箕輪村(読み)みのわむら

日本歴史地名大系 「箕輪村」の解説

箕輪村
みのわむら

[現在地名]寒河江市箕輪

小泉こいずみ村の北西に位置し、山山麓に立地。山麓に沿って南西は日和田ひわだ村に続く。

〔中世〕

南北朝期以降の慈恩じおん寺関係文書に寒河江庄(北方)箕輪郷(三輪・美輪とも)がみえ、郷内に慈恩寺領があった。最上慈恩寺略縁起(最上院文書)に「後小松院御宇有霊験、明徳三年壬申十二月十七日奉振神輿、至箕輪郷安座シ玉フ、尓四年、応永二乙亥年正月丑日帰座シ玉フ、此時箕輪郷属寺産」とある。応永一〇年(一四〇三)二月一〇日の藤五郎家吉売券写(梅本坊文書)は「渡沢の藤五郎在家の内、沢田三百束苅」を直銭三貫文で大円だいえん坊へ売渡した時のもので、売主は箕輪郷渡沢住人藤五郎家吉であった。以後慈恩寺関係の売券・補任状には「みのわのかうをかざひけ」(応永二一年一一月一三日「へいこ家吉売券写」今田信一氏所蔵文書)、「箕輪郷太郎在家」(永享七年四月一三日「おきた右京入道売券」東林坊文書)、「北寒河江箕輪郷内渡沢藤五郎在家」(同一一年三月八日「阿闍梨宥盛・同幸海田地補任状写」富樫文書)、「ミのわ川野さいけ」(永正二年四月二四日「川野かせひ売券写」東林坊文書)などがみえる。

箕輪村
みのわむら

[現在地名]沼南町箕輪

五条谷ごじようや村の北東、手賀てが沼の南岸に位置し、東は岩井いわい村、西は大井おおい村。同村との境、手賀沼に突き出た台地上には箕輪城跡があり、城山しろやまの俗称でよばれている。三野輪・蓑輪とも記した。年未詳の某嘆願状(相馬文書)によれば、相馬胤村の遺領のうち胤村後家分として「相馬(匂)」など五ヵ村のうちから二ヵ村の配分が要請されている。その後の相続状況は不明だが、応永二年(一三九五)の追筆のある南相馬郡等田数注進状案(同文書)に「 ミのわ 六丁六反六十歩」とある。箕輪城跡からは同一六年銘の宝篋印塔の一部が出土している。また同城の東方には箕輪如意寺みのわによいでら城跡があり、桝内ますうち物見塚ものみづか道堀どうぼりなどの字名も残るが、両者の関係は不明。

箕輪村
みのわむら

[現在地名]岩槻市箕輪

岩槻城下の北、綾瀬川左岸に位置し、岩槻台地上に集落が形成されている。当地は野与党大蔵経長の次男経光の本領(名字の地)と伝え、経光の曾孫為経が箕勾みのわを名乗った(「野与党系図」諸家系図纂)。その子孫箕勾政高は鎌倉幕府の御家人となり、承久の乱のとき北条時房の陣に加わって近江勢多せた(現滋賀県大津市)の戦で軍功を立てた。しかし恩賞が延引し、仁治二年(一二四一)になってようやく水田開発予定の「武蔵国多磨野荒野」が政高の子師政に与えられた(「吾妻鏡」同年一一月一七日条)。弥勒寺蔵の寛元四年(一二四六)の鐘銘に「埼玉郡箕輪郷」とあるが、この鐘は近世初期の鋳造とみられ一考を要する。

箕輪村
みのわむら

[現在地名]豊中市箕輪一―三丁目・走井はしりい三丁目など

麻田あさだ村の南に位置する。豊中台地の西端から平坦地に移る千里せんり川沿いに集落があり(現箕輪一丁目)、村域は平地に展開し岩屋いわや(現兵庫県伊丹市)に至る。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に美濃輪村がみえるが、単独の高は不明。元和初年の摂津一国高御改帳に載る「見のたに村」(四五石余、片桐主膳正知行)は当村のうちであろう。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では箕輪村二二五石余、うち幕府領四五石余・麻田藩青木領一五六石余・大坂城代(武蔵岩槻藩)阿部正次領二四石余(寛永三年から正保四年まで)

