渡村(読み)わたりむら

日本歴史地名大系 「渡村」の解説

渡村
わたりむら

[現在地名]境港市渡町

西外江にしとのえ村の南に位置する。東はかつての枝村森岡もりおか村、西は中海に面し、狭い水路を隔てて(現島根県八束町)に相対する。地勢は砂地で平坦。中海の海岸線にほぼ並行して集落の中央を内浜境うちはまさかい往来が南北に走る。村の南域に枝村の大沢おおさわがある。内浜境往来は初めは六尺幅であったが、寛政元年(一七八九)に幕府役人が浦々を巡見、渡村に立寄った際八尺に改められた。さらに天保九年(一八三八)の幕府巡見使通行の折には浜の目はまのめ中の主要道は幅一丈二尺道に改められた(「永代記録帳」門脇家文書)。「出雲国風土記」の島根郡「蜈蚣むかで嶋」(江島に比定される)の項に「比の嶋より伯耆の国郡内の夜見くぬちのよみの嶋にいたるまで、磐石二里ばかり、広さ六十歩ばかり、馬に乗りながら往来かよふ。塩満つ時は、深さ二尺五寸ばかり、塩乾る時は、已に陸地の如し」とあり、江島と当地(夜見島)の間は馬行が可能であったようである。渡の地名はこうした立地条件から生じたものであろう。

拝領高は一五四石余。本免三ツ一分。享保一九年(一七三四)には森岡村分を除いて高一七〇石余、竈数八四(鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」)。寛延四年(一七五一)当村庄屋利右衛門は、江島と当地の間の「中良瀬」を江島側が干拓して新田を開こうとしたのに対し乱杭を打って対抗、とがめられて閉門の処分を受けた。処罰の理由は「中良瀬」一帯は雲伯の境が確定していず、そうした地域に領有権を主張して乱杭を打つのは心得違いというものであった(在方諸事控)。安永四年(一七七五)従来から懸案になっていた森岡村の分離・独立が正式に認められ、下札も別々に出されることになる(同書)。文化年間(一八〇四―一八)頃から灘新田築出し工事を藩に願出て許され、新田造成が進められた(永代記録帳)。文政二年(一八一九)には新開田は一一町一反余・高七八石余に達している(在方諸事控)


渡村
わたりむら

[現在地名]日野町本郷ほんごう

北東流する日野川右岸に位置し、東は漆原しつぱら村。村内を日野往来の右岸路が通り、集落は同川沿いの鍛冶屋原かじやばら岩田いわた小川尻おがわじり加勢地かせちおよび北流して日野川に入る小川尻川(渡川・本郷川ともいう)の下流にある上口かみぐち・下口からなる。「伯耆志」は支村としてカセギ(加勢地か)、カヂヤ原を記す。小川尻川が日野川に合流する小川尻の山腹にあか滝とよばれる赤褐色の柱状節理がある。村名は富田とだ街道の日野川渡場に由来するとも(日野郡史)、当地方に配流となった長谷部信連の郎党渡里(亘利)新左衛門に由来するともいう(「長谷部氏家譜」長谷部家文書)。永享一二年(一四四〇)一二月二四日の山名持豊安堵状(大山寺文書)に大山領として「渡村小柳末正名、平名」がみえ、大山西明さいみよう院衆徒中に寺家の領掌を安堵している。


渡村
わたりむら

[現在地名]球磨村渡

人吉ひとよしから球磨川を下った北岸、川や馬氷まごおり川などの支流の形成する谷に集落が点在する。北が山地で南の球磨川沿いに水田が開ける。北は万江まえ(現山江村)、東は原田はらだ村・中神なかがみ(現人吉市)、南の球磨川対岸はさんうら村・一勝地谷いつしようちだに村、西は神瀬谷こうのせだに村と接する。建久二年(一一九一)五月三日の良峯師高所領譲状案(平河文書)に「渡之村」とあり、永吉ながよし庄に属していた。はやし(現人吉市)下林しもばやし毘沙門堂の鰐口に、天正一二年(一五八四)の紀年銘とともに「渡邑彦兵衛」とある。渡利・渡リとも書く。

