詩人、彫刻家。明治16年3月13日東京・下谷(したや)に生まれる。父は東京美術学校(現、東京芸術大学)彫刻科教授高村光雲(こううん)。本名は光太郎(みつたろう)。のち自ら光太郎(こうたろう)と称した。初期の筆名に篁砕雨(たかむらさいう)を使ったこともある。幼少時父に木彫技法を学び、1902年(明治35)東京美術学校彫刻科を卒業。続いて西洋画科に進んだ。在学中の1900年に与謝野鉄幹(よさのてっかん)の新詩社に入り、またロダンを知って生命の躍動に力点を置く新しい芸術のありように目覚める。1906年、彫刻修業のために渡米。ニューヨーク、さらにロンドン、パリと移って1909年帰国した。この間、光太郎は西欧の文化・芸術の根底にある人間の根源性に触れ、それを自らの美の立場とするようになった。この立場は、けれども因襲的な日本美術界には容易に受け入れられず、1911年に『光雲還暦記念胸像』を制作したほか彫刻はほとんど発表せず、「パンの会」に入ってその鬱情(うつじょう)を発散した。評論「緑色の太陽」や、詩「根付(ねつけ)の国」などには、その鬱情が挑戦的な形をとってほとばしっている。こうしたデカダンスは、やがて、いわゆる「自然の理法」の発見や、『青鞜(せいとう)』の表紙絵を描いていた長沼智恵子(ちえこ)の出現によって、生の肯定・賛美に向かって収束されてゆく。1912年には岸田劉生(りゅうせい)、萬鉄五郎(よろずてつごろう)らとフュウザン会を結成し、油絵を発表したが、翌1913年解散。詩集『道程』が自費出版されたのは1914年(大正3)10月であるが、ここにはそうした自己定立の苦しい経緯が示されていて人を打つ。智恵子との生活が始まるのはこの年の暮れからである。
以後、彫刻に専念する一方、『ロダンの言葉』(1916)、ホイットマンの『自選日記』(1921)、ベルハーレンの詩集『明るい時』(1921)などの翻訳を手がけ出版した。1921年11月『明星(みょうじょう)』の復刊によって、「雨にうたるるカテドラル」などで詩作を再開、続いて社会現実を鋭くえぐった「猛獣篇(へん)」とよばれる一連の詩を書き始める。これらは力感あふれる口語自由詩体の確かな完成を示している。
昭和に入っての光太郎の生活は、精神を病んだ智恵子の看病と、日本文学報国会詩部会会長に象徴される私と公とに分断される。一方に『智恵子抄』(1941)が編まれ、一方に戦争詩集『大いなる日に』(1942)などが出版された。第二次世界大戦後、疎開先の岩手県太田村山口(現、花巻(はなまき)市太田)で、連詩「暗愚小伝」が書かれたのも、こうした半生を反省してのことであった。これを収めた詩集『典型』(1950)と、十和田(とわだ)湖畔の裸婦立像『みちのく』(1952)が最後の記念となった。1952年(昭和27)日本芸術院第二部(文学部門)会員に推挙されたが、これを辞退した。昭和31年4月2日没。花巻市太田には高村光太郎記念館がある。
[安藤靖彦 2017年1月19日]
彼はロダンに学んだヨーロッパの近代造形思考と、幼少時から身につけた伝統的造形手法との相克を鋭く追求し、『造型美論』(1942)にみられるような、面・量塊・動勢・肉づけを四因子とする、本格的な彫刻理論を結実させた。そして、寡作ながら『手』『裸婦坐像(ざぞう)』『黒田清輝(せいき)像』など密度のある佳作を生み、さらに『鯰(なまず)』『桃(もも)』『蝉(せみ)』などの木彫にも新生面を開いている。
[三木多聞 2017年1月19日]
『『高村光太郎全集』全18巻(1957~1958・筑摩書房)』▽『北川太一編『高村光太郎資料』全六集(1967~1972・文治堂書店)』▽『草野心平編『高村光太郎研究』(1959・筑摩書房)』▽『伊藤信吉編『高村光太郎研究』(1966・思潮社)』
詩人,彫刻家。木彫家光雲の長男として東京下谷に生まれた。東京美術学校彫刻科,同研究科卒。在学中から新詩社に属して《明星》に短歌を発表。1906年彫刻修業のため渡米,さらにロンドン,パリに遊学,09年帰国。愛する父光雲も含めた既成美術界の俗物性,派閥性に対する義憤,自我の自由な発露への渇望から,激烈な筆鋒をふるって個性の無限の権威を主張する。《緑色の太陽》(1910)は当時の代表的美術論である。精神的苦悩と彷徨の中で〈パンの会〉のデカダン的交友に身を投じ,盛んに詩作する。11年には《青鞜》に表紙絵を描いていた長沼智恵子を知り熱愛,14年に結婚する。同じ年,日本口語自由詩の最初の大きな収穫たる《道程》を刊行。〈私はこの世で智恵子にめぐりあつたため,彼女の純愛によつて清浄にされ,以前の廃頽生活から救ひ出され〉(《智恵子の半生》)と智恵子没後の回想に書くように,二人の結びつきは運命的であった。高村は智恵子を通じて善悪美醜の別を超えた生命の大いなる躍動と調和の世界を見たが,智恵子はやがて精神分裂病(統合失調症)を発病,死に至る。《智恵子抄》(1941)はその至純にして悲劇的な愛の産物である。41年太平洋戦争勃発とともに,積極的な戦争詩の作者となり,青年への影響力も大きかった。彼の内面に潜在していた西洋への劣等意識が反転してそのような形をとったとも考えられるが,戦後自己処断のため疎開先の岩手県花巻西郊で7年間山小屋の自炊生活を送る。その孤独の中から詩集《典型》(1950)が生まれた。52年東京に帰り,翌年十和田湖畔に建立の裸婦二人像を完成したが,古くからの肺結核が悪化,56年4月2日死去。73歳。