箕輪村
みのわむら

[現在地名]高根町箕輪

八ヶ岳の南麓、標高六五〇―七〇〇メートル付近に位置。東は穴平あなだいら(現須玉町)、西は村山東割むらやまひがしわり村、北は箕輪新町村。村の東部を脇街道佐久さく往還が南北に走る。つつみ大坪おおつぼ横森よこもり海道かいどう大林おおばやしの集落がある(甲斐国志)。近世初頭に箕輪新町村が分立した。慶長古高帳では三の輪と記され、高四八八石余、三枝土佐知行、ほかに八幡(建部神社)領一石六斗二升がある。

箕輪村
みのわむら

[現在地名]大里村箕輪

比企丘陵北東縁部から荒川右岸の沖積低地に位置し、西は比企郡おかごう(現東松山市)、南は甲山かぶとやま村、北は相上あいあげ村。古くは甲山村とともに一村で正保国絵図に「箕輪甲山」とみえる。元禄一一年(一六九八)に分村したとされる(郡村誌)。田園簿では箕輪甲山と記され、田方五五四石余・畑方二七九石余、忍藩領。元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳には箕輪村とみえ高四八四石余、幕府領。寛延四年(一七五一)には下総佐倉藩領となっており、宝暦一三年(一七六三)幕府領となった(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)

箕輪村
みのわむら

[現在地名]安城市箕輪町

現安城市の西に位置し、長田おさだ川沿いの谷間に発達した集落からなる。大浜おおはま街道が村の東を通る。古代志貴しき庄に属し、箕濃といったが、福釜ふかま村から分れ、元禄元年(一六八八)箕輪村と称する(安城町誌)。箕輪城跡があり、中世水野氏家臣浅井治兵衛道介の拠ったところという(三河国二葉松)光明こうみよう寺の位置にあたり、「本屋敷もとやしき」の地名が残る。

近世の箕輪村は、松平筑後守領から元禄一二年幕府領、宝永七年(一七一〇)刈谷藩領、寛政四年(一七九二)福島藩領、のち重原藩領。

箕輪村
みのわむら

[現在地名]茂原市箕輪

長谷ながや村の南西に位置し、東流する一宮いちのみや川左岸にあたる。村の南部以外は丘陵に囲まれている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に箕輪村とみえ、高三四七石。元禄郷帳では高三四七石余、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳でも同高で、家数四二。村高は以後幕末まで変化はないと思われる。元和六年(一六二〇)潤井戸藩主永井尚政による検地があった(「道間尺帳」中村家文書)

箕輪村
みのわむら

[現在地名]黒磯市箕輪

北東に入会原野の大輪地おおわじ原が広がり、南は洞島とうじま村、西は高林たかばやし村と蛇尾さび川を隔てた上横林かみよこばやし(現那須郡塩原町)。北部をくま川が南東へ流れ、蛇尾川・熊川とも平常は流水がない。那須野ヶ原北部に位置し、水利に極めて乏しい。古くは古屋敷ふるやしき西屋敷にしやしきとよばれる所に集落があり、熊川の洪水を避けて江戸時代初期に東西に通る高林街道沿いの現在地へ移った。

箕輪村
みのわむら

[現在地名]東大阪市箕輪

若江郡に属し、南は中野なかの村。大和川付替えまでは、北に新開しんかい池があり、西方の菱江ひしえ川、東方の吉田よした川に挟まれた平坦な低湿地であった。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)四月一九日条によると、造太神宮役夫工米を各地の庄園の地頭が未進しており、そのなかに河内国の三野和みのわがみえる。

正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高一四八石余、小物成として葭年貢銀一〇〇匁、幕府領。元文二年(一七三七)河内国高帳では幕府領一五〇石余・同新田一一八石余。

