る三〇八間の町並。

淀川に神亀二年(七二五)山崎やまさき橋が架けられ、橋本の名が付いたといわれるが不詳。「栄花物語」巻三八(松のしづえ)に、延久五年(一〇七三)二月後三条院摂津天王てんのう寺参詣の途次、「橋本の津といふ所に下らせ給て御覧ずれば、国々の船どもゝ、御船どもゝ、目も遥に寄せわたしたり」と記される。

石清水いわしみず八幡宮の安居神事における頭人輩出も早く、安居頭人記(「男山考古録」所引)は建久二年(一一九一)橋本重蔵、宝治元年(一二四七)橋本豊前権守の名を記す。延慶二年(一三〇九)二月付の杜薬園寺長者代等申状写(石清水文書)には、

<資料は省略されています>

とあって、楠葉くずは(現大阪府枚方市)の禰宜などとともに橋本からも麹売人が出ていた。

橋本町
はしもとまち

[現在地名]萩市大字橋本町

南北に通る御成道を挟む両側町。北は御許おもと町、南は橋本川を隔てて椿つばき町に続く町人町。宝暦元年(一七五一)の萩大絵図別冊文書によれば町の長さ二七三間余、家数一一八、うち本軒一七、店借一〇一でほかに蔵が二六ヵ所あった。明治一八年(一八八五)の「山口県地誌稿」では町の幅東西一町二三間一尺、南北二町八間五尺。

「萩諸町之旧記草案」は当町について「何れの時より称し来りしか由来不知。

橋本町
はしもとちよう

[現在地名]大津市浜大津はまおおつ一丁目・中央ちゆうおう一丁目

みなと町の東にある浜町通の両側町。町通の北、湖辺に突き出して彦根藩の米蔵が置かれ、その東手に大橋おおはし堀があり、風呂屋ふろや関を設けている(寛保二年町絵図)。天和二年(一六八二)の本堂奉加帳(九品寺文書)に町名がみえ、元禄八年町絵図では家数三〇。大橋堀に架かる大橋の端に番屋があり、荷揚場に利用したとみられる堀の岸は四―五間の幅を有する。当町通りの北側、湖岸に突き出すように造られた彦根蔵は佐和山さわやま蔵ともよばれ、幕府蔵・加賀蔵に並ぶ規模をもち、九万俵に及ぶ収容能力を有したという。延享三年(一七四六)の彦根蔵屋敷図(新修大津市史)によれば、南北が四二間から五四間、東西が四一間ほどで、町通りの東西に木戸が設けられ、蔵敷地のほぼ中央に役所、その南に奉行所・文庫・書院、これらの周辺に他屋(彦根藩領の米を独占的に扱う)の家屋が並ぶ。

橋本町
はしもとちよう

[現在地名]八幡町橋本町

吉田よしだ川左岸にあたり、本町ほんまち通からみや橋を経て南北に走る通りの両側町。寛文年間(一六六一―七三)の町絵図には、宮ヶ瀬橋のたもとから南のしん町との四辻まで「ハシ本丁」、四辻より願蓮がんれん寺門前まで「シホヤ丁」とある。同四年の遠藤常友大坂御加番の人足書(郡上郡史)に新中間として当町三助がみえる。当町より新町へ入る北角に南街名主大沢丸平がいたが、北街の名主村瀬弥三右衛門に殺害された(→鍛冶屋町

橋本町
はしもとちよう

現千代田区の東端に昭和初期まであった町名。木賃宿や裏長屋の密集地区として東京でも大規模なスラムの一つであった。東京府は明治一四年(一八八一)の大火を契機に徹底的な町の改良事業を進め、スラム居住の貧しい下層民を地区外に移住させようとした。当町は浅草一帯の寺町に近いため、江戸期から願人坊の長屋の所在地として知られ、明治五年の調査では当地区の人口密度が一ヘクタール当り一千人を超える超過密な状況であった。また同一二年養育院の神田和泉かんだいずみ町への移設時にもスラムの改良計画があったといわれる。

明治一三年一二月から翌年二月にかけて神田鍛冶町大火・神田松枝町大火・神田柳町大火と神田一帯は大火災続きで、神田松枝町大火により橋本町一―三丁目は合計三軒の焼残り家屋と二〇棟以上の土蔵を残すのみで、全焼戸数八三一・半焼戸数三というのが当時の状況であった。

橋本町
はしもとちよう

中京区油小路通竹屋町下ル

油小路あぶらのこうじ(旧油小路)を挟む両側町で、北を竹屋町たけやまち(旧大炊御門大路)、南を夷川えびすがわ(旧冷泉小路)が通る。

平安京の条坊では町の西側は左京二条二坊三保一一町の東、東側が左京二条二坊三保一四町の西。平安中期以降は、冷泉油小路の北にあたる。また町の東側は陽成院の敷地内であった(拾芥抄)

応永三二年(一四二五)一一月一〇日付酒屋交名(北野天満宮史料)には「冷泉油少路北西頬 香海実祐」「大炊御門油少路南西頬 (播)実仙」の名がみえる。

橋本町
はしもとちよう

[現在地名]奈良市橋本町

樽井たるい町の西に所在。三条さんじよう通に面し、南を流れるいさ川に橋が架かっていた。「奈良曝」に「札場。町役十六軒」とみえる。建保六年(一二一八)の染姉子等連署沽券(春日神社文書)に「沽却 橋本花薗家地事(中略)四至限東他領 限西大通 限南他領 限北三条通」とあり、「大乗院雑事記」文明一二年(一四八〇)六月一九日条の「七郷」(興福寺寺門郷)のうちの不開御門あかずのごもん郷に「橋本」がみえ、「多聞院日記」永禄一〇年(一五六七)七月一三日条によれば放火によって町の大半が焼けている。

