日本歴史地名大系 「渡村」の解説
渡村
わたりむら
- 鳥取県:境港市
- 渡村
拝領高は一五四石余。本免三ツ一分。享保一九年(一七三四)には森岡村分を除いて高一七〇石余、竈数八四(鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」)。寛延四年(一七五一)当村庄屋利右衛門は、江島と当地の間の「中良瀬」を江島側が干拓して新田を開こうとしたのに対し乱杭を打って対抗、とがめられて閉門の処分を受けた。処罰の理由は「中良瀬」一帯は雲伯の境が確定していず、そうした地域に領有権を主張して乱杭を打つのは心得違いというものであった(在方諸事控)。安永四年(一七七五)従来から懸案になっていた森岡村の分離・独立が正式に認められ、下札も別々に出されることになる(同書)。文化年間(一八〇四―一八)頃から灘新田築出し工事を藩に願出て許され、新田造成が進められた(永代記録帳)。文政二年(一八一九)には新開田は一一町一反余・高七八石余に達している(在方諸事控)。
渡村
わたりむら
北東流する日野川右岸に位置し、東は
渡村
わたりむら
慶長国絵図に三一〇石四斗余とあり、寛永一一年(一六三四)の郷村高辻帳によれば本田高二九五石四斗余・新田畑高四二三石余とある。
渡村
あしわたむら
渡村
わたりむら
渡村
ひわたしむら
文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高五二七石余。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」では本田高五二七石余・新田高一二石余、免四ツ八分四厘余、家数四四、竈五二、男一四七・女一〇八、馬一八・牛二、小物成に綿役・糠藁・足前・山役があり、ほかに役漆木一九九本、役蝋四貫一七九匁がある。
渡村
ひわだしむら
渡村
どむら
渡村
わたりむら
渡村
わたりむら
渡村
ひわたしむら
渡村
わたりむら
渡村
くずわたりむら
渡村
わたりむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報