箕輪村
みのわむら

[現在地名]港北区箕輪町

東は矢上やがみ村、西は駒林こまばやし村、南は綱島つなしま村、北は矢上村・駒林村に接する。西北におお池という溜井があり、用水は矢上村から引く。小田原衆所領役帳に左衛門佐殿「弐百貫文 小机綱島・箕輪共ニ」とある。

宝永三年(一七〇六)には江戸芝増上寺領と旗本鈴木領の二給。明和二年(一七六五)一〇月の捉飼場村々連判帳(富川文書)によると捉飼場に指定されている。享和三年(一八〇三)二月の用水堀出入一件(飯田文書)によると、当村で用水堀舗を高くしたことに対し綱島村から堀浚いを求めて訴えられ、矢上村、上下両野川のがわ(現川崎市宮前区)下末吉しもすえよし(現鶴見区)名主が扱人となり、毎年春彼岸以前に堀浚い・草刈払いをすることで解決した。

箕輪村
みのわむら

[現在地名]二本松市箕輪・苗松なえまつ馬場平ばばだいら雄平台ゆうへいだい大石おおいしさく乳母沢うばざわ三雄山さんゆうざん

永田ながた村の南にあり、東は館野たての村、南は椚山くぬぎやま(現大玉村)、西は上大江かみだいえ村・玉井たまのい(現同上)。天正一四年(一五八六)九月七日の二本松配分日記(伊達家文書)の筆頭に「みのハ玄蕃をん所 みのわの村一宇」とある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に蓑輪とみえ高三一一石余。享保二一年(一七三六)の箕輪村大概帳(二本松市史)によると本田高三一一石余・新田高六四石余、反別は田一二町八反余・畑六町三反余、家数七二・人数三二七、馬三五。

箕輪村
みのわむら

[現在地名]君津市箕輪

奥田おくだ村の南に位置する。東は上総丘陵を背に集落を構え、村の西側を久留里くるり道が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四八三石。元禄郷帳では高五〇六石余、天保郷帳・旧高旧領取調帳では高六二六石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は山本やまもと村と同じ。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数八二。字やつに鎮守の熊野神社がある。

箕輪村
みのわむら

[現在地名]谷和原村箕輪

押砂おしずな村西南、小貝こかい川東岸にあり、川通かわどおり用水に面する。「和名抄」の河内かつち真幡みのはた郷の本郷ともいわれる(新編常陸国誌)。「寛文朱印留」によれば下総佐倉藩大給松平氏領であったが、正徳二年(一七一二)土浦藩土屋氏領(谷原上郷組)となり廃藩置県に及ぶ。

箕輪村
みのわむら

[現在地名]邑久町箕輪

西流してきた干田ほした川がこう山の裾で南に流れを変え、現長船町から邑久町に入った所にある。「備陽記」に「古ハ笠賀新村ト唱」とあるように、寛永備前国絵図・正保郷帳に笠加新かさかしん村とみえ、高六六八石余。元禄郷帳では箕輪村となっているから、一七世紀末までには村名替えが行われたものと思われる。「備陽記」では田畑四五町余、家数六八・人数四〇一。

箕輪村
みのわむら

[現在地名]山添村大字箕輪

堂前どうまえ村北方、堂前川曲流地に立地する。貞和三年(一三四七)の興福寺造営段米并田数帳(春日神社文書)には「箕輪庄 五町大反米一石五斗二升」とある。中世、箕輪宗慶・同源左衛門が、当村東北の城山に塁を構築、堀跡が残る(国民郷士記)慶長郷帳には「箕野輪村」と記し、村高は一四一・四五石、幕府領(代官間宮三郎右衛門)

箕輪村
みのわむら

[現在地名]水海道市箕輪町

小貝こかい川北西岸に所在。北は大崎おおさき村。元禄五年(一六九二)の申歳箕輪村御年貢可納割付之事(杉山始文書)に下田二一町余、中畑九反、下畑九町余、下々畑三反余、屋敷地四反余、取米四二・六六二石、取永六貫一二一文の記載があり、水入荒引・川欠引が八町余計上され、水害地帯であったことを示す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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