慶長国絵図に三一〇石四斗余とあり、寛永一一年(一六三四)郷村高辻帳によれば本田高二九五石四斗余・新田畑高四二三石余とある。


渡村
あしわたむら

[現在地名]出雲市芦渡町

神戸かんど川左岸から南西の山中へ細長く延びる。東は下古志しもごし村、西は知井宮ちいみや村、南西は乙立おつたち村。古代の足幡あしばた里の後身で、斐伊川・神戸川の氾濫原の開発に伴って当地域も広げられたと推測される。正応元年(一二八八)一一月二一日の将軍家政所下文(小野家文書)に「可令早小野又次郎日置政吉領知出雲国神門郡薗、林木、地頭職并同蘆渡郷内門田参町・屋敷壱所若槻□□□郎蔵人入道法師跡事」とみえる。この文書では小野又次郎と日置政吉に上記の所職が与えられたことになっているが、日置政吉は後で書加えられた形跡があり、東国御家人小野又次郎のみの所職と推測できる。


渡村
わたりむら

[現在地名]桜江町川越かわごえ

田津たづ村の東、江川中流域左岸に位置。江川氾濫原上に急流をもって合流する田津谷たづたに川が造成した扇状地平野があり、集落は山際に石垣を築き上げて街村を形成する。天文一二年(一五四三)九月七日の小笠原長実知行安堵坪付覚書(林家文書)によると、「拾貫文 渡り」が小笠原氏被官の横道助十郎に与えられている。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に渡り村とみえ、高二二八石余、年貢高は田方二一石余・畑方一三九石余。


渡村
ひわたしむら

[現在地名]会津坂下町樋島といしま

佐賀瀬さかせ川扇状地にあり、西は勝方かちがた村、南西は出戸田沢でとたざわ(現新鶴村)、北東は水島みずしま村。日渡・樋度とも記される。かつて逆瀬さかせ(佐賀瀬川)が村内を流れており、対岸の九坊という坊舎と村を一日一回船渡しで結んでいたための村名と伝える。天正一七年(一五八九)伊達政宗の軍により全村焼払われたと伝える。「会津旧事雑考」所収天喜五年(一〇五七)六月三日の八幡宮神役目録に「金沢日度矢鏑流馬はとしかへ」とある。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高五二七石余。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」では本田高五二七石余・新田高一二石余、免四ツ八分四厘余、家数四四、竈五二、男一四七・女一〇八、馬一八・牛二、小物成に綿役・糠藁・足前・山役があり、ほかに役漆木一九九本、役蝋四貫一七九匁がある。


渡村
ひわだしむら

[現在地名]三春町樋渡

蛇石へびいし川と樋渡川に挟まれ、北は蛇石村、南西は根本ねもと村。永禄四年(一五六一)六月二三日の熊野山新宮年貢帳(仙道田村荘史)に「三段 二百文 ひわたし」とみえ、また同一一年七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)には「ひわたし殿はひことんニおよひ、百文さしおき申候」とあり、紀州熊野新宮へ上納する年貢三〇〇文のうち一〇〇文を受領する地侍(ひわたし殿)の存在が知られる。


渡村
どむら

[現在地名]静岡市渡

安倍川上流沿いに位置し、南は中平なかひら村。東西に山が迫っているため河岸が往還に利用されたが、当村から入島にゆうじまうめしま両村に至る間はとくに谷間が急になって川幅が狭くなるため、増水する夏秋には通行できず、木材を出す筏を往還に使用していたという(「駿河志料」など)。領主は安西外あんざいそと新田と同じ。慶長九年(一六〇四)には高一一石余、家数一四(大河内村誌)、村高は変化なく幕末に至る(元禄郷帳・旧高旧領取調帳など)。慶安二年(一六四九)には年貢のほかに追掘役・焼畑役として銭九四〇文が課せられていた(大河内村誌)。「駿河記」では家数五四。