率川の橋は「大乗院雑事記」寛正三年(一四六二)一〇月一日条に「先年橋本之橋修造」とみえ、長享二年(一四八八)九月四日条に「橋本橋建立」とあるが、率川は現在暗渠となり、橋は餅飯殿もちいどの通となっている。

橋本町
はしもとちよう

[現在地名]岡山市京橋町きようばしちよう

外堀内の郭内商業地域の町で、山陽道沿いの両側町。北は川崎かわさき町、東は旭川、南は道を隔てて船着ふなつき町、西は道を隔て西大寺さいだいじ町。当町出入口は旭川に架かる京橋。宇喜多氏時代成立の町で、寛永城下絵図に町名がみえる。貞享元年(一六八四)の岡山町中御検地畝高地子帳によれば町域は九反余で、徳米三一石二斗余・口米六斗余。近世初期の区分は内町(市政提要)。中期以降は中組の頭町(岡山市史)

享保一六年(一七三一)当町淀屋与三太夫と常盤ときわ町和田屋某の両人が木綿問屋を仰付けられ、従来の木綿実座を廃し、綿実の売買も綿問屋が商うことになった。

橋本町
はしもとちよう

[現在地名]中区橋本町

山陽道の京橋より西に続く横町。山陽道は町の西詰を南折して石見屋いわみや町に続く。町内中ほどを北に折れると武家屋敷町の上柳かみやなぎ町、南に折れると下柳町である。町名は「知新集」に「京橋のもとの町なるゆゑ」名付けたとある。城下新町組に属した。

元和五年広島城下絵図に「橋本町」として町間数一町一三間を記し、寛永二年広島町数家数改め(済美録)には本家四一軒・借家六〇軒とあり、「知新集」では石橋一、町門二(下柳町入口一、水汲小路一)、町間数二丁二七間、竈数五三(本竈一八・借竈三五)、人数二三二(男一二八・女一〇四)、うち本道医二人、鍛冶二人、紺屋・竜吐水細工人各一人をあげる。

橋本町
はしもとまち

[現在地名]津山市橋本町

宮川みやがわ大橋の東詰にあり、出雲往来の両側に南北に連なる町。出雲往来は宮川大橋を東に渡ると町の西口で直角に北へ曲がり、町の東口で同じく東へ曲がる。西は宮川を隔てて材木ざいもく町、東は林田はいだ町、南は吉井川、北は上之うえの町内の弓之ゆみの町。堤の南の地は八出やいで村に属し、その河原で宮川と吉井川とが合流しのぞき淵をなしていた。町の南西から吉井川の堤に至る小路を長心町と称した(津山誌)

橋本町
はしもとまち

[現在地名]彦根市河原かわら二丁目・芹橋せりばし一丁目

ふくろ町の西にある両側町。町名は善利川せりかわ橋のたもとに立地することにちなむ。津軽屋加藤与兵衛は佐和山さわやま城下から移住した町人という(「彦根町地割事」長谷川文書)。元禄八年大洞弁天寄進帳に町名がみえ、男一五一・女一二三。安永七年(一七七八)の万留書(彦根市史)では町代・横目二軒のほか年貢地四五軒。享和―文化期(一八〇一―一八)の公儀見分朝鮮人案内(同書)によれば町の長さ西側九六間・東側八七間余で、家数五〇・竈数五八、男一二〇・女一四一。

橋本町
はしもとちよう

[現在地名]赤穂市加里屋かりや

大川の橋を渡って、城下への入口東総門から花岳かがく寺裏までの東西一四九間の町筋。浅野氏時代にできた新しい町筋で、四一軒のうち借家一二、商人宿二。東から常清じようせい(間口一九間・奥行二四間、現真言宗山階派)普門ふもん(間口一六間・奥行一四間半、現天台宗)庚申堂(間口八間・奥行一四間)妙慶みようけい(間口二二間・奥行四九間半)、向い合う妙慶寺普門寺の間に城下北口としての木戸門がある(宝永元年加里屋町絵図・「赤穂市史」)

橋本町
はしもとちよう

下京区四条通小橋東入

東西に通る四条通(旧四条大路)を挟む両側町で、町の西側を高瀬たかせ川が流れる。

平安京の京域外であるが、祇園ぎおん(現東山区)への通路として早くから開けていたと思われる。

寛文一二年(一六七二)洛中洛外大図では「橋詰町」とあり、宝永二年(一七〇五)洛中洛外絵図に「橋本丁」とあるのが現町名のみえる早い例であろう。

橋本町
はしもとちよう

東山区新橋通大和大路東入二丁目

新橋しんばし通(新道しんみち)に位置。西はしら川。町名は新橋の傍らにある意。正徳三年の開町。祇園内六町の一として祇園新地に所属する花街。ただし絵図類への登載は遅れ、天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成で初めて「はしもと丁」と出る。

橋本町
はしもとちよう

上京区上長者町通油小路西入

南北に通る油小路あぶらのこうじ(旧油小路)の西裏の通りを挟む両側町。

平安京の条坊では左京北辺二坊南側と同一条二坊四保九町の地で、官衙町の「左兵衛町」にあたる(拾芥抄)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「日向丁」、寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「たはらや西町」、寛文後期洛中洛外之絵図に「日向殿町」とあり、元禄末期洛中絵図に「橋本丁」と出る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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