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網曳御厨(読み)あびこのみくりや

百科事典マイペディアの解説

網曳御厨【あびこのみくりや】

宮内省内膳司料所で,和泉国の海浜で網を曳(ひ)く漁民が供御(くご)の魚類を奉献した。料所は1ヵ所に限定されていたわけではなく,現大阪府泉大津市から貝塚市付近に至る海辺を中心に,和泉国内に散在していたと考えられる。《延喜式》によると徭丁50人が網曳御厨寄人(よりうど)として設定されており,〈雑味塩魚廿石六斗〉を造進した。彼らは供御を納める代わりに諸役免除の特権をもち,負担をめぐって国司との間にしばしば紛争を起こしている。また平安時代末期には和泉国内に多くの免田を給されており,鎌倉時代初期には従来の雑免田を返上したうえで,代わりに不輸免田65町を給された。このころには漁業特権も拡大しており,網曳御厨領の浦が和泉国内に散在していた。承久の乱後は免田や漁業特権をめぐる地頭との相論が発生,13世紀末には荘園領主との相論が起こっているが,近木(こぎ)荘にあった給免田は変質しつつも15世紀前半までは維持されており,漁業特権は中世末まで生き続けた。

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世界大百科事典 第2版の解説

あびこのみくりや【網曳御厨】

和泉国の海岸部を領域とした内膳司領の御厨。和泉の海民は律令制以前から雑供戸として朝廷に魚貝類を貢進していた。9世紀末~10世紀初頭にかけて,雑供戸制の解体にともない,和泉では網曳50人が徭丁として置かれ,内膳司に〈日次御贄〉を貢納することとなる。この時期,彼らは和泉の河海での漁業権を独占的に認められ,その活動圏がそのまま御厨とされた。平安末期には国内に165町の雑役免田が募られ,しだいに田地との結びつきを強めるが,鎌倉初期の正治年中(1199‐1201),改めて不輸免田65町が設定され,網曳の系譜をひき河海での漁業特権をもつ内膳司供御人(くごにん)とその免田からなる御厨として確立する。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

網曳御厨
あびこのみくりや

和泉(いずみ)国に存在した内膳司(ないぜんし)領の御厨。現在の大阪府泉大津市の我孫子(あびこ)を中心地域とし、近木荘(こぎのしょう)(貝塚市)、鶴原(つるはら)荘・佐野荘(泉佐野市)近辺にまで領域を広げていた。すでに平安時代初期、50人の徭丁(ようてい)が公認されており、いわゆる延喜(えんぎ)御厨整理令でも旧来よりの御厨として認可された。平安時代末期には、和泉国中から165町の免田(めんでん)を募ったとされるが、その発展の基礎には、「半ば漁釣(ぎょちょう)の事を宗(むね)とし」たという和泉国の富豪田堵(たと)の漁業への進出の動向(1012年「和泉国符案」)があった。しかし鎌倉時代以降、近隣荘園の領主、地頭との相論(そうろん)が絶えず、正治(しょうじ)年間(1199~1201)に65町に落ち着いた免田も近木荘の地頭などに侵害されたことが知られる。網曳御厨は和泉国沿岸の諸浦に対して強力な漁業権を有していたと想定されるが、その漁労活動の具体相を示す史料はなく、ただ中世末期以降の佐野の漁師の西国一帯への出漁の事実が、御厨漁民の特権的活動の伝統を引くものであろうと推定されるのみである。[保立道久]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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