蓮光寺(読み)れんこうじ

日本歴史地名大系 「蓮光寺」の解説

蓮光寺
れんこうじ

[現在地名]下京区本塩竈町

浄土宗。負別山と号し、本尊は阿弥陀如来。初め天台宗に属し、開基は坂本西教さかもとさいきよう(現滋賀県大津市)の真盛と伝える。明応九年(一五〇〇)町尻高辻まちじりたかつじ小路の北(現下京区岩戸山町)に住した上柳某が、真盛の弟子となって光順と号し、居住地の南二町の所に、紀州高野山のかや堂を模して一宇を建立して、萱堂と号したが、のち浄土宗に改宗したと伝える。天正一九年(一五九一)豊臣秀吉の命により当地に移転した折、現寺名に改め、正保三年(一六四六)には京大工頭中井大和守の帰依で本堂以下を落成や天明八年(一七八八)の大火に類焼、再建の諸堂も元治元年(一八六四)の大火で焼失した。


蓮光寺
れんこうじ

[現在地名]土佐清水市元町

清水しみず港を見下ろす小山丘上にある。金色山来迎院と号し、本尊阿弥陀三尊。浄土宗。寺伝によれば、承元元年(一二〇七)法然が土佐配流と決まった際、随行した弟子随蓮坊なる者が、川登かわのぼり(現中村市)の奥明星院に仮寓し足摺山金剛福こんごうふく寺に参籠、清水にとどまって清涼院なる庵を結んで住民を教化したのに始まるというが、詳しいことはわからない。

「南路志」に載る文明一二年(一四八〇)三月一五日付の勧進帳は「土州幡多郡以南村の蓮光寺を建立せむと請勧進状」として、「当寺の阿弥陀如来の草創はいづれの時と詳ならず、寄特ハさらに今も絶ざるもの也、海にのぞみて往来の商客を、利益の風をわけて南北の舟人を送迎す」とあり、天文三年(一五三四)には当地域に勢力をもつ土豪加久見土佐守宗孝・以南左衛門宗勝・加久見左衛門尉宗頼によって鐘が勧進奉納されている(「南路志」所引の勧進帳)


蓮光寺
れんこうじ

[現在地名]大野市日吉町

近世大野おおの城下てら町の中央やや南寄りにあり、東に日吉神社がある。遍照山と号し、天台真盛宗。本尊は阿弥陀如来。大野郡司朝倉光玖が延徳二年(一四九〇)頃近江坂本さかもと(現滋賀県大津市)西教さいきよう寺の真盛に帰依して建立した寺で、開山は良尊。大永六年(一五二六)以前の成立という「真盛上人往生伝記」によれば、延徳二年八月頃、越前国大野郡代慈視院光玖(京都建仁寺の僧、朝倉霜台英林の舎弟)が、大野郡の土橋どばし道場(現大野市)で一七日別時念仏および法談を行った。


蓮光寺
れんこうじ

[現在地名]黒滝村大字堂原小字寺垣内

黒滝くろたき川が大きく湾曲する北岸平坦地にある。堂原山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来立像で、寛永六年(一六二九)八月二八日本願寺より下付された。もとは堂原どうげん寺と称する天台関係の古代寺院であったことは「扶桑略記」や「帝王編年記」「元亨釈書」などの陽勝伝の記事で明らかである。すなわち天台僧陽勝は冬は牟田むでん(現奈良県吉野町)、夏は金峯きんぶ山で三年間苦行、初め粒を絶ち次に菜を絶ち毎日粟一粒を服し堂原寺に止住し、ついに仙人となってこの寺を去った。


蓮光寺
れんこうじ

[現在地名]越前町米ノ

こめノ集落東方の北側山麓にある。真宗大谷派、本田山と号し、本尊阿弥陀如来。もと善光ぜんこう坊と号し、真宗高田派であったが、慶長一二年(一六〇七)東派に転じた。同年三月一九日、本願寺教如の下付した親鸞絵像裏書に「越前国入北郡山干飯王余魚浦蓮光寺願主釈善宗」とある。同年三月二一日東本願寺家老粟津右近が蓮光寺門徒に送った寺院免許状(蓮光寺文書)の宛先に「カウノ浄誓御房 ロクロシ惣中 カフラキ惣中 チコタニ惣中 ヌカノ浦道場 ニカイド惣中 ゴバウタイラ惣中 山カレノウエ惣中 タカサ弥左衛門 クリヤ惣中」と記され、惣を門徒化していく本願寺下の寺院成立の状況が知られる。


蓮光寺
れんこうじ

[現在地名]鯖江市下河端町

真宗大谷派。華台山と号し、本尊阿弥陀如来。開祖を佐々木高綱とする。これは折立おりたて(現福井県美山町)称名しようみよう寺の開祖と同族であり、初めは真宗高田派であったと思われ、のち本願寺派となった。天正一九年(一五九一)の本覚寺末寺帳(本願寺文書)に「カハハタノ蓮光寺」とあり、寺蔵の慶長三年(一五九八)七月一四日の検地除地状にも「蓮光寺」とみえる。


蓮光寺
れんこうじ

[現在地名]相川町左門町

台地上の左門さもん町にある。真宗大谷派、厳照山と号す。寺伝によると、越中国高岡の厳照たかおかのげんしよう寺四世徳了が慶長八年(一六〇三)に開基。厳照寺は綽如の三男周覚法印の開基寺で本願寺とのつながりが深く、徳了は天正一〇年(一五八二)紀州鷺森さぎのもり(現和歌山市)の仮本山で顕如の教えを受け、慶長八年に来国。大久保長安から一七間四方の除地を与えられ、佐渡一国宗門の触頭も勤めた。


蓮光寺
れんこうじ

[現在地名]安佐南区祇園町長束

やす川の東岸に位置し、柏原山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。もと天台宗(一説に浄土宗)であったが、明応年間(一四九二―一五〇一)に松陰が中興し真宗に改めたという。旧称は不明で、慶長四年(一五九九)蓮光寺を称する(芸藩通志)。天文二三年(一五五四)六月一七日の上安下安両村内仏護寺領打渡坪付案(「知新集」所収)仏護ぶつご寺領に松陰坊屋敷がみえ、これが前身でのちに現在地へ移ったともいう。


蓮光寺
れんこうじ

[現在地名]宇部市大字東須恵 中野

松郷しようごう八幡宮から旧海岸沿いに北にのぼった中野なかのの台地にある。浄土真宗本願寺派で金竜山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「注進案」によれば、伊藤主水順正の養子、稲葉外記祐道が出家し本願寺の蓮如に帰依、法名を蓮光ともらい山口の湯田ゆだ(現山口市)で教化の後この地に移り一宇を建立したのに始まる。


蓮光寺
れんこうじ

[現在地名]唐津市和多田

和多田わただ西部の山麓にある。福聚山と号し、浄土真宗本願寺派。明応四年(一四九五)創建世戸せと(瀬戸)左衛門佐というものの守護観世音菩薩像を本尊とする。この本尊は盗難に遭い他の寺の持仏となったが、夢想により蓮光寺に帰ったと伝える(松浦拾風土記)

宝暦一三年(一七六三)水野氏が唐津入府して、庄屋佩刀を取り上げるなど従前の庄屋制度の改革に着手した時、領内の大小庄屋は蓮光寺に集まり、藩と対決したが、これを「蓮光寺寄り」という。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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