紀ノ川北岸、大和街道沿いに位置。北は
慶長六年(一六〇一)の東家組御検地帳尻帳写(堀江家文書)には橋本の名はみえないが、慶長検地高目録は橋本村として二七・五五石を記す。慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では、橋本御免許分として
男山の北西にあって、北は淀川左岸に面し、山裾に沿って山城・河内の国境、
淀川に神亀二年(七二五)に
とあって、
現千代田区の東端に昭和初期まであった町名。木賃宿や裏長屋の密集地区として東京でも大規模なスラムの一つであった。東京府は明治一四年(一八八一)の大火を契機に徹底的な町の改良事業を進め、スラム居住の貧しい下層民を地区外に移住させようとした。当町は浅草一帯の寺町に近いため、江戸期から願人坊の長屋の所在地として知られ、明治五年の調査では当地区の人口密度が一ヘクタール当り一千人を超える超過密な状況であった。また同一二年養育院の
明治一三年一二月から翌年二月にかけて神田鍛冶町大火・神田松枝町大火・神田柳町大火と神田一帯は大火災続きで、神田松枝町大火により橋本町一―三丁目は合計三軒の焼残り家屋と二〇棟以上の土蔵を残すのみで、全焼戸数八三一・半焼戸数三というのが当時の状況であった。
率川の橋は「大乗院雑事記」寛正三年(一四六二)一〇月一日条に「先年橋本之橋修造」とみえ、長享二年(一四八八)九月四日条に「橋本橋建立」とあるが、率川は現在暗渠となり、橋は
山陽道の京橋より西に続く横町。山陽道は町の西詰を南折して
元和五年広島城下絵図に「橋本町」として町間数一町一三間を記し、寛永二年広島町数家数改め(済美録)には本家四一軒・借家六〇軒とあり、「知新集」では石橋一、町門二(下柳町入口一、水汲小路一)、町間数二丁二七間、竈数五三(本竈一八・借竈三五)、人数二三二(男一二八・女一〇四)、うち本道医二人、鍛冶二人、紺屋・竜吐水細工人各一人をあげる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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