菅野村(読み)すがのむら

日本歴史地名大系 「菅野村」の解説

菅野村
すがのむら

[現在地名]岡山市菅野

栢谷かいだに村の北西、ささ川上流の標高およそ七、八十メートルの高原台地上にあり、西は田原たばら村。枝村に西菅野があり、かつて西菅野は一打村、本村は東菅野と称したという(吉備温故秘録)

元徳二年(一三三〇)七月日の藤原氏女代盛時書状(飯野八幡宮文書)に「東菅野」とみえ、則安名内であった。同年閏六月の尼阿一代覚恵重訴状(同文書)によれば、名内福輪寺ふくりんじ村地頭尼阿一の子息松田七郎三郎が城郭を構えて所々に悪党を語らい置くと訴えた伊賀盛光代盛郷に対して、尼阿一は盛郷は盛光の家人を率いて名の惣領と称して福輪寺村内に乱入し、百姓住宅で昼強盗を行ったと反論している。

菅野村
すがのむら

[現在地名]伊根町字菅野

村・本坂ほんざか村のある谷の南東部に菅野の谷がある。越山こしやまやまなる・菅野・ふくうち足谷あしだに(以上地域名)を含む地域である。谷の南は現宮津市たに地区と境を接する。村中を通る道は南は伊禰浦日出いねうらひでおよびいわはな(現宮津市)、北はきようみさきから宇川うかわ方面(現竹野郡丹後町)、北西はいかり峠を越えて宇川方面に通じる。

中世には丹後国田数帳に記す筒川保の地。戦国期には筒川庄の政治的中心地となり代官三富氏が当地に住み、菅野の谷の入口に城郭を築いている(→筒川保。また城の西北麓には妙光みようこう寺が建てられた。上山うえやま神社は妙光寺に近くその西北方にあって、近世までは荒神社とよばれ、今も例祭(四月二五日)には多くの神楽舞の行事を取り行っている。

菅野村
すがのむら

[現在地名]遊佐町菅里すがさと

箕輪新田みのわしんでん村の南西にあり、吹浦ふくら川下流左岸に位置する。「筆濃余理」に、菅野城は丸子まりこ村との間にあり、方六四間の堀形がわずかに残っているとある。江戸時代初期の河川の変化と飛砂に埋まり、現在地は不明。城主板垣兼富は永禄七年(一五六四)没落(「由利郡大竹村寿福院系図」飽海郡誌)。天正一八年(一五九〇)上杉景勝は庄内の検地を行い、一揆に備えて同城に市川対馬守を置いた。

菅野村
すがのむら

[現在地名]御杖村大字菅野

神末こうずえ村と土屋原つちやはら村のに立地する伊勢本街道の街村。倭姫命が当村通過の際、疲労に耐えず井水(四社神社境内)を飲むと、身心すがすがしくなり、清野すがのといったという地名説話がある。また洲処すが地(すが地)を意味する地名であるともいう(濫觴記)慶長郷帳にみる村高五一六・四〇六石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。元禄八年(一六九五)幕府領となる。

菅野村
すがのむら

[現在地名]大刀洗町菅野

筑後川支流の小石原こいしわら川下流左岸に位置し、西は小石原川を挟んで吉竹よしたけ村・下川げかわ村に接する。貞応元年(一二二二)五月日の弥勒寺公文所下文案(大神文書/鎌倉遺文五)によれば、筑後国「菅野村」地頭職をめぐる相論があり、領家弥勒寺は本家の山城石清水いわしみず八幡宮の下文にまかせて権大宮司大神忠家に安堵している。この大神家は筥崎宮の大宮司で、正和元年(一三一二)大神惟任は筑後国「須賀野村屋敷畠」一町二反および楽田五反を買得した良快に対し、神領興行法にもとづき返還を訴え、社家に返付すべきことが命じられている(同年一二月二七日「鎮西下知状」大神文書/鎌倉遺文三二)。本高は一二六石余(元禄国絵図)