執筆者:大岡 信
高村は幼少時から父に木彫を学び,東京美術学校で塑造も学んだ。在学中ロダンに関心をもち,欧米遊学中にはヨーロッパの諸芸術思潮,とくにロダンに強く触発された。荻原守衛とともに日本の彫刻に本格的な近代の扉をひらいた。前記の《緑色の太陽》のほか,編訳《ロダンの言葉》《造型美論》など文筆にも活躍した。代表作《手》《裸婦坐像》《黒田清輝像》などのほか,《桃》《鯰》《蟬》など木彫にも新生面をひらいた。
執筆者:三木 多聞
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明治〜昭和期の彫刻家,詩人
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(菅原克也)
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1883.3.13~1956.4.2
大正・昭和期の彫刻家・詩人。東京都出身。父光雲は著名な木彫家。東京美術学校彫刻科卒。1900年(明治33)新詩社に入り「明星」に短歌を発表。06年渡米,パリに移り09年帰国。旧体制との衝突,デカダンスをへて長沼智恵子に救済される内面の変革は,14年(大正3)刊の詩集「道程」に結実した。ほかに「智恵子抄」,第2次大戦中の戦争協力の態度を処断した「典型」,翻訳「ロダンの言葉」。彫刻「手」「裸婦像」。
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…明治末年になると,南薫造(みなみくんぞう)(1883‐1950),有島生馬,山下新太郎(1881‐1966)らの新帰朝者たちによってさらに刺激が与えられ,明るい色彩,大きな筆触を特色とする印象派風の外光表現は,日本洋画の確固とした一つの流れとなった。印象主義の運動および理論については,黒田,久米のほか,森鷗外,島村抱月らによって紹介され,1910年には,高村光太郎の〈緑色の太陽〉が《スバル》誌上に発表されて,日本における印象主義宣言といわれた。しかし,色彩の主観的表現を重視する高村の考え方は,表現主義的傾向が強く,印象派の導入がその後の前衛絵画運動と結びついていった日本の特殊性をよく示している。…
…東京美術俱楽部は東京のほか大阪,京都,名古屋,金沢に俱楽部をもち,入札競売のほか毎年〈五都展〉を開く。一方,洋画商の草分けは1910年,高村光太郎が開いた琅玕堂(ろうかんどう)で,大正初期に田中喜作の田中屋,川路柳虹の流逸荘,野島康三の兜屋がつづく。昭和初期に牧師出身の長谷川仁がはじめた日動画廊は,戦前は上海,戦後はパリをふくむ10都市以上に支店をもった。…
…高村光太郎の詩集。1950年刊。…
…高村光太郎の第1詩集。1914年(大正3)刊。…
…39年に同工房を退社し,〈国際文化振興会〉の嘱託として,大型カメラによる室生寺,文楽等の撮影を開始した(のち写真集として出版)。また43年には,初め雑誌《写真文化》に掲載されのちに写真集《風貌》(1953)に収録された,画家,作家等のポートレートによって〈第1回アルス写真文化賞〉を受賞,このとき高村光太郎は,土門の写真について〈土門拳の写真はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく〉と評している。…
… 一方,明治美術会には長沼守敬,菊地鋳太郎(1859‐1944),大熊氏広が参加して彫塑部が置かれ,99年には岡倉らの去った東京美術学校に洋風彫塑の課程が置かれた。美術学校彫塑科の初代教授に長沼,まもなくそのあとを藤田文蔵が継ぎ,白井雨山(1864‐1928),渡辺長男(1876‐1952),武石弘三郎(1878‐1963),高村光太郎らが育つ。彼らは青年彫塑会(1897結成)に拠り,木彫家をもまじえて技術上の交流をはかった。…
※「高村光太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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