渡村
わたりむら

[現在地名]津屋崎町渡

入江を挟んで津屋崎村の西側にある渡半島を占める村。東西約一キロ、南北三・五キロの小さな半島で、村の北部と西部は玄界灘に面し海食崖が連なり、東は勝浦かつうら村。北東部に枝村の梅津うめづがある(続風土記)。「宗像大菩薩御縁起」と正平二十三年宗像宮年中行事(宗像大社所蔵文書/神道大系神社編四九宗像)に「渡津社」が載る。


渡村
わたりむら

[現在地名]高岡市上渡かみわたり

小矢部おやべ川右岸、東石堤ひがしいしつつみ村の西に位置。南西は高田島たかたじま村、南東は立野たての町。小矢部川には赤丸あかまる(現福岡町)へ至る渡しが設けられ、下流の六渡寺ろくどうじ渡に対してかみ渡ともよばれた。元和五年(一六一九)の家高新帳では赤丸組に属して「上渡り村」とみえ、役家数四。正保郷帳では高一一五石余、田方七町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印による草高一五〇石・免五ツ(三箇国高物成帳)


渡村
ひわたしむら

[現在地名]浪江町樋渡

高瀬たかせ川北岸にあり、東は牛渡うしわた村、北は川添かわぞえ村。中世標葉十三党のうちに樋渡摂津隆則がみえる(東奥標葉記)。樋渡氏は標葉氏没落後相馬氏に服したが、永禄六年(一五六三)黒木くろき(現相馬市)城代青田信濃顕治の反逆に連座して断絶した(奥相志)。その後、田和津田氏が当地に住し、総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項に「七貫七百七十五文 田和津田左馬助」がみえる。正保郷帳では田方一〇五石余・畑方三三石余。


渡村
わたりむら

[現在地名]金山町渡

馬瀬まぜ川と飛騨川が合流する地点北方、馬瀬川東岸にある。同川対岸は美濃国武儀むぎ郡金山村。慶長一〇年(一六〇五)五月二三日の実蔵坊飛騨檀那目録案(経聞坊文書)に「わたり村 下景善衛門やト」とみえる。同年の飛騨国郷帳によれば麻生あそう郷に属し、高三八石余、田一一石余・畑二七石余、物成一一石余。同一八年の郷帳では高七八石余。元禄検地反歩帳では高三八石余、田一町一反余・畑四町四反余。「飛騨国中案内」によれば免三割一分七厘余、家数一六、うち百姓一四・門屋二。大平おおひら山に家木山があった(元禄一五年「飛州御林山之改帳」徳川林政史研究所蔵)


渡村
くずわたりむら

[現在地名]水俣市葛渡

水俣川と久木野くぎの川の合流点から約半里上流の水俣川沿岸にあり、上流に大藪おおやぶ村・荒平あらひら村、下流に井良迫いらかさこ村・薄原すすばる村がある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳に村名がみえ、田畠高九三〇石六斗余、屋敷数五六、男一九五・女一二四、牛二四・馬二三があげられるが、これは渡野わたりの村・桜野さくらの村・犬鹿倉いぬかぐら村・薄原村・井良迫村・荒平村・石坂川いしざかがわ村・大藪村を含んだ数字である。


渡村
わたりむら

[現在地名]松岡町渡新田わたりしんでん

九頭竜くずりゆう川中州の南西岸にあり、北東は兼定島けんじようじま村、東は末正すえまさ村。慶長六年(一六〇一)九月九日付山川菊松宛結城秀康知行宛行状(山川家文書)に村名がみえる。正保郷帳によると田方一三九石余・畠方一五石余。正保二年(一六四五)福井藩領より松岡藩領となり、享保六年(一七二一)再び福井藩領。

安永二年(一七七三)福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によると田方三町五反・畑方七反二畝。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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