菅野村
すがのむら

[現在地名]市川市菅野一―六丁目・東菅野ひがしすがの一―四丁目・平田ひらた一―二丁目・新田しんでん一丁目・須和田すわだ二丁目など

宮久保みやくぼ村の南西に位置し、八幡やわた町から宮久保村へ通じる往還沿いに集落が形成された。南は古八幡こやわた村、南西は平田村・市川新田。江戸時代には幕府領であった(旧高旧領取調帳など)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図では「菅軽」とみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高五三一石余。「葛飾誌略」では家数八〇余。佐倉道が村の南端を通り、宿村大概帳では高五三七石余、田がちの村方で、用水は字八反見はつたんみの用水路から引取り、流水は隣村の小川へ落した。

菅野村
すがのむら

宍粟郡内にあったとみられる室町時代の村。応永一六年(一四〇九)九月四日の足利義持御判御教書(赤松春日部文書)によると、亡父赤松頼則から満則に譲られた「佐用庄上津方・土万郷、菅野村・赤松郷内屋敷」などが満則に安堵されている。これらはもと赤松円心の所領で、円心の次男貞範(頼則の父)が相続し、以後赤松春日部家に伝領されたものと思われる。永享五年(一四三三)一一月二五日には満則の嫡男貞村が「すかの村」を弟法師(貞村の次男貞祐)に譲っている(「赤松貞村所領譲状」同文書)。菅野の地名は残っていない。

菅野村
すがのむら

[現在地名]国府町菅野

栃本とちもと村の南東、おうぎノ山の西麓に位置し、ふくろ川の支流大石おおいし川・上地わじ川に挟まれた台地上に立地。村名は貞観三年(八六一)一〇月一六日に従五位下に叙された「酒賀神」(三代実録)にちなむという。「因幡志」によると、百姓は一人もいず社司の長田氏のみが菅野大明神(現酒賀神社)の傍らに居住しており、農事には栃本村が従事した。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳には「神主一軒ニ付、万々栃本村作廻、下札も同村所持」と記されている。

菅野村
すがのむら

[現在地名]金津町菅野

金津宿の東南、加越山麓にある。中世には奈良興福寺領坪江つぼえ庄上郷に含まれた。坪江上郷条々(大乗院文書)中の「松林院 応安六年記云 上郷別納方注文」に「円満名公文名得分 後山東西後山一族支配(中略)仁王丸菅野」とあり、菅野を名乗る名主がいたことがわかる。また文明五年(一四七三)以降に書かれた竜沢寺領勘落所之改目録(竜沢寺文書)中にも、「一、菅野畑事」と記されている。

慶長六年(一六〇一)結城秀康が多賀谷三経に与えた知行宛行状(多賀谷文書)にも丸岡領として「すかの村」(高七〇七・三七石)がみえる。

菅野村
すがのむら

[現在地名]弘前市境関さかいぜき

弘前城下の東北にあり、東は境関村、西は撫牛子ないじようし村に続く。

貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、境関村の支村とあり、村高一二六・〇七石、うち田方九三・一六四石、畑方三二・九〇六石。田位は上々田から下田まで、斗代は上々田が一・四石と高い。村内に寺社、漆木はない。屋敷地は一・九三六石、屋敷持は六名。元禄三年(一六九〇)には堀越組に属し、村位は上とある(平山日記)。享保一一年(一七二六)の村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、境関村の支村から本村となった。

菅野村
すげのむら

[現在地名]下條村菅野

現下條村の南部に位置する。江戸時代には幕府領に属し、初期には朝日受永・千村平右衛門・知久氏らが支配した。その後、下瀬しもぜ(現飯田市)駒場こまば(現阿智村)今田いまだ(現飯田市)飯島いいじま(現上伊那郡飯島町)などの代官所の支配下に入ったが、元文四年(一七三九)からは知久氏の預り領となった(下條村誌)

菅野村
すがのむら

[現在地名]西区櫨谷町菅野はせたにちようすがの樫野台かしのだい二―五丁目・春日台かすがだい四丁目

櫨谷川中流域に位置し、西は松本まつもと村。慶長国絵図に「須かノ村」「須賀野」とみえる。正保郷帳に菅野村とあり、田方三四九石余・畑方一〇〇石余、小松山あり。明石藩領中里組に所属。「明石記」によると東西四町一〇間・南北三町。池二二・井堤・土橋八・野山・自分山・御林・から戸山(貞享三年松植樹)

菅野村
すげのむら

[現在地名]市原市菅野

柳川やながわ村の西に位置する。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高五三石。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)に村名があり、延宝七年(一六七九)まで久留里藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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