突厥(とっけつ)(読み)とっけつ

  • 突厥

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

552~744年に北アジア・中央アジアを支配したトルコ系遊牧民族・国家。583年に東西に分裂し、いずれも一時は属した。東突厥は680年ごろに再興したが、ウイグルに滅ぼされた。突厥文字は北方遊牧民最古の文字とされる。

(2017-12-09 朝日新聞 朝刊 2社会)

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

「とっくつ」とも読む。6世紀の中ごろからほぼ200年間、モンゴル高原を中心に活躍し、その間、100年余り中央アジアを支配したトルコ民族と、その国名。Türkの複数形Türkütの音訳であるといわれてきたが、最近では、Türkを音写したものであるという説が有力である。初め、鉄勒(てつろく)の一部族としてアルタイ山脈方面で柔然(じゅうぜん)に服属していたが、その一氏族阿史那(あしな)氏の族長土門(テュメン)(万人長の意)が、柔然、鉄勒を破って独立し、イリク・ハガン(国家を支配する可汗の意)と称した(552)。そのころから、彼の弟のイステミ・ハガン(ディザブロス)は西方へ進出し、3代目のムカン・ハガンの治世中に、ササン朝ペルシアと協力してエフタルを滅ぼした。この結果、突厥の勢力は東は満州から西は中央アジアに及んだが、同族間の争いのため、その領域は583年東西に分裂し、東突厥がモンゴル高原を、西突厥が中央アジアを支配するに至った。

 東突厥は、隋(ずい)末唐初の中国内部の混乱に乗じて中央集権化を図り、その勢力は強大になったが、唐の攻撃と、支配下の鉄勒諸部族の独立とのために滅亡し(630)、唐の間接支配を受けた。しかし、682年に独立して、ふたたびモンゴル高原に建国し、カプガン・ハガン、ビルゲ・ハガン(賢明な可汗の意)などが出て、中央アジアへも遠征したが、またもや同族間の争いのため衰え、鉄勒の一部族ウイグルに滅ぼされた(744)。630年以前を突厥第一帝国、682年以後を第二帝国とよぶ。

 西突厥は、ビザンティン帝国と結んでササン朝ペルシアを討ったこともあるが、両部に分かれて互いに争い、唐はこの間に伊州(ハミ)、西州(トゥルファン)などの州県を置いた。その後一時統一されたが、唐はこれを討ち(657)、2人のハガンをたてて統制した。7世紀末に突騎施(トゥルギシュ)が興ってこの2ハガンを追放したため、西突厥は滅亡した。

 突厥の国家はイルilとよばれ、ハガンの下に小ハガン、ヤクブ、シャドなどの諸侯がいて、各地に一種の封建領をもち、領内の諸部族の統治にあたった。これらはベグと総称され、支配階級を構成した。一般民衆はブドゥンとよばれ、また主としてベグたちは家内奴隷を所有していた。原始的なシャーマニズムが一般に信ぜられていたが、仏教が一時、ハガンを中心とする上層階級で行われた。

[護 雅夫]

『護雅夫著『古代トルコ民族史研究Ⅰ』(1967・山川出版社)』『護雅夫著『古代遊牧帝国』(中公新書)』

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世界大百科事典内の突厥(とっけつ)の言及

【突厥】より

…土門の子,木杆(ムカン)可汗のとき柔然を滅亡させ(555),ついで吐谷渾(とよくこん),契丹,キルギスを併せ,ユチュケン山を本拠として発展をとげた。オアシス地帯と東西通商ルートを抑えた西面可汗の勢力にくらべると,モンゴリアの突厥は大可汗のほかに小可汗が分立し不安定であった。 583年には西面可汗が独立して西突厥といわれ,のち射匱(しやき)可汗,トン・ヤブグ・ハガン(統葉護可汗)のころ最盛期を迎えた。…

※「突厥(とっけつ